見出し画像

あまりにも細分化されていない「まちづくり」

この間、「まちづくり」を専門にして学んでいる同級生と、カフェで2時間ノンストップで語り合った。

雑談も交えながらいろんな話をしたけれど、その中で得られた「まちづくり」についての新たな知見があったので、ここでアウトプットしようと思います。


その前に、なぜ教育学部の私が「まちづくり」にある程度の興味があるのかというお話。

私は、自分の生まれ育ったまち、学生時代を過ごしているまち(どちらも近いまち同士だけれど)が好き。

中高校生のとき、地域のイベントとかに行くことがよくあって、その度にいろんな先輩や大人に出会い、よくしてもらった。

地元の魅力や、人の良さを知るたびに、「私も将来大人になって、地域に何かを還元するとしたら地元にだろうな」といつの間にか思っていたし、
高校生のとき、留学をするための申請書類にもそのように書き、
そのまま大学も地元に残って、今まで築いてきたつながりを大事にしながら学んでいる。

これだけじゃなくて、言葉にできない「なんとなく好き」という感情はきっとここにもあるけれど、

こういった今までの経験をふまえて、大好きな地元が廃れてほしくないなあとか、ここに還元したいなとか思うからこそ「まちづくり」が大事だと思うのかもしれないし、

今まで読んできた本や勉強してきたことの影響によって、都市の過激な人口集中に疑念を抱いているからこそ「まちづくり」が大事だと思うのかもしれない。


あとは大学に入ってから「まちづくり」に一層の興味を抱いたのは、同じ大学内に「地域創造」なる学部が存在するからだった。

地域をよりよくするために学んでいる同級生たちが周りにいて、話を聞いていたりするとすっごく面白い。

これらが、私がまちづくりに興味を持っている理由。


そんな中、私はこの間「まちづくり」について少々思うことがあって、私は彼らの門を叩いたということだった。


なにが気になったのかというと、「まちづくり」って言葉の曖昧さがときには齟齬を引き起こすんじゃないかということ。

私は生まれ育ったまちが好きで、日々行動したり学んだりしているなかで、まちのためになることを考えたり、あるときはイベントに参加して議論してみたりゴミ拾いしてみたりしている。

けれど、別に、青少年議会とかに入ったりして意見を直接投げかけたり、政治的な面からまちづくりをサポートしたりしているかと言われればそうではない。

この間、「中高生の時からまちづくりに関わりのあった人、集まりましょ〜」みたいな会に呼ばれることがあって参加したんだけど、そこで集まってきた人達は今までに「青少年議会」とかを経験していた。
どちらかというと「政治的な面からまちづくりを考えている」人たちで、参加者のなかでこんなに曖昧にまちづくりについて考えているのは多分私だけだった。

そこで初めて私は自分の今までしてきたことに一気に自信がなくなったというか、
私なんかが「まちづくりに関わってた人」と呼ばれるのはおかしいんじゃないかと思っちゃって、
改めて、
「議会に参加することだけがまちづくりなの?」とか
「どこまでの行為がまちづくりと呼べるんだろう。私の今までしてきたこと、これからしたいことはもしかしてまちづくりではない?」

とかいろんなことがモヤモヤになって、「まちづくり」の曖昧さに改めて気付かされたのでした。


そう思って考えてみれば、教育って、「教育について関わりのあるひと、集まりましょ〜」って言われて招集されることって、多分あんまりない。

「教育」という一括りの仕方はあまりにも大雑把で、なぜならそこには小学校の先生から大学の先生、あらゆる教科の先生、子どもと関わるいろんな施設の大人、あるいは先生とすら呼べない「コーチ」や「上司」「親」だって「教育について関わりがあり、考えている人たち」として含まれているからだ。

もっと分野やテーマを絞らないと、招集しても齟齬が生じるのは当然だ。

教育だったらその違和感にすぐ気づくのに、「まちづくり」では気づかなかった。

そういうところに、私自身の勉強不足と、そもそもの「まちづくりの曖昧さ」が存在するのかなあと…。


こういった私なりの考えを、私は同級生に向かって淡々と喋ったのだ。

そしたら彼もそれにはすごく頷いてくれて、そしていろんなことを教えてくれた。


「教育」は長く続いている学問で、先行研究もたくさんあるけれど、
そもそも「まちづくり」は新しい学問。

詳しい話は忘れちゃったけど(失礼)、「まちづくり」という言葉自体ができたのがごく最近、十数年前とかのことで、「地方創生」などと叫ばれ始めたのもそのくらいらしい。

たしかに、私たちの大学の「地域創造」学部も、できたのが2008年と、すごく新しかった。

まちづくり関連の論文とか検索しても全然出てこないんだって。だから研究が大変な分野だって言ってた。

それゆえに定義や分類すら曖昧なときもあって、

例えば教育は、「国語教育」とか「人権教育」「初等教育」「学校教育」「生涯教育」「地域教育」「プログラミング教育」など、
そもそも「○○教育」ってだけでいろんな分類が存在するし、いろんな視点を持ったジャンルがある。

