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レース編みの光を浴びて

午後の光というのは、どこか穏やかなようでいて情熱を秘めていたりするので、なんとも好ましいなあと思う。

桜が散ったあとの季節の太陽の光は、春にしてはやや強すぎて、夏というにはまだまだ未熟だけれど、私にはちょうどいい。やさしくてほがらかでさわやかで。風がぬるくて気持ちがいい。木かげがひんやりしていて気持ちいい。

大体、季節というものは総じてたちが悪い。季節は私の手をとって巧みにエスコートし、心底楽しそうに踊ってくれるけれど、こちらがその気になってきたころには、私の手の甲にキスをしてチャーミングなウインクを浴びせ、次のダンスの担い手に私を引き渡してしまう。

春は軽やかに、夏は鮮やかに、秋はしとやかに、冬は清らかに私を誘惑し、ときどき泣かせるほどのよろこびをもたらしたり、笑うしかないほどにさびしくさせる。

そしてその繰り返しで1年が経ち、やがてまた同じ踊り手が私のもとへ戻ってくる。ある季節は私の顔を見てばつが悪そうに微笑んで見せる。肩をすくめる者もいる。耳もとに口を寄せて秘め事を囁く者もいれば、何も言わず再びそっと手をとるだけの者もいる。

私は、ああ、帰ってきてくれたの、また私と踊ってくれるのね、ときれいな顔で笑ったり、どうして私を置いて行ってしまったの、いじわるね、あなたのことがこんなに好きなのに、と皮肉を言ったりする。

そうやって四季に踊らされながら(ときには、四季たちの合間にやってきて私の相手をしてくれるもっと細やかな季節たちの虜になりながら)、私は確実に年をとっていく。幼女から少女に、少女からひとりの女に、そしていつかは年老いた女性に。

そして私はいつの日か、過去にいくたびも踊ってくれた、いずれかの季節の手を握りながら息絶えるだろう。その季節は私が生まれるときに私を抱きとめていてくれた季節と同じかもしれないし、まったく違っているかもしれない。

ただ、おそらく、私にその季節を決めることはできないだろう。私は自分がいつ死ぬのか知らない。知らないままでいいのだ。願はくは、花の下にて春死なむ…などと言って、本当にそれが叶ったひともいるけれど、私が同じようになれるかは分からない。

だから、どの季節と最後の時間を過ごすことになっても、私は彼(あるいは彼女)に最大の敬意と愛情を持っていたい。あなたが私をもうひとつ先の世界へ送り出してくれるのね、ありがとう、とこころからお礼を言いたい。

そのために私はこれからも、入れ替わり立ち代わり私の手をとる季節たちと寄り添って踊ってみせる。

今は毅然とした態度を貫き、12時の鐘が鳴る直前のシンデレラのように、彼らが一方的に私を置いて行ってしまうのを、黙って唇を噛みしめて見送る。それしかできっこない。

だって最後は必ず彼らが私を送る側に、そして私が彼らに送られる側になってしまうことを、私も彼らも、どこかで否応もなく知っているのだ。

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