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長く続けるための活動の省エネと、個人的な幸福観(時間が経っても残るものが本物)

1週間ぶりのnote投稿になってしまった。

(書くことでどこかにたどり着きたいと思っているので、なるべくたくさん書きたいという気持ちはある)

ここ最近は体調が優れず、考えもまとまらない時間を過ごしていた。


……でも人間って、そんなもんじゃないかと思った。

どんなに気を付けても体調は崩れるし病気にもなる。けがもする。調子がいいときもあれば、スランプに陥るときもある。


長く続けるための省エネ、活動のエネルギー効率も大事にしたい

少し調子を崩してみて、今までの自分の書き方がいかに体力が必要だったのかということを理解した。怒ったり泣いたり、何かを感じたり、何かを考えたりするためにも体力が必要だということを改めて理解した。

熱が出たりすると気付くんだ
僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると解るんだ
今まで呼吸をしていた事

(BUMP OF CHICKEN 「supernova」より)

長く続けていくためには、もっとエネルギー効率の良い書き方を身につけなければならないと実感した。

(あと読むほうもたぶん疲れるだろうし、同じテイストばかりだと飽きられそう)


というわけで、万全な状態まで休止してしまうと調子の悪い時のしのぎかたがわからないままだな、と思ったので今日はnoteを書くことにした。

出来上がったものは本当に無意味なものになるかもしれないけど、少なくともその制作過程には自分なりの意義がある。一歩ずつの前進。


ところで、考えがまとまらないなりにも考えていたことがある。それは、どうなったら自分は幸せになれるのか、ということだ。


どうなったら自分は幸せなのか?

こういうnoteを読んだ。

(有名な人だとシェアしやすいよね。「一般人の自分たち」と「有名人」みたいな意識になる。自分もnoteフォロワーが数百人レベルになれば拡散されやすくなるのかな。それはもう雪だるま式に)


このnoteによると、みんな色んなレベルでの幸福観があるけど、人生レベルでの幸せを見出すのは難しいらしい。

「わたしは何かを成し遂げ、最終的にどんな状況であれば究極的に幸せといえるのだろうか?」

確かに難しい問いだ。しばらく考えてみたけど、なかなかはっきりとした答えは出せそうになかった。


ただ、少なくとも、「目先の利益や見せかけのもの」は自分を幸せにしないということはわかった。

こういうものをすごく重視する人もいますよね。中身はどうでもいいから、とにかく人に良く思われたいという価値観。

私はこういう考え方がすごく嫌いです。今までに出会ったこういう人間のひどい何人かを殺してやりたいとまで今でも思っているし、セルアウト(売れ筋狙い:HIPHOP用語)やフェイク野郎も嫌いです。


でも、フェイクを嫌っている自分がリアルだとも限らないんだよなぁ……。

だとしても、それが何になるわけでもなくとも、やっぱり嫌いなものは嫌いだと言い続けたい。

何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!!」(ドン!)ってワンピースのルフィに言われそうだけど、何が嫌いかでも語りたいです。


時間が経っても残るものが「本物」だと思っている

やっぱり、時間が経っても残るものが本物だと思っているし、自分もそういうものを作りたい。書きたい。一瞬だけ盛り上がって、すぐ忘れられるようなものには本気になれない。

逆に、自分にとってこれは本物だ、という納得のいくものが作れたらそれを誰一人評価していなくても満足すると思います。


太宰治の主観的真理のような価値観です。偉人を引用して権威があるような雰囲気になっているかもしれないけど、「人間失格」の文庫版の末尾の解説で読んだだけです。でも太宰治の作品は本当に好きだけどね。


そういう価値観、芸術観があります。評価が定まるまでには時間が必要。「時のふるい」という言葉もよく使われますね。

あるいはHIPHOPだとこの曲を思い出す。

相当笑った事もあったが状況は悪化世界中
でもホンモノはやっぱ残るんだ
時間を超えてまるで文化遺産

DABO,ANARCHY,KREVA "I REP"より)


でも、自分は凡人だ。ならどうする?

広範囲に
長期間に渡って(永続的に)」
強い価値感情を呼び起こすことができる

(クレッチマーによる天才の定義)

これはまさに天才の所業ですが、とてもじゃないけど自分にはできそうにありません。アートなら、誰でも知っているような名曲や小説などがこれに該当します。


ただ、この中で「長期間に渡って」と「強い価値感情を呼び起こすことができる」という部分は譲れませんが、「広範囲に」という部分は自分の中で譲歩できそうです。

そしてその譲歩によって、自分が死ぬということもありません。それはそれでありだと思っています。長期間に渡って大きな価値があれば、狭い範囲でもぜんぜんOKです。ローカルなもの、けっこう好きです。


狭い範囲」というのをどこまでの尺度でとらえるかにもよるけど、これならまだ凡人にも可能性があるように思える。

究極的には目の前の一人の相手でもいいし、何なら自分一人でもいい。それで幸せな人生だったと思えるんなら、それでいい。


……ここを目指していきたいと思った。


どっかの100万ドル夜景
より地元の土手の夕焼け

(ZORN「ワンシーン」より)

わたしは何かを成し遂げ、最終的にどんな状況であれば究極的に幸せといえるのだろうか?」という問いに対する、最終的な答えというわけでもないけど、まずはこの方向性で進みたい。


それはどんな形で達成されるのか?(メタな話、多すぎ……?)

でも、自分が直接何らかの形の作品を作ることで達成されるとはあまり思っていません。それは趣味のレベルに留まりそう。

やっぱりね、自分は分析的・批評的な態度で物事と向き合うことが得意そういうブログも2年ほどやってました、今は一時休止中)だし、それは後天的に変えられない個人の特性だと思います。


もし何の達成もなかったとしても、目指したこと自体に大きな意義がある。

自分という人間の才能が最大限に発揮されれば、その精一杯やったという満足感があれば、それでいいとも思う。現実的には。

達成だけが大事だと言うより、その一歩一歩の過程も軽視できない大切な意味があるという捉え方。仏教的な価値観。


あと、自分でも書いていてメタな話(分析的、批評的、方法論)が多いなと思ってるけど、むしろ得意分野だからそれで突き抜けてやろうと思ってるよ。

華々しいゴールを決めるスタープレイヤーはもう目指してない。
目指しているのは影の功労者だ。何らかの形で最高のアシストが出来ればいい。


小さな幸せも大切にしたい

上で紹介したnote(マクロな幸せとミクロな幸せ)でも書かれているんだけど、生きがいレベルの幸せだけでなく、小さな日常的幸せもじっくりと味わっていきたい。

一番最初に思いついた小さな日常的幸せは、ハースストーン(オンラインのカードゲーム)をやりながら音楽を聴いているときかな。


本当はもっとよく思い出して列挙したいんだけど、今日はそろそろエネルギーが切れそうで、ここで無理をするとエネルギー効率が大幅に下がるのでここまでにする。これも一つの前進。長距離の走り方。

そういや、前回のnote(インスタグラムで自分が撮った写真を海外へ発信して楽しかった話)も小さな幸せの話だったな。

こうして文章を続けて書いていると自己理解がはかどりますね。一歩でも進めることが希望であり、自分にとっての幸福です。何を手に入れても停滞していてはつまらない(また一つ気づけた)。じゃあまたね。

頂いたサポートは無駄遣いします。 修学旅行先で買って、以後ほこりをかぶっている木刀くらいのものに使いたい。でもその木刀を3年くらい経ってから夜の公園で素振りしてみたい。そしたらまた詩が生まれそうだ。 ツイッター → https://twitter.com/sdw_konoha