見出し画像

青春とはなんだ? ―中学編

もし生まれ変われて、しかもスタート時期を決めることができるとしたら。
私なら、躊躇うことなく高校時代である。


中学時代はどうかといえば、私はその頃はスポーツ少年だった。

スポーツといえば野球だ。
「ちかいの魔球」や「巨人の星」などの野球漫画もそうだったし、巨人の全盛時代であったということで部活にはやはり野球部を躊躇なく選んだ。
兄貴はかなり上手かったのだが正直私はイマイチだった。


1 年の時はとにかく走らされた記憶がある。

学校の近くには小高い丘があり、かなりの傾斜の階段がその丘を突っ切って反対側の仙川駅へと続いていた。
1 年生の練習場は校庭ではなくもっぱらその丘で、特にその急な階段を上へ下へとよく走らされたものだった。

今ではスポーツ医学の観点から部活の練習もかなり合理的になってきているが、当時は練習中に水を飲むのも禁じられていたし、成長期の身体にあまり良いとは言えない、腕立て伏せや腹筋などの過度の筋トレや、うさぎ跳びなどが練習メニューを構成していた。
まさに一徹にシゴかれる飛雄馬であり、根性一筋「巨人の星」の世界そのものだった。

誰かがヘマをすると全体責任として体育倉庫の裏に並ばされ、恒例の「ケツバット」である。

倉庫の壁に両手をついて 1 年生全員がケツを突き出すような格好で立つ。
そのケツを先輩が片っ端からバットで一発ずつ打って行くのである。

普通はボールを打つときのようにバットのグリップを握って芯の部分でケツを打つのだが、打たれる側のコツとしては、バットが当たる瞬間に痛さをこらえるかのようにウッと声を出し同時にバットが振られるのと同じタイミングと速さでケツをちょっと引くのである。

ただ気づかれると 1 発が 2 発 3 発に増えることもあるので要注意だ。
先輩の中には気の弱い人も優しい人もいて、バットを逆さに持ってグリップの方で軽めに打ってくれる人もいる。

私たちとしては「ケツバット」執行人がそんな先輩に当たることをそれは必死に神や仏にに祈るのであるが、こんなとき神様仏様はそっぽを向いていることが多かったように記憶している。

そんな悲惨な 1 年を耐え忍ぶことができたのは、練習後の更衣室で、「とにかくこの一年間は頑張って耐え忍ぼう。2 年になったら立場は逆転だ」と、まだ夏にもなっていないのに、「もういくつ寝るとお正月」に合わせて「早く来い来い新 1 年生」と陰の応援歌を歌ったものである。

私の中学時代はこのように天気でいったら概ね曇りか雨だったような印象がある。


野球への情熱も次第に冷めていった頃、ある日、友だちの一人がサッカーの試合観戦に誘ってくれた。
特に親しく付き合っていた友だちでもなかったのだが、彼のお父さんが連れて行ってくれて、弟が風邪を引いてしまいチケットが 1 枚余っているから、ということだった。

サッカーというスポーツがあるのは知っていたし、手を使わずに主に足でボールを扱い、相手のゴールに蹴り入れると得点になるというくらいは知っていたが。
日本代表と本場ブラジルのプロチーム「パルメイラス」との一戦だった。

プロ野球の試合は父に連れられて何回か観戦したことがあるが、国立競技場、しかもサッカーの試合観戦は初めてである。


圧倒された。
日本代表がパルメイラスに圧倒されたのではなく、私がサッカーというスポーツに圧倒されたのである。

緑のピッチに散らばる敵味方 12 人の選手たちが、ほとんど止まることなく精力的に動き回り、巧みに足や頭を使ってボールをコントロールし、パスをつなぎ、相手ゴールに迫っていく。

その洗練されたボールさばき、グリーンのピッチ上に描き出される幾何学的な動き、時には強烈に時には繊細に扱われ照明の中を転がるボール。

サッカーという競技の創り出す異次元的な世界に心から感動したのである。
その瞬間、私はサッカーと恋に落ちてしまった。


早速、翌日から昼休みにはサッカーの真似事が始まった。
参加する仲間が日に日に増えていった。

当時、学校にはサッカー部などなかったので、私たちはまず野球部を退部してサッカー同好会を作った。
同好会なので中学同士の試合はできない。そこで調布市の少年サッカークラブなどと練習試合などさせてもらった。

自分の小遣いでサッカーボールを買い、月島の叔父さんにサッカーシューズを買ってもらい、それからは中学卒業まで、雨にも負けず風にも負けず、夏の暑さにも冬の寒さにもめげず日々ボールを蹴り続け、高校へ行ったら絶対にサッカー部に入るんだと心に誓ったのである。


私の通っていた中学は珍しい蜂の巣型の校舎で、建物自体が六角形になっていて中央部を螺旋階段が 1 階から 4 階まで突き抜け、階段を取り囲むように六角形の教室が配置されていた。

ちなみに、小学校もそうした蜂の巣校舎で、私が 6 年生の時に完成したので、あの丘の上の小学校から地理的にずっと近いこの新校舎の小学校に転校し、目出たく第一回卒業生となった。
中学校も新しい学校で、私たちは第 4 回卒業生だった。


登校に 30 ~ 40 分かかったので、学校の行き帰り、特に下校中はけっこう道草をくって色々なことをした。

中学校の登下校というと当時流行ったいろんなお菓子を次々と思い出す。
チョコボールとか、キャンディーにくるまったガムとか、ホームランアイスクリームとか、とにかくコマーシャルに出てくるお菓子スナック類は、私たち中学生の登下校の友だった。

みんなで種類の違うものを持ち寄せては交換しながら異なる味を楽しむことで、学校へのややもすれば憂鬱な道が明るく楽しいものになったし、クタクタの帰り道も夕食までのエネルギーの補給になった。


中学校から家までのほぼ中間地点には別の小学校があった。

ある時、部活だったかサッカーのサークルだったか、もう覚えていないが、帰り道、夕立に見舞われた。たぶん秋だったと思うが、制服はもうずぶ濡れである。

そのとき、私はもう二人の友だちと濡れねずみ状態で歩いていたのだが、目の前にはこの小学校がある。
小学校にはプールがある。水は抜かれていない。塀はあるが越せないほどではない。若者には逆境を順境に変えるバイタリティがあるのだ。
制服は夕立のせいでずぶ濡れなのでこれ以上濡れても何の変わりもない。

私たちは互いに目と目で合意を確認し、無言のまま、いざ塀を乗り越え、着のみ着のままプールに飛び込んだ。

制服を着ているのでクロールなどは無理だったが、平泳ぎで誰もいないプールを私たちは独占したのだった。

気持ちいー。あー、これが青春だ。

制服から水を滴らせて帰宅した私を見て、母は呆気にとられしばしその場に立ち尽くしたが、呆れて物も言えなかったのか風呂場を指差すと、「制服のままシャワーを浴びてきなさい」と言って笑い出した。


懐かしい半世紀前の思い出である。

この記事が参加している募集

#部活の思い出

5,463件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?