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ACT.63『宗谷滞在〜名寄編〜』

電化の象徴を手にして

 旭川を発って、現在の自分は名寄へと向かっている。ここからは宗谷本線をひたすら北へ向かい、最後には稚内に到達する事を。そしてそこから宗谷岬に達する事を目標に動き始めた。
 現在、乗車中なのは快速なよろ号。車両は気動車でH100形車両によって運転されている。快速なよろ号は時間帯を分散させて運転されており、乗車した15時台の他には18時台。20時台に旭川から名寄に向かう快速なよろもあるようだった。
 しかし、乗車中はどうしたもの…というか疲れいっぱいの状態で乗車しており、結果として通過駅がある無課金制の列車であったものの車窓は旭川運転所…永山付近を通過した段階からの記憶が全くない。最終的に目を覚ますと、列車の終点間近。名寄高校だった記憶だけは微かに残っている。
 完全に旭川乗車時点と空気は変わっている…というか、列車の客層も変化している。乗車した時の若者たちの活気は少し残っているものの、列車内は若干の空席も目立つといった感覚だった。
 タイトルには『宗谷』の文字があるが、ここでは冒頭画像に『北の大地の入場券』の写真を掲載した。
 乗車中の記憶が全くないので結果としてこの写真で代用…というか、旭川発車時点での記憶を1つでもとして掲載した。
 この当時、711系電車の活躍した時点でも旭川の柱の美が引き立つ情景は健在だったのかと思った。流石に駅舎はもっと前にこの姿だったんだろうと思いきや、かなり前からこの美しい駅舎だったようだ。
 711系電車に関しては岩見沢市に訪問した時の記事で掲載したのだが、ここでは旭川と711系に関して少しだけ再び触れようかと思う。
 旭川圏に711系電車が進出したのは、昭和44年の事になる。北海道で試験結果を経て電化工事を行なっていたその功績がついに4,500メートル近くの神居トンネルで神居古潭を貫く事で無事に完成。その時に同じくして、それまで気動車で運転されれていた急行『かむい』を電車化した。9往復中の7往復が711系電車によって運転され、711系は旭川に進出したのであった。
 711系電車は、北海道の電化区間の全て…に近い大半の路線を走行している。昭和63年〜平成10年までは新千歳空港までの乗り入れ実績も。平成4年に乗り入れの実績は一時絶たれたが、平成9年〜10年に再復活している。
 平成24年には学園都市線として札幌都市圏で愛称のついている札沼線の電化が完成し、711系電車は札沼線にも乗り入れている。桑園〜北海道医療大学前までの入線も果たしたのだ。しかし、この仕事は晩年中の晩年だったので平成26年には711系は撤退してしまう。
 711系は旭川方面に平成26年のお別れツアーで最後の入線をし、そして平成27年の春にその生涯を函館本線の岩見沢〜札幌間で駆け抜け、47年間の生活を走り抜けた。
 この旭川駅での雪を付けて発車を待つ711系の姿は、北海道電車史。北海道鉄道史に於いて貴重な1枚であり、北海道の人々の心の風景。そして
「電車といえば赤電」
と言わしめた北の人々の特別な思いが篭った記録なのである。

 写真に今回旭川で撮影した789系電車・721系電車を掲載する。
 721系電車は事実上の711系の後輩的な存在に当たるが、そろそろ経年の話に関しても避けられなくなってきた。今後、733系を中心としたグループの新規製造ではその生涯も遂に終わりが見えるのだろうか。
 一方で、789系。青函トンネルを貫いて海峡からの本州アクセスを担い、駆け続けた役者は現在北海道の動脈を結節する大事な存在として電車特急の座を誇示しながらも、旭川と札幌を繋ぐ大事な存在として機能している。
 721系・789系共々今後の生活を一生懸命に走って北海道の象徴として輝いてほしいものだ。そして、我々も赤い電車の走った電化の軌跡の上に立つこれらの電車たちを、悔いなく記録する事が大事である。

120年目を迎えた玄関に

 名寄駅に到着した。相変わらずの快晴である。本当に気持ち良いくらいというか、スカッとしている夏晴れの天気だった。
 記事を執筆している現在では、名寄も旭川も氷点下限界の気象状況になっているが、この時の名寄。7月の後半といえばまだまだ25℃以上の気温で夏の暑さが刺さるくらいだったのは忘れられない。
 そして、訪問時には名寄駅が記念すべき時を迎えていた。
『名寄駅120周年記念イベント』
として駅の装飾。そして様々なそれらの記念事業に関する告知もあった。
 まさか、宗谷本線ではじめて下車した駅で。初の北海道でこうした記念の節目に接する事が出来るのは大きかった。非常に嬉しいというのか、下車してから
「おおっ」
と心を刺激するものがあった。ここまでの国鉄時代の事を考えたり。人が動かした鉄道のアレコレを思ったり。考えは尽きないのであった。

