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#出版社社員が選ぶ本 8月 積読本「次のお休みにでも…と思いながら手をつけられずにいる積読本」社長編

みなさんこんにちは。青月社編集部です!🌝

東京もだいぶ涼しさを感じられる天気が増えてきましたね。

というのも、9月に入って10日も過ぎてしまっているので
8月のテーマ「次のお休みにでも…と思いながら手をつけられずにいる積読本」の投稿をするには遅すぎるかしら…なんて思ったのですが、

9月はなんと祝日が二日間もあるんですよね!☺️

ということで、8月の本紹介のテーマ「次のお休みにでも…と思いながら手をつけられずにいる積読本」に、もう少しだけお付き合い願いたいと思います。

8月テーマ、積読本の紹介の最終回は青月社社長からのご紹介です。

📕📗📘📙

📕『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』
✒️ 東浩紀
新潮社(1998)

『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』
著/東浩紀


カッコイイものに憧れてしまう。

高校時代に倫理を選択していた私はフランスの構造主義のかっこよさに引き込まれ、レヴィ=ストロースやフーコーなど(の解説書)を読んでは、友人達とそれら周辺の話しをしてなんだか気分良くなっていたものである。で、社会人になってそこから遠ざかったころ、東浩紀著『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』が発売され、カッコイイものへの憧れが久しぶりにふつふつと湧きあふれ、2,000円で購入。


しかし5ページも読めず、挫折、積読となり、今でも栞紐は5ページ目にしまわれている。

日本語が読めないとはなんとも不思議な感覚で、まるでお母さん達の立ち話がちっとも頭に入ってこない5歳児のようになすすべもなくうなだれてしまう、日本語がわからないもどかしさ。

子どもは成長するが、果たして私はこの本が読めるまでに成長できるのか?(青月社社長)

📕📗📘📙

デリダって何をした人…?という方のために、この本の冒頭におけるデリダの歩みの確認についての記述を引用しますね。

デリダは1930年にアルジェリアで生まれた。そしてのち「脱構築 deconstruction」 というキーワードで呼ばれることになる彼の哲学的仕事は、60年代前半、つまり30歳を過ぎた頃にパリで始められる。それは基本的にフッサール研究から始まっている。しかし当時の彼はすでに、現象学的な語彙と問題設定に大きく依拠しつつも、そこに限定されない幅広い問題について優れた考察を続けざまに発表している。67年に出版された三著作を契機にその仕事は急速に評価を獲得し、70年代に入るとその影響力はさらに拡大する。そしてその頃からデリダは、一方でフランス語という言語的境界、他方で「哲学」という制度的領野をともに逸脱し始めることとなる。そこでは一方で彼の仕事は、英語圏、おもにアメリカの人文系アカデミズムにおいて急速に受容され、70年代後半には「脱構築」はひとつの知的流行にまで成長する。と同時に彼自身の関心は、詩や絵画から始まり建築やヴィデオアートにいたるまで、多様な芸術的実戦の場に開かれていく。そしてこの世界性と脱領域性によって、80年代初めまでに、デリダは「ポストモダン」を先導する哲学者のひとりとして広く認知されてしまう。しかし「ポストモダン」という語の非政治的含意に抗するデリダは、そのころから逆に、今度は政治的・社会的問題への関心をしばしば示すように変わっていく。その結果80年代中期以降、とりわけ90年代に差し出される「脱構築」は、もはや哲学的厳密さや美学的応用可能性の観点からでは捉えられないものとなる。むしろデリダがそこで強調するのは、脱構築の実践が含意する政治的ラディカルさである。その実践として彼は例えば、社会主義体制下のチェコでセミナーを行い、獄中のネルソン・マンデラを支持し、アルジェリアの政治弾圧に抗議する声明を発表している。 

『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』p.6-7
第一章「幽霊に憑かれた哲学」冒頭

私新人編集Kは、デリダに師事し、デリダ研究者としても知られる藤本一勇先生の講義を受けた際に初めてデリダの名前を知ったように記憶しています。
当然難しいと感じたけれど、楽しさを感じられる講義でした。

あー、もう一度大学生やりたいなあ、と思う今日この頃です。
大学生のみなさんは、まだ夏休みを過ごしているでしょうか。羨ましい!戻りたい!どうか目一杯楽しんでくださいね。そして、たまには本を読んでくださいね!(笑)

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