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旧西ベルリンで、トルコ人の経営する、ギリシャ料理屋に連れて行ってもらった話


昔ばなしをしようと思います。

むかしむかし、ドイツという国が、西と東のふたつにわかれ、
現首都ベルリンも、壁によってふたつに分かれていたことがありました。

その後いろいろあって(雑!)、
1989年11月、壁が突然両市民たちにとって意味がなくなり、
人々の手で倒され、
「これからは世界がひとつになる、平和な時代がやってくる…!」
と、人々が世界中でユーフォリックな気持ちに包まれていたころのお話。
はじまりはじまり〜♪

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1990年2月初旬、
当時大学4年生、ポンコツ学生だった私は、
落としたら留年というレポートを徹夜で書き上げ、
一睡もせぬまま、
卒業旅行とかこつけた人生二度目のヨーロッパ貧乏旅行へと
なんとか旅立ったのだった…!

当時在住の福岡からヨーロッパへの最安値は、
ソウル乗り継ぎ、
アンカレッジ経由の大韓航空便。
(南回り、北回り、懐かしいね!わからない人はググって♪)

パリに着き、友人とふたりそのままその晩夜行列車でベルリンへ。
ヨーロッパの長距離列車は幅広で、個室形式なので
席さえ確保できれば夜中も快適なのだ。
スマホやネットのない時代、
寝たり座ったり食べたり景色をぼんやりと眺めたり、
おしゃべりしたり途中乗り換えたりして
確かお昼すぎにベルリンに到着。
まずは『地球の歩き方』で目星をつけていたユースホステルへと
地下鉄を乗り継いで向かい、チェックイン。
何度でも言うよ。
スマホやネットのない時代。
ホテル予約サイトで指一つで予約など、夢のまた夢どころか
想像もできない時代…。

1ヶ月の長旅の荷物をユースホステルに預け、
まず目指したのは、
当時流行っていた映画『ベルリン天使の詩(うた)』で印象的だった
戦勝記念塔のある公園。
旅の間は高揚していて、疲れを感じることは少ないのだけれど、
徹夜に加えて飛行機、鉄道の車中泊2日、
しかも、生理の真っ只中…
ということで、
旅の間は元気な私も、さすがに腰をやられ、
歩けなくなってしまったのだった…!

これから1ヶ月とちょっとの貧乏旅行。
そのしょっぱな、こんな贅沢はありえない選択だったが、
友人に懇願してタクシーを拾うことに。
すぐに捕まったタクシーは、若いお兄ちゃんのドライバー。
日本から来た女子二人組がめずらしいのか、話がはずんだ。

ユースホステルに泊まっていると伝えると、
「あんなところ!遠くてなんにもないところでしょ!
そこ、みんなに砂漠って呼ばれてるよ(笑)!」とか言う。
確かに西ベルリンの一番はしっこの、森の中に位置していて、
地下鉄も、乗り換えあり、終点から数えて2つ目という立地だった。
最寄りの地下鉄駅までのつもりが、
遠いでしょ?って、彼の好意でユースホステルまで送ってもらった。

で、話がはずんだついでに、
翌日、彼の仕事が終わってから、
仕事でなく友達として、ベルリンを案内してもらうことに
なったのだった。

これ、今思えば
騙されて泣き寝入りするフラグ立ってるやつ!
…にしか見えないやつですが、
こっちは女子とはいえ2人だし、
このお兄さん、どう見ても悪い人には思えず、
結果、ほんとうにただの気のいいヒトだった。
(この旅の中で、後ほど本当にうっかり騙され体験inモロッコもあったのだけど、これはまた後日…)

まずは、夕暮れの中、西ベルリンをぐるりとタクシーを走らせてくれた。
印象的だったのは、オリンピックスタジアムのことを、
「昔クレイジーなヤツがこれを作ったんだ」と。
言うまでもなく、第二次大戦直前の、ベルリンオリンピックのために
ナチスドイツによって建設されたスタジアムのこと。

夜になり、
オススメのドイツ料理のお店をリクエストするも
「一番のドイツ料理は家庭料理だから」と却下され(え〜!)、
彼の友人のやっているお店に行くことになった。
その前に、お店の近くだからと彼のアパートに案内してもらう。
彼は、本業は家具を作るアーティストで、
アルバイトとしてタクシードライバーをやっているのだという。
元々の出身はベルリンではなく、合法的に徴兵拒否ができるので
ベルリンに住んでいるのだった。