 現在の名寄は、車両も近代化され車両のバリエーションも固定されキャラクターが定まり、宗谷本線を飾る大きな中心の駅となっている。
 この120周年のイベントでは、駅員を通しての切符発見イベント。そして自分が見れた限りでは宗谷本線の写真展が開催されていた。
 他には宗谷本線の活性化協議会による記念品販売に鉄道模型の走行展。駅LCDへの記念表示(1日限定であった)を実施。そして120周年の記念スタンプを設置するなど、華やかに溢れた状態になっていたのであった。何れも9月に入ってからのイベントであったので、写真展だけで宗谷本線の歩みを知るしか出来なかったのだが…。
 今回。宗谷本線に乗車して今日向かう場所は音威子府である。だが、待ち時間が発生するにも関わらず(それも結構長い)、名寄で寄り道をした。それは全国でも唯一、ここにしかない鉄道の戦った痕跡を見る事ができるからだ。

名寄の象徴、どこにいますか。

 名寄には、目立ちはしないのだが全国にここだけしか存在しない車両が存在している。しかし。この車両の存在を大きく知っている者は余程の蒸気好きか国鉄を愛好する者だけに限定されるだろう。保存車を訪ね回っているか、かなりの玄人でないとこの場所の為だけにとはならないはずだ。
 しかし、名寄ではこの存在を大きく取り上げ観光案内所ではこの象徴のグッズまで製作している。『全国にここだけにしか存在しない』という伊達ではない肩書きを存分に使い、大きく宣伝しているのであった。しかし自分、購入せず…(資金枯渇を恐れた)
 まずは列車から見えていたものの、場所を質問した。
「すいません。キマロキを見に行きたいんですけど…」
観光案内所に訪問し、場所を尋ねた。
「キマロキでしたら、この道をずっと歩いてもらって踏切が見えるんです。そしてその踏切を曲がっていただければ…」
場所を教えていただく。
「ありがとうございました。すいません…」
さて、見に行くとしよう。先ほどの会話で、『キマロキ』という言葉が飛び出した。この
『キマロキ』
こそが全国で名寄にしか存在せず。そして名寄の象徴にもなっている保存車両なのだ。ここでしか感じられない。ここでしか見る事の出来ないものを多く詰め込んでいる。
 言われた道をそのまま歩いていると、車両基地からチラりとその姿を拝めるかの如く黒い隊列が姿を見せた。
 これこそ、名寄での途中下車の目的。として120周年を迎えた北の街の象徴、『キマロキ』である。今からその姿を見ていこう。

 途中、車通りのある大通りを通過して公園に到着する。最終的に宗谷本線を横断するとこの場所が見えるのだ。
 看板にも大々的に『キマロキ』と書かれている。そしてその下。区名札の横には見慣れない列車の名前が表記されている。
『SL排雪列車展示場』
とにかく、除雪にそのパワーを発揮した列車であるのはなんとなく分かった。さて。一体どんな姿をしどんな隊列を組んでいるのだろう。見ていく事にするか。(焦らしまくりんぐ)

蒸気史上最強の除雪車

 日本には、『四季』といわれるように春夏秋冬がありそしてその四季には桜の春。快晴の夏。紅葉の秋に雪の冬と季節ごとの気候がある。(最近は四季の偏りや季節ごとの天気が激しいが)
 そんな中でこの『キマロキ』編成は冬季。豪雪の中の豪雪時に出動する為当時の鉄道界最高の技術を結集し。そして蒸気機関車として最大級のパワーを持ってして導入されたのである。
 まず、『キマロキ』というこの単語に関してだが、この『キマロキ』という単語は鉄道の為に誕生した造語であり、この列車の編成について説明するものである。
 では、その言葉を並べ見ていこう。
キ…機関車
マ…マックレー車
ロ…ロータリー車
キ…機関車
 とこのように連なった姿こそがキマロキ編成と呼称される所以であり、車両ごとの頭文字に因んだものである。
 まず、なぜ名寄にこのキマロキの除雪列車が佇んでいるのか。その事情に関しては、この編成の中に挿入されている『蒸気機関車』に由来している。両端の機関車が名寄機関区の所属であり、そして国鉄から『除雪・排雪用の特別編成として保存』という形で昭和51年に名寄公園の少し小高い丘に保存がされたのである。
 しかし、実際は完全に町の所有物かと言えばそうでもなく、保存時は国鉄当局からの貸与という形によって保存されている。
 しかし、平成の時代に日本は入っていき、道北鉄道の発展を支えてきた名寄から伸びていた名寄本線が平成元年の4月に廃止された。そして、現在の場所に保存される事になり平成5年。廃止された名寄本線の跡地には名寄市の博物館を移設する事になった。そしてその周辺に、名寄本線の跡地を飾る存在として現在は
『蒸気時代の除雪列車最大級にして最強の力を発揮した車両』
『平成元年廃止の名寄本線の語り部』
と2つの役割を今は担っている。
 この移設によって、現在は宗谷本線の車窓からでもその姿が確認可能となった。そして、この編成近くに移設されし博物館と同じくして『キマロキ編成』は名寄市の象徴となったのである。
 市民の財産。鉄道界に於いての貢献。名寄市の象徴。様々なものを含み、列車の維持は現在ま続いている。この『キマロキ』編成の保存会も結成されており、末永い伝承の土台が形成されている。

