言葉の標本、もろくてきれい
春ごろから、今まで書いてきたnoteの記事を少しずつプリントアウトしている。
数年間にわたって書いてきた、140ほどの記事をわざわざプリントアウトした理由のひとつは、電子データのみではなく形あるものに文字を印字して残すのもいいなと思ったから。
もうひとつは、単に自分が書いてきたものを紙媒体で読み直したくなったから。
そしてプリントアウトするのに加え、私は自分の書いてきたnoteのタイトルとそれを投稿した日付、時間をノートに書き写している。
プリントアウトしているのにもかかわらず、自分の手を使ってタイトルを全部写しているのには訳がある。自分の言葉の傾向をタイトルから知りたかったというのもあるけど、純粋に、タイトルの言葉を書き写したかったからだ。
これは前に書いたかどうかさえ忘れたような、すごく些細でくだらないことなのだけど、私には昔から、うつくしい言葉や単語をノートにメモして楽しむという習慣があった。
このひとの言葉の用い方いいな、この単語すごく好きだな、と思うような対象を見つけると、それをすぐノートに書き記すのだ。
この習慣は、どこかで読んだり聴いたりして知った、気に入った単語たちを手帳にメモすることから始まった。
たとえば国語の教科書の後ろのほうには大抵、特殊な読みの漢字が集められたページがある。梅雨、七夕、紅葉、日和、東雲、十六夜…そこにはいつでも美しい言葉がたくさん並んでいた。私は国語の授業中、読んでいる教材に飽きると、こっそりそのページを開いてはうっとりと眺め、広げてある授業用ノートの隅に書き写していた。
国語だけではなく、すべての科目は言葉の宝庫だった。
たとえば理科の資料集に載っているすばらしい月の地名は、授業中の私を静かに興奮させた。数学で使われる記号には、ファイやシグマやインテグラルなんていう変わったやつらが出てくる。
社会で世界史を勉強すれば、格好いいカタカナ言葉と大量に出会う(日本史は言わずもがなである)。英語をやれば、日本語の事物の英名を知れるし、そもそも知らない単語や英語特有の言い回しが続々と登場する。
そして私は、なんかいいな、好きだな、と思った言葉をその都度ノートに書き留める。
和風月名や二十四節気、源氏物語の各帖の名、うつくしい宝石や花、色の名前、お天気や天文学にまつわる用語、山ほどある音楽記号とその意味、読んでいた小説の一文や目次の言葉の並び、聴いている曲の歌詞、なんていう風に。
おそらく私は単に文章を読んだり書いたりするだけではなく、見聞きした魅力的な言葉を集めること自体が好きだったのだろう、と思う。つまり、言葉蒐集家だったというわけ。
さらに私は、自分の気に入った言葉をいつどうやって使ってやろうか?ということを考え、常にその機会を探していた。
だって言葉は知るだけでは自分のものにはならない。使って初めて自分のものになるのだ。
私たちが言葉と呼ばれるものを扱うときには、話す、聴く、書く、読むという4つの行為が主軸となる。だから国語科教育の学習指導要領も、基本的にはこの4つを柱として考えられている。
そしてそのうちの「書く」という行為は決して受動的なものではなく、どちらかといえば能動的なものでさえある。
書くということは自分の中にあるものを外側へ出して表現することでもあるから、読むことと同じくらい書くことも好きだった私が、新たな言葉を知るたびに「この言葉をいつかどこかで必ず私の何か(書きもの)につかってやる…」と息巻いていても、それはごく当然なのではないだろうか。
だからか、私には好きな言葉や単語がいっぱいある。
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ちょっとお話が脱線するので、ここは読み飛ばしていただいても構わないのだけれども、できれば暇なときにでも読んでみてほしい。
去年の秋ごろ、大学のみんなとごはんを食べに行く道すがら、歩きながらしりとりをしているときに「私、昔からアップリケって言葉好きなんだよねえ」と言ったら、「おまえ、アップルパイも好きだろ」と返されて仰天したことがある。
「ええッ!好きだよ!なんで知ってるの?」と質問したら、「そうだと思った!おまえ、パ行好きだろ」と笑われ、「たしかにパ行は好きだけど…は行も好きだし…」などと返したことがある。
そう、私には感覚的に好きなあいうえおの行がある。「どの行が好きですか?」と尋ねられて答えるのは、いつも、は行と、ら行。
それらを好きな理由はここでは直接関係ないので記述しないけれど、とにかく、それら好きな行を構成する文字が入っている単語は、なんとなく好きらしいのだ。
しかし、こういうのはかなり感覚的なお話になってくるので、私がアップリケという単語が好きと言っただけで「おまえアップルパイって言葉も好きだろ、なんならパ行好きだろ」などと言えるような相手は、じつはそれほど多くない。
こういうのは分かるひとには手に取るように分かるし、分からないひとはきっとさっぱり分からない類のものだろう。
「アップリケって言葉が好き」などと言っても、基本は「ふう〜ん?そうなのね」となるか、「こいつは一体何を言ってるんだ?」ってなっちゃうようなものなのだと思う。
それで思い出した!