そう、その当時、世界は東西冷戦の時代。
ヨーロッパの殆どの国には徴兵制があったのだ。
日本は戦後、経済成長と引き換えの思考停止で、
平和な世界に生きていることになっていたけれど、
世界はこの2つの超大国の微妙なパワーバランスの上のかりそめの平和に依っていたのだった。
東西に引き裂かれたベルリンは、
まさにその東西冷戦のシンボリックな存在。
当時の西ベルリンは周りを全て東ドイツという別の国に囲まれた陸の孤島。
このままでは人口も減少し、街も衰退してしまうので、
国として若者を引き寄せるためにそういう政策をとっていて、
西ドイツ中から、
反戦を訴え、また自由を求めるボヘミアンな、
アーティスティックな人々が
集まる解放区みたいになっていて、
彼もそのひとりだったのだ…!

彼のアパートのある地区は、クロイツベルク。
後に知ったのだけれど、トルコ移民の多く住む街で、
家賃が安く、アーティストたちも多く住んでいるところ。
果たして、彼の友人のお店というのは、
トルコ人による、ギリシャ料理のお店であった。

そして、お店に入ると、
もう…
それはびっくりするくらいの歓待が待っていた!
日本から来たのか!!!って、すごく喜んでくれて。
何度も何度も、乾杯して!
お腹がはち切れそうなほど、料理が出てきて!
どの料理も、とても美味しくて…!

たくさん飲んで、酔っ払って、
何を話したかはほとんど覚えていない。
ただただ、楽しい時間だった。
ひとつだけ、覚えていることがある。
なぜ、トルコ人なのにギリシャレストランをやっているのか、
という素朴な疑問をぶつけてみた。
すると
「トルコレストランだと人が来ないから。
ギリシャって言ったほうが受けがいいんだよ」
と。

当時は、まったく意味がわからなかった。
なぜベルリンに、旧西ドイツにトルコ人が住んでいるのか。
なぜ、ギリシャレストランという看板でなければならなかったのか。

高校で世界史をろくに勉強していなかった私は、
ロンドンでインド系の人を、パリでアラブ系の人を目にして、
元植民地から人々が移民してきているダイナミクスに感動し、
旧西ドイツとトルコの関係もそうなんだと思いこんでいたほどのポンコツだった。
トルコがドイツの植民地だった歴史などあるわけもなく、
ざっくりいうと、
オスマン帝国は第一次大戦で敗戦し、トルコ革命が起こり、ギリシャ戦争などを経てトルコ共和国樹立へと至る。
そして、第二次大戦後、労働力不足に悩んだ西ドイツがとった解決策が、
関係の深いトルコから一時的に労働者を呼び寄せること。
結果として移民として多くのトルコ人が旧西ドイツに住むようになるが、
多くは低賃金の、または危険な仕事につくことが多く、
文化の違いや言葉の壁の問題で、差別や軋轢は今も続く。

私たちはただただそのお店のトルコ人たちに
歓迎され、歓待され、
夜は更けていった。
どうしても、お代を受け取ってもらえなかった。

そしてほろ酔いのお兄さんの運転するタクシーで
郊外のユースホステルまで無事送り届けてもらったのだった。

当時はネットのない時代(しつこい!)。
SNSで「友達」になるでもなく、
メールアドレスを交換することもなく、
Google mapに☆をつけることもなく、
私たちは別れた。

その年の秋には、東西ドイツが統一する。
ベルリンの壁崩壊を誰も予想していなかったように、
そんなに早くドイツの再統一が実現するなんて、
当時誰が想像できただろう。

あのお兄さんは、あのあと家具職人として、独り立ちできたかな。
あのギリシャレストランは、あれからどうなっただろう。
再統一後も、ベルリンは首都にしては生活費が安く、
アーティストや活動家や様々な人々を受け入れ続けてきているが、
代表的なトルコ人街だったクロイツベルクも、
最近はお洒落スポットになり、家賃も上がっているという。

たった数日のベルリン滞在。
もう30年も前のむかしばなし。
私の心の中では、今でも昨日のことのようにいきいきと思い出せる。

その後トルコに興味を持ち、言葉も独学し、たくさん本も読み、
4年前にやっと初めてトルコを訪れた。
想像以上の歓迎と歓待の日々だった。

時空を超えて、
図らずもトルコの方々とのご縁があったこの巡り合わせの不思議に
思いを馳せている。


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