だけど、「○○まちづくり」とかって言葉をあまり聞かないように、まちづくりはまだあまり細分化されていないジャンルだと思うんだ。


細分化されていない「まちづくり」を、彼はどのように定義したり、細分化したりしているのか。

その視点が面白かったので、私は「教育」との違いと照らし合わせながら、もう一度整理したいと思います。


そもそも、彼の言う「まちづくり」は学術的な意味と具体的な意味でもまず分けられるらしい。

学術的な意味
地元住民や地方自治体による地域おこしと、国や県による都市計画による地方創生の2つが混じってできた言葉。
具体的な意味
まちを好きな人、または、まちを良くしたいという思いを持った人による活動。

なるほどなるほど、具体的な意味の方が割と広義なんだな〜と思った。

となると、私は広義の「まちづくり」には貢献していたかもしれないけれど、地域おこしや地方創生をしていたのかと聞かれれば頷けはしないかもしれない。

いや、お祭りや地域のイベントにはよく参加していたから、半分くらいは「地域おこし」に関わってはいたのかも。

となると、これだけでも「まちづくり」は
・地域おこし
・地方創生
・広義のまちづくり

に分けられることがわかった。


さらに「まちづくり」を細分化するための視点がもう2つ。

1つ目は、まちづくりの主体と客体は誰か。

主体とは、まちづくりを行う側。客体とはまちづくりの対象。

まちづくりをするのは、自治体か、国か、住民か。若者か高齢者か。

同じように、まちづくりの恩恵を受けるのは、そのまちで働く人か、子育てをする人か、高齢者か、観光に来る人か。

「誰による、誰のためのまちづくりなのか」という視点だ。


2つ目は、「まちを良くする」という行為が、動機的なものか結果的なものか。

「まちを良くしたい」と思って起こした行動が、結果的により良いまちづくりへと繋がらなかったとき。

良い具体例はあんまり思いつかないけれど、たとえば、企画したまちづくりイベントに全然人が集まらなくて予算ばっかり食っちゃったときとか?
作った観光施設がニーズ不足ですぐ閉館になっちゃったときとか?

それでもその行為を「まちづくり」と呼べるのかどうか。

それとは対象的に、別に「まちを良くしたい」と思ったわけでもなく、ただ自分のためや誰かのためにした行動が、結果的にまちを良くしていたとき。

たとえば、写真を撮るのが好きで街の写真ばっかりをインスタにあげていたら、その写真を撮っていたスポットが有名になり観光客が増えたときとか。おじいちゃんを手伝うという理由で参加したお祭りが、自分のアイデアや工夫ですごく魅力的なものになったときとか。

それでもその行為を「まちづくり」と呼べるのかどうか。

これは前者は「動機的な」まちづくりで、後者は「結果的な」まちづくりなんだろう。


この2つの視点をもらっただけでも、私の頭の中は前よりもかなりスッキリした。

もちろんまだ曖昧さが残る部分もあるだろうけど、とにかく初めはこれくらいの大雑把な分類でもいいから認知理解されるようになったらいいのかも。

とにかく、私は今回得られたこの分類にときどき立ち返りながら、これからもゆるく「まちづくり」について、考えてみたいなーと思いました。

新たな知見をくれた友達ありがとう!


まちづくりの話を聞いたり、考えたりしていると、いつも難しいなーと思うのは、「マクロなビジョンを、どうやって適材適所にミクロなものとして落とし込むか」を考えねばならないということです。

学問は大抵マクロとミクロをつなげるのが難しいものなのだけれど、「教育」と比べて「まちづくり」は規模も大きい上に主体や客体も曖昧という性質を持っているので、なおのことなのかなと。

なかなか落とし込めない問題について立ち向かうのはすごく根気の要ることだと思うから尊敬します。


学問をするみんな、これからもいろんな壁に立ち向かってこうね。


それでは今回はこのへんで。ここまで読んでくださりありがとうございました!

ではまた!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?