歌枕と旅①【温故知新PJ③】
大江山 生野の道の 遠ければ まだ文もみず 天橋立(百人一首第60首 小式部内侍)
あなたは、「歌枕」を聞いたことがありますか?
冒頭の歌にある「天橋立」も歌枕です。
日本史を学ぶときに必須の『国史大辞典』で「歌枕」とひいてみると。
歌詞の注釈、枕詞の説明、名所の景物など、詩歌に必要な事項を収録した書名であったが、平安時代後期になると名所の意となり、それぞれの名所の景物や歌題を説明するに至った。
つまり、和歌を詠むときにふさわしい特定の地名が「歌枕」なのです。
「歌枕」の選定基準は「宗教的心性」が大きな位置を占めていました。
また、神の名を直接呼んではいけないという「言霊信仰」が強かった時代に、変わりとしてゆかりのある地名を歌に詠みこんだという説もあります。
そうした成立背景から、歌枕は「和歌の装飾ないしイメージの深化」の性質を持つのであり、歌枕を詠うにはひろい古典的教養が要求されました。
そして、地名を詠むことが、その土地の賛美にもなり、実際にその土地に赴いて詠むことが一般的でした。
歌枕がいつ成立したのかというと、平安時代中期と個人的に考えています。
奈良時代と平安時代では、交通ネットワークが異なり、歌枕も変わっています。
『万葉集』でよく登場した地名が、平安時代になると登場しなくなり、代わりに別の地名が詠まれるようになるのです。
歌枕が人々の移動に関係すると考えると、長らく遷都しなかった平安時代になってようやく行く場所が大体確定されてきたからかもしれません。
作者や享受者に、その地名と観念の結合が一般的なものとしてとらえられた時に、初めて歌枕が成立した。
歌枕は単に1回和歌に詠まれるだけでは成立しないのです。
広く受け入れられて、別の人がその和歌を参考にして詠みつがれなければ、歌枕と言えません。
この時点では、まだ観念的な要素も含まれていましたが、歌に読み込まれる地名の意味に限定されるのは、『俊頼髄脳』の時期です。
『俊頼髄脳』は1113年に源俊頼によって書かれた歌論書(和歌の手引書みたいなもの)です。
また、1086年に成立した後拾遺集から、嵐山など初出の歌枕が多く現れることから、歌枕の変化は白河上皇の院政が始まった時期とも重なっているのです。
ただ和歌に詠まれる地名なのに、時代によってどの地名が詠まれるのか詠まれないのかが変わっていくのも面白いなあと思いました。
次回は、歌枕に詠まれる地名について書きたいと思います。
毎日更新していきますので、ぜひまたのぞきに来てください!
<参考文献>
奥村恒哉著 『歌枕』 平凡社 1977年
古橋信孝著 『万葉歌の成立』 講談社学術文庫 1993年