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映画『私の知らないわたしの素顔』を観て

中高年の恋愛サスペンス映画。
50代以上、必見かな。
若いひとで、これを観て「おもしろい」と言えるひとは、よっぽどの文学好きでしょうね。

映画の冒頭、中高年男女の夜の寝室が赤裸々に、しかし美しく撮られている。
こういうシーンを撮れるのがフランス映画なのだ。

なりすましというテーマ

主人公は比較文学を専攻する50代の女性大学教授(ジュリエット・ビノシュ)。結婚・出産・離婚と、人生フルコースを経験。
その彼女がSNSで知り合った20代の男性に、恋をする。
彼女は20代のふりをして、〈なりすまし恋愛〉を楽しむ。
なりすますことで、すなわち偽りの仮面をかぶることで、新たに生まれる自分を発見して、「本当の自分らしさ」を楽しむ。

映画の前半、その〈なりすまし恋愛〉はある決着をみる。
映画の後半、主人公の女性は自分の経験を題材に小説を書く。
そして小説を書くことで、また新たな偽りの仮面をかぶり、新しい自分自身を見いだす。
しかし精神分析医は問う。小説なのだからどのような自分だって自由に設定できるのに、何故、こういう自分なのか、と。
その問いに対峙したとき、彼女が隠していた、ある事実が明かされる。
これ以降のストーリーはネタバレになるので、ここでは書かない。

女性の自立というテーマ

主人公は社会から与えられた役割・規範から解放されたいと願い、戦う。
決して「自分は弱者だから善で、自分に反対するものは強者だから悪だ」という、こんにちの日本のフェミニストにありがちな二項対立のロジックを振りかざさない。
むしろ主人公は黙々と、自分自身との戦いを展開する。

僕は戦うひとを無条件に応援するので、基本的には「がんばれ」と思う。
けれどもこの戦いの大義・目的には賛同できない。
社会から何らかの役割(良き妻・良き母・良き大学教授)を期待されているならば、それで素直によろこべばよいではないか。何故、そこから解放されたいなどと思うのだろう。僕はキリスト者だからかもしれないが、神が自分に与えた役割・使命をまっとうできれば、それで幸せだと思っている。たとえうまく使命を果たせなくても、神は許して下さると信じている。

でも、まあ、いいや。彼女には彼女の生き方があるのでしょう。
ところが、主人公は自立・解放を望むにもかかわらず、「見捨てられたくない」などと甘ったれたことを言う。
矛盾している。
おそらくその矛盾を彼女自身わかっていて、そしてそれが悔しいのだろう。
でもその悔しさも含めて、正直に主人公が自分自身を見据える姿勢に、僕は好感を抱いたのであります。
偽りと正直の絡み合い、これはハリウッドには描けないでしょうな。

まとめと蛇足

つまりこの映画は、メディア(SNS・小説・映画)のチカラを縦糸に、女性の自立を横糸に、現代人のアイデンティティを主題としたのでした。

たいへん勉強になりました。
女のひとはこういう〈心もち〉なのかあ、と学ぶことができました。
僕のような武骨な男にはまったくの異世界を勉強する好い機会でした。
実に有意義でした。

それにしても女のひとって複雑でいらっしゃるのね。
もっと単純明快に捉えることができるはずのことを、わざわざ複雑怪奇にしている気もしないではない。
まあ、そういう女性を可愛いと思ってしまう僕自身も、なんなんでしょうかね。

ふたつ、思い出したことがありました。
ひとつが、僕が某女子短期大学に奉職していた頃の、女性の同僚たちの立ち居振る舞いです。
彼女たちは同僚と接するときと、学生と接するときとで、声色が変わるのですよ。
つまり教授会の会議室と講義をする教室とで別人になる。仮面をかぶる。
僕はそこに〈嘘〉を感じて、彼女らを忌み嫌いました。
もしかしたら同僚の女性たちは、役割分担ゲームに最適な反応をすることが社会性であると、理解していたのでしょうね。

もうひとつが、映画の舞台となったパリの街です。
例えばフランス国立図書館(BNF)。僕がしばしば通うところです。主人公がちゃんとSalle Vを使っているところが心憎い。(Salle Vはフランス文学。Salle Kは哲学。Salle Lは歴史学などなど、専攻で場所が分かれているのです。)
べつにどうでもいいことですよね。すみません。蛇足でした…。

どうぞご覧ください。アマゾンプライムで観ることができます。

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