 『キマロキ』編成を後方から確認してみよう。
 訪問時は肝心の蒸気機関車側が逆光になっており、編成の撮影にはこちらの車掌車側からの撮影の方が光線の当たる状況下になっていた。
 車掌車側が後方を向いているが、この車掌車にもしっかりとした意味が入っている。その意味に関しては後に解説していこう。
 と、訪問した際にはこうして列車を後方から撮影するような形状になっており、少し訪問の時間を間違えた…?ような感覚になった。機関車を先頭にした写真の撮影をしたいと思ったら、訪問時間は午前中が良いのだろうか。
 そしてこの方面からでも分かるが、車掌車は尾灯が抜かれており塞がれダミーの塗装で再現されている。また、白い帯のアクセントも綺麗で列車の丁寧な保存を感じさせている。
 しかし書いていて思ってしまうが、当時の暑かった天気。晴々とした道北の天気。そしてそこに至るまでに水分補給に飲み物が手放せなかった事を思い出す。書いていてここまで時間がかかるとも思わなかったのだけれど。

 『キマロキ』編成には編成の前後にこうしたヘッドマークが掲出されている。
 この『キマロキ』編成。実はJR北海道から準鉄道記念物の指定を受けているのである。正に、この列車の貴重さ。そして北海道を中心とし、日本の雪国・豪雪地帯での活躍が認められた準鉄道記念物指定と言えるだろう。
 しかし、準鉄道記念物とは言っても一概には大事にされているか…と考えればそうでもなく、個人的には
「どうして選定されたのだろう」
だったり
「折角準鉄道記念物指定したのに解体などのメスを入れるのか」
と思いし経験が多い。今年の令和5年には準鉄道記念物指定の石川県ではあるが松任工場にて保存の475系急行形電車の先頭車両が準鉄道記念物認定指定を受けているのにも関わらず解体されてしまった。
 歴史的な遺産・国宝を持つ日本という国に際して、まだまだ鉄道を中心とした乗り物…近代遺産の保存や普及に啓蒙の難しさを感じるところである。

※北海道で準鉄道記念物指定を受けているED75-501。不運にもPCB規制が社会問題に発展し、解体寸前の憂き目に立たされている。保存に方針転換の説も囁かれるが、予断は許されない。(緑色のプレートが準鉄道記念物の指定銘板)

 しかし、準鉄道記念物指定を受けていても解体…という不名誉なことは、ここ北海道でも発生しているのである。
 小樽市総合博物館にて、ED75形電気機関車・ED75-501の解体が実施された(一部保存が決定か?)のも、この不名誉な事態だ。
 PCB含有が発覚しての解体、PCB機器の除去という形でその姿の残存が舵取りの変更で決定しそうなものの、準鉄道記念物指定を受けていながらも重機のメスが入った事。社会の波に揉まれた事は残念な事態だ。
 このED75-501に関しては、この連載記事の最初頃の項を見ていただきたい。手稲〜銭函からの電化試験を含め、詳細を記した。

 再び、名寄のキマロキ編成に話を戻して。
 このキマロキ編成の長大さ、勇ましさとその迫力には、やはり目を奪われるものを感じる。
 蒸気機関車の時代。古くは鉄道開拓の北海道でも除雪とは大きな壁であった。そんな中において、キマロキ編成は絶大なる力で雪と戦い、東洋随一の積雪国であった日本を守ってきたのである。
 通常の除雪作業では、蒸気機関車が背後から補機として列車を押していくような形状を取っていくが、このキマロキ編成は特別な時。そして雪が運行に大きな支障を及ぼすと判断された時しか出動しなかった。
 調べたのは北海道ではなく秋田県ではあるが、このキマロキ編成は多い単位での出動ではなく年1回の出動で雪を線路から退かす活躍をしていた。それ以外の時は、通常の黒い除雪車がウイングとフランジャーを広げ、線路から雪を跳ね飛ばしていた。