私のフォローしている白桃ふみさんという方が、去年、あいうえお表の行によって色のイメージがある、というお話をしておられたのがすごくおもしろかったので、興味がある方はぜひ読んでみてくださいませ!
上に貼り付けた記事の次に投稿されている「カラフル言葉」というnoteには、この内容をさらに掘り下げた文章がありますので、そちらもぜひ…!私の大好きな記事です。
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お話脱線から戻る。
とにかく、私には心惹かれる言葉をノートに書き写して恍惚とする癖のようなものがあるらしい。それに気づいたのはごくごく最近ではあるのだが、とにかくそうらしいのだ。
そして集めた言葉のかけらたちを用いて、いかに自分のnoteの記事のタイトルを宝石箱のようなものにするか、ということが、ここで文章を書く上での私のいちばんの楽しみなのだ。
ノートブックに書き写したnoteのタイトルたちを眺めていると、「もっとふさわしい言葉があったんじゃない?」というのもある。
けれど私のnoteを飾る、いわば目次のようなタイトルの言葉たちの並びは、それなりに満足いくものだ。なかなか悪くない。なんなら好き。
そりゃあ私が好きな言葉を使ってるんだからそうか…
しかも、noteは写真を選択できるので、その画像とタイトルの組み合わせでもいろいろ表現できる。流れてくる他のクリエイターさんの記事を読んでいても、その画像にその言葉を合わせてくるのか…!ふむ…!となって、とても楽しいの。
何度でも言うけれど、私のnoteは、私の日々や愛するひとびとの記録を目的としている。
それは言ってしまえば、たとえ記事の内容や内容とタイトルの繋がりが読み手にはいまいち分からなくとも、私が自分で見たときにある程度分かり、ある程度何かについて思い出せればいい、ということでもある。
もちろん、ここでの文章は誰かの目に触れることを前提としているから、古典で言う日記文学のようなものなんだけれども、私が他の誰のためでもなくて自分のために文章を書いていることは、やはり隠しようもない事実だ。
書いた文章に丁寧にタイトルをつけること。
それは持っている思い出を、時間をかけて鉱物のように結晶化したあとで、ひとつずつ瓶の中に入れてリボンをかけ、その瓶に名前をつけていくことと同義だ。私はラベルとその中身を眺めてはうっとりする。まるで標本みたいに。
けれどときどき中身を取り出して陽に透かしてみたり、口に入れて味わってみたりする。そうやって、瓶に与えられた名を眺めているだけでは思い出せないことを私は思い出すのだ。
そういうことを私はこの数年間、せっせとnoteでやってきたし、これからも続けていく。
そしてそのためだけに、私は日常生活の中で私好みのとびきりの単語を集めていく。まるで海へ行ってきれいな貝殻を拾うように。
そしてここぞというときには惜しげなくその言葉たちを私だけの、もろくてうつくしい思い出を標本にするために使うのだ。
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