※ラッセル式の除雪車両。ウイングに雪を跳ね当てて蹴飛ばすようにして雪を掻き分けて走っていく。後方に蒸気機関車が1両付き、ラッセル車を押すようにして雪を掻き分けていくのである。出動は緊急・急遽の時もあった。

 まず、鉄道において除雪車の出動する機会とはどのように定められているのだろうか。
 このことに関してだが、除雪車の出動は
『出動の4時間前』
には決定しているのである。その日の積雪量・降雪の具合を見て判断し、除雪作業を開始していくのである。当日になって急遽決定し、人員・人権的な確保の目処を立てて集合が完了次第即、出動という具合になっているのだ。
 そして、もう1つ。
 最終列車を発車させてからの除雪車稼働は、その日の昼過ぎに決定して出動が決定される。また、時には降雪・積雪の具合を測って
「急遽出動するように」
の命令で除雪作業が開始される事もあったようだ。輸送指令の迅速な動きによって、除雪作業が行われていったのである。
 しかし、除雪車の場合も規模が大きくなると(無煙化され蒸気で動くものではない)、その出動予定は10日ほど前には決定され出動する。踏切などの設備の安全を託された人々をその中に更に出動させ、大規模に実施していくのであった。
 ラッセル式の場合では、その日になって急遽…というのは当たり前であり24時間体制で雪と鉄道は戦っていたのである。

 黒々としたクロガネの戦士たちが連なり、雪と戦っていく。こうした車両の姿を現代に見られるのも素晴らしい事なのだが、しかしこのキマロキ編成では現代的に考えて非常に非効率な点が存在している。
 列車として乗務員の手配が非常にかかってしまうのだ。
 運行の為には、
・保線区の正操縦士
・保線区の副操縦士
・運行記録とダルマストーブを管理する係員
・客貨車区の職員
の添乗を中心として様々な乗務員・機関士などを手配しなくてはいけない状態となる。機械の力はいくらあっても…その中には人の力が更に投じられ、冬の厳寒・極寒の鉄道を守る為の活躍をしていたのである。
 このキマロキ編成の稼働は、蒸気機関車晩年。動力近代化の時代まで継続された。動力近代化にあたって、日本は世界でも類を見ない速度で蒸気から軽油・電気への鉄道の動力転換を成し遂げた。
 しかし、蒸気では限界もある。そして、非効率な点も非常に多い。そうしたところから、除雪車両にも軽油動力の車両をという事でキマロキ編成は昭和30年代に入って廃れていく…ようになるかと思ったがそうでもなかった。

※蒸気機関車・蒸気動力は少しづつ除雪からも廃れていった。DD14形はその中でも究極系の車両で、ディーゼル化を達成した除雪車の中でも最大の力を発揮したのであった。

 昭和35年以降になって、DD14形というロータリー除雪の機関車がやってきた。除雪作業を行う為の機関車としてのパワーは絶大なもので、線路と雪の戦いは軽くなると思われた。雪を掻き込んで、線路の傍に排雪する。その力は伊達ではない。
 DD14形は登場以降、『ザリガニ』の愛称でも親しまれ。少しづつ除雪用機関車としての地位を高めていくものと思われた。だが、除雪車両のディーゼル化を推進していた頃に思わぬ寒波が日本を直撃したのである。

※昭和38年に新潟県〜長野県を中心にして発生したサンパチ豪雪では、新幹線に高速道路も開通していない状況であり甲信越地方は陸の孤島として雪に猛威を振るわれた状況となった。(写真は想像図)

 昭和38年1月。大寒波が日本を直撃する。
 日本海地方は甲信越方面で猛威を振るった、後に『サンパチ豪雪』と名が付く大寒波である。この大寒波では新潟県・長岡市で最大積雪が318センチを記録し、市民の生活を直撃した。加えて、当時は除雪用機械の発展もまだない時期。そして、日本は鉄道を中心に人流・物流が動いていた時期でありこの被害は大きかった。新潟県〜長野県は鉄道網の雪害による寸断で陸の孤島と化したのである。
 このサンパチ豪雪でも、除雪車は持ち前の体力発揮…!と行きたかったのだが、そうはいかなかった。ディーゼル式の除雪車両ではこのサンパチ豪雪に太刀打ち出来なかったのである。
 結果として、この出動が最後の?キマロキ編成出動の機会になった。高度経済成長を迎えても、除雪の発展はまだまだ進展しなかったのである。
 このサンパチ豪雪の際には『キマロキ編成』の出動の他に、『キマロキ編成』の前後に別の除雪用編成を走行させ、キマロキ編成を間隔空けつつしてのサンドイッチ状態で雪と戦っていたのであった。
 日本の雪害、冬の戦いとはこうして鉄道も晒されていくのではあるが、そんな中でキマロキ編成の各車両はどのような経歴で。どのような車両によって構成されていたのだろうか。京都に戻ってから自分なりに調査を測ってみたので、各車両観測と同時に見ていこう。

キマロキ編成・各車両を見て

 キマロキ編成は、機能を持つ車両が集合して組成されている。
 その車両たちの役割は、個性的で多種多様なものだ。編成内にロータリー車・マックレー車を挟んでいる時点でもその力の強靭さが窺える。昭和3年に国鉄・苗穂工場が開発した脳筋的な列車ではあるが、これが各車両見ていくと面白く。また、メカ的にも唆られるのだ。
 そして、画像は宗谷本線を向く側の看板。
 決して列車の本数が多いと言える宗谷本線ではないのだが、宗谷本線の車窓からキマロキ編成を。キマロキ編成から宗谷本線の列車たちを。とこの場所は名寄の鉄道を語り、観光地として。街のシンボルになっている場所なのである。
 そして宗谷本線を向く側には、こうして
『日本でもこの名寄にしかキマロキ編成の保存は実施していない』
との宣伝付き。
 実に猛烈なアピールをしてくる。展示のあらましに名寄本線までの移設経緯なども記されており、看板だけでも立ち止まり読む時間が楽しそうである。

 キマロキ編成を眺められる小高い丘に、その勇ましいクロガネの顔を見せる機関車がいる。
 キマロキ編成の先頭に立つ蒸気機関車・9600形の59601である。この番号は既に1万の桁に入り次元が難しい事になっているのだが、この機関車の付番法則に目を向けてみるとその危なさ、奇怪な沼の深淵を見てしまう事になる。(簡単に知ったら終わる)ちなみに、この9600形のは付番法則から追跡して『501番目』の製造にあたる。何とも難しい機関車だ…(付番さえ気にしなければただの格好良い大正貨物機)
 まず、自分の思い…というか対面しての気持ちであるが、初見で
「この姿こそが北海道の大正蒸気だ」
という安心感。また、この機関車に出会って感じた武骨さというのだろうか。ゴテゴテに飾り付けたような姿に貨物機としての、自然と戦っていくという覚悟を感じるのであった。
 スノープラウに煙避け。そして小脇に抱えたような給水温め機。逆光下で更なる強調をされるランボードの白線を見ていると、この機関車の美しさが真に光り見える思いだ。赤いロッドも十分なアクセントである。状態の良さをここまで感じられるとは。

 9600形は、多くの両数が生産された蒸気機関車である。大正貨物機の傑作としてヒットを放っていくわけであるが、その生産量数は最終的に770両にまで到達したのであった。
 9600形蒸気機関車に関しての解説は、度重なる訪問。そしてこの北海道でも倶知安で同じ形式の蒸気機関車を訪問しその度に解説を入れているので、少しだけ割愛をしつつも捕捉的に解説を追加していく。
 9600形は、国産の蒸気機関車開発に向かって設計された蒸気機関車…である事は既にこの連載記事内でも何度も触れてきた。その中には、
『国内での機関車開発を実行する事によって機関車の国産化を目指し、技術の育成を行なっていく』
という目的があった。
 そうして9600形が誕生していくのであるが、当時の制作課長であった島安次郎によって輸入機関車の性能・使用効率などが問題視されていた。島安次郎は海外から帰国し、蒸気機関車の国産化に向けて大きな弾みを付けようとしていた。
 その中でかつて生産された…輸入された蒸気機関車の置換え用にと軽い設計図を制作。その中で、鉄道院からドイツに単身留学した朝倉希一にその設計を委ねたのであった。
 当時に日本で多くを占めていたのは、旅客向けに流麗な設計をさせていた2C1のテンダー機関車。そして動輪を2つ組み込んだ見るからにも物々しいマレー機であった。マレー機関車に関しては動力機構の複雑さから導入はこの時期だけに止まり、以降は生産も輸入も停止している状況である。
 こうして国産蒸気機関車の設計が本格的に開始された。そして、朝倉希一は機関車の設計に明治44年、川崎車輛に出向した太田吉松に詳細な機関車の開発を依頼し9600形が後に誕生していくのであった。

 誕生した9600形は、順調に生産を重ね。そして全国に配置されその勢力を拡大していくのであった。力も申し分ない性能である。機関車のパワーはイギリス輸入であったマレー機関車に相当するものであり。
 写真に映る小さな動輪の力を4つ噛み合わせて順調な滑り出しを見せるのであった。9600形は国産機関車として、欧米からの輸入蒸気機関車に負けない勢力をここから拡大させていくのである。勾配での性能。貨物用機関車としての性能は申し分ないものであった。
 一部の9600形蒸気機関車の仲間は昭和12年に発生した盧溝橋事件の影響によって日本を離れての海外進出…として中国への輸出がなされたのであった。この際には大幅な海外進出に際するゲージ幅の変更や改造が実施されていく事になるのであるが、この話に関しては追っかけていけば追っかけていくほど沼になるので今回は放置。なお、合計で255両の9600形蒸気機関車がこの軍事供出改造を受け中国に渡ってしまった。
 さて。今回の9600形蒸気機関車であるが、名寄の9600形蒸気機関車に関しては501番目に製造された4次形に相当する。最初期、大正2年製造分から数えていくと大きな変化が加わっており、その変化を追っていくと9600形の蒸気機関車としての細かい兄弟のようにも思える形態の差を感じられるのである。

 59601の4次形に区分される存在として、
・汽笛を火室上に装着
・蒸気制動付き
・過熱器ダンパーの廃止
と列挙される。過熱器のダンパー廃止に関しては大正11年、惰行時に大煙管出口を塞いでいた機器の廃止として実施された。以降の製造にもしっかりと反映された特徴だが、詳細に関しては不明なままである。
 これ以降は大正12年の製造に向かって空気制動付き、ランボードの改良と実施されていくのであるが、ますますこの大正貨物蒸気の特徴を調べて頭を抱える原因には十分すぎるくらいに形態は多すぎるのである。
 さて、ここで肝心の59601の足取りを見ていく事にしよう。(ようやくか)長くかかり過ぎた事を、再三に渡って(再三どこではない)反省反省…

 59601は、大正10年の11月に川崎造船所で製造された。以降は同年の12月、まず最初に富良野機関区に配属されている。
 そして富良野での活躍を終了後に、大正11年以降は名寄機関区に配属された。以降は名寄での生活を継続させており、昭和47年10月に引退するまで現役であった。その生涯は51年にまで亘り、老兵としては。鉄道車両としては十分過ぎる貫禄である。名寄では50年近い生涯を過ごし、名実ともにこの場所での保存には相応しい機関車だ。
 そして、59601に関しては詳細なデータも記録されている。この59601は、調査資料である名寄市のHPでも記載されている『良く働いた』の言葉が本当に良く似合う機関車ではないかと思っている。
 その詳細なデータの中に、『走行距離』がカウントされているのだが走行距離は合計して地球65周分に相当する距離であった。
 まさに働き者として北海道を生え抜いた蒸気機関車であり、現在の保存されている姿も思えば本当に現代まで多くの人々に愛されていた事が良くわかる。

 続いて、編成内でのインパクトも充分なマックレー車の紹介だ。(機関車の解説が1両目なのにも関わらず長過ぎる)
 このマックレー車。北海道の鉄道には大きな存在の車両であり、北海道に端を発する車両なのである。
 マックレー車は、日本語での名前(正式な名称)を『かき寄せ式雪かき車』と呼称する。しかし、鉄道ファンに関係者からは『キマロキ』として組成された編成名での定着…なども含めて、この車両はマックレー車として呼ばれる事が多数である。
 このマックレー車は昭和13年に国鉄・苗穂工場キテレツメカの誕生場所が世に送り出した車両である。このマックレー車も、先頭部連結の9600形蒸気機関車と同じくして
『除雪機械の国産化』
を目標にして製造された車両である。
 かつての除雪車両は、簡潔的な車両。そしてラッセル式の単純な車両で除雪に挑んでいた。しかし、大正12年にはロータリー式の除雪車。そして大正15年にはジョルダン式の除雪車がアメリカからやって来ている。こうした輸入の除雪車に依存しないように。そして国産での車両製造を…として苗穂工場では除雪車両の国産生産に向かった動きが進行したのである。
 その中で製造されたのが、マックレー車のキ911だ。昭和13年10月の製造を契機にして、昭和15年1月から使用を開始。岩見沢客貨車区に配属された。同年の1月には深川客貨車区に配属される。
 昭和36年には旭川工場で改造を受けた。改造後は昭和38年に名寄客貨車区に配属される。そして、昭和50年に36年の生涯を駆け抜けて引退した。
 除雪に携わり走行した区間は、函館本線。宗谷本線。留萌本線、札沼線。そしてこの名寄にも大きく関わり、天北線に名寄線。深名線でも除雪作業に従事した。この他にも様々な路線の除雪作業に関わっており、北海道の冬を献身的に支え続けたのである。その走行数は27,560キロにも亘った。
 そして、このキ911の誕生によって日本の鉄道に於ける除雪技術は世界的に知られる事になり、高い評価を受けて有名になったのであった。

 やはり、除雪車といえばこの車両も外せないのではないだろうか。ロータリー除雪車、キ600形である。この車両の存在は一際大きく目立っており、編成内での迫力は充分であった。この車両も、蒸気時代の日本の鉄道を支えた車両であり、語るには欠かせない車両になるのである。
 昭和14年11月に苗穂工場で製造された。
 その後は昭和15年1月に岩見沢機関区に配置された。同年の1月には再び転属し、深川に転属した。最後には昭和38年に名寄機関区に転属し、36年間の運転を終了するのであった。
 この車両の雪かき技術は、苗穂工場が誇る世界的な技術と言っても良いであろう。回転式の雪かき車両として、国鉄が昭和10年台に送り出した除雪車両であった。運用時にはマックレー車とペアを組んでの運転となり、その力を倍にして働いていたのである。
 ロータリー除雪車の羽根回転とかき寄せ式の雪かき車の活躍で北海道中を走行し、その除雪方法の画期的な姿は注目されるのであった。

 ロータリー除雪…として羽根回転をさせながらの除雪はどのようにして行なっていくのだろうか。その解答は、この接近して感じられる勇壮な姿にヒントがある。
 このキ600形には除雪用に巨大なボイラーが組み込まれているのであった。当然、このボイラーは除雪時に使用する羽根の回転の為に使用するものであって、走行動力には全く使用できない。なので、実際には機関車が後方から押して走行するようになっていた。ただし、搭載しているボイラーは機関車用のものでありそれは強大な能力を持っているのであった。
 このロータリー車の羽根回転では、雪を横に30メートル。縦にして20メートルの距離を飛ばす事が可能になっていた。豪雪地帯での羽根回転には勇壮な姿があり、迫力のある光景だったという。
 持てる体力の大半を除雪に捧げ、鉄道を守った車両でありその功績はいつまでも、冬の鉄道を守護する逞しさと勇壮さで語られるであろう。

クロガネの心臓

 少しだけ別項目を作成して、キマロキ編成を更に眺めていく。
 この名寄キマロキ編成の展示は、ただ外から眺めて。その勇姿を撮影して終了するだけではない。
 ロータリー除雪車、キ600形の車内を始めとし各車両の外側にはステップが装着されている。昔の除雪作業はどのようにして行われていたのか、その一途を乗車体験して感じられるのだ。
 写真は、ロータリー除雪車のキ600形の車内。この車両には蒸気機関車ばりの動力を保持していながらも、先ほど記したようにその力を大半除雪に捧げた歴史が存在している。なので、実際に自走した経歴はないもののその姿は蒸気船のコクピットのように物々しい姿である。

 まるで、スチームパンク作品のようなその構造。一回カメラを向けてしまうと、撮影の手が止まらなくなってしまう。この機械に命が灯された時、ボイラーは迫力を持ってしてその存在を示しそうだ。
 改めて、ロータリー除雪車の機構を解説しよう。
 このボイラーの先には、ロータリー車の要の部分である雪を蹴立てて突き飛ばすプロペラに繋がる機構が存在している。蒸気機関を全て投じ、雪を強力な力で跳ね飛ばしていたのだ。

 ロータリー車の機関室部分(?)から、前方を覗いた様子である。
 現在でこそ、DE15による宗谷ラッセルなど。除雪車の形状は簡素化されたり、軽量化されたり。そして機械化され、操縦の目線が楽になったりと大きな進歩を遂げた。
 しかし、かつての蒸気機関全盛期。そして昭和30年代まで、除雪時の係員。操縦士の乗車して見渡す目線はこのようになっていたのだ。
 赤い部分には、投雪口という跳ね飛ばした雪を目視できる部分がある。この部分は、係員から見えなくてはならない絶対的な部分だ。
 後のディーゼル化によって除雪機構が進歩した際。機械の力を最大限に引き出した事も要因ではあったものの、投雪口が見えなかった事によって雪を飛ばす場所の目視が出来なくなり。かつて雪を蹴立てて跳ね飛ばす能力で工場の窓ガラスに民家のピアノを破壊した事案が存在している。
 そうした事情から、除雪車によっての投雪口は目視出来ている方が利点として大きく作用し、効率的な作業にも繋がりやすいのである。
 しかし、座ってみるとあまりにも心許ないものだ。座ってみた時。このアングルの写真を撮影した時、
「狭っ…コレは辛いわな…」
という素直な感想を吐いてしまった。
 昔の人々の懸命に鉄道を通さんと技術力を最大に発揮したこの力は、今でこそ本当に敬愛に値する。

 ロータリー除雪車のボイラーを再び。
 本当にどの位置から見ても迫力がある。
 SFストーリーに登場する宇宙船のような乗り物にこの機構が搭載されていれば、さながら波動砲を射出する部分にでもなろうか。
 そして内部も非常に綺麗に整えられている。
 金色に光る?配線(というのだろうか)も、色濃く塗装されており内部の整備に対する力の入れようが感じられた。
 個人的には市が薦めるように。観光地として、是非ともこの北国博物館前のキマロキ編成。特にロータリー除雪車の内部に関しては是非とも見ていただきたいものである。
 絶対に、メカへの魂が動かされる事間違いなしだ。


 蒸気機関車に準える、逆転機のようなものを撮影して発見した。
 最初は自走できるのだろうか?と感じて撮影していたが、どうやら蒸気機関は全てロータリー回転に使用しているようで事情が異なるとの事。
 そして、そんな中は発見した逆転機のようなもの。一体何なのだろうか?
 蒸気機関車では、逆転機を使用して機関車の方向を転換させる為に使用しているのだがこのロータリー除雪車両に搭載されているところが個人的には気になる。
 配線、配管の物々しさと共に見応えのある撮影となった。しかしながら、部品の美しさには目を奪われてしまう。ここまで綺麗にされていると、逆に何かしらの申し訳なさのようなものを感じてしまう。
「そ、そこまで丁寧にされていると…」
というか。
 編成撮影に関しては既に逆光撮影の中でしていたのだが、こうしたコクピットにあたる操作関係の場所というか、人のよく入る場所に関して非常に条件が良かった印象だ。
 キマロキ編成のメイン撮影をするのであれば、午前中から昼付近まで。そして、キマロキ編成のスナップ撮影やフレームアウトな写真の撮影がしたくなれば、昼過ぎ以降夕方を狙うべきだろう。
 個人的に改めて写真を見ても、午前中に留萌訪問をしてキマロキ編成に時間を投じれなかった事に大きな悔いが残ってしまう。

※ロータリー除雪車にある羽根。この羽根が回転して雪は跳ね飛ばされる。投雪口から雪は遠心力で遠くに消え、雪の高い壁が出来上がるのであった。このタイプは小型であるが、自走機能はないので後方から機関車がグイグイ押して走行する。

 ちなみに。近くにいたのにも関わらず撮影をしていなかった事を現在では完全後悔しているのだが、このキ600形車両に搭載されている『プロペラ』はこういった機構になっている。
 投雪口の直下にこのプロペラがあり、このプロペラが回転して雪を跳ね飛ばし蹴立てて走っているのだ。
 こうして見ると、飛行機のジェットエンジンのようにも感じられその破壊力をまざまざと思い知れる。確実に稼働中に接近すると、命を奪われそうだ。
 キマロキ編成では、マックレー車がかき寄せた
雪をこのロータリー車の羽根で蹴飛ばし、リレー作業のようにして追随する形で実施された。
 機関車の引っ張るマックレー車と、機関車が後方から押し込むロータリー車の連携で、
『マックレー車の積み上げた線路中央の雪を、ロータリー車の羽根に巻き込んで遠くに飛ばす』
という風にして、蒸気時代の大掛かりな除雪は実施されていく事になる。

キマロキ編成を見て〜ここにしかないもの〜

 いきなりどうした。目線が離れすぎではないか。というお声がありそうですが、マックレー車の
『雪をかき寄せて中央に集める』
役割。そしてここに、ロータリー車の
『前方の除雪車が集めた雪を、羽根に巻き込んで遠くに飛ばす』
という各説明を残した。しかし、この中でマックレー車。ロータリー除雪車を見て気になった事はないだろうか?
 機関車・車掌車だけはただ単に黒いだけだが、マックレー車とロータリー車には2つの異なる部分がある。それは
『黄色い警戒帯』
が車体に敷かれている事だ。
 この黄色い帯は、除雪車のジャンル分けにも相当する大事な称号なのである。
 黄色い帯を巻いている…事の起源は、貨車の区分が昭和43年に実施された事に因んでいる。
 実は、これらマックレー車にロータリー車は車両の区分として
『事業用貨車』
に相当する扱いを受けているのだ。そうした事業用貨車の中で、車両区分として貨物列車の速度向上が時代の中で行われたのであった。
 列車近代化の中では旅客列車の速度向上・輸送力向上は勿論、その中には混じって走行する貨物列車もその影響を受ける。貨車は準じて速度向上がなされ、引き上げの時代に入ったがその中には貨車としての役割上、どうしても速度向上に適さない車両も存在しているのだ。

 こうした車両たちには、速度向上が出来ない車両。速度向上に適応できない車両として、国鉄は昭和43年10月。いわゆる、鉄道史の中にも残った
『ヨンサントオ』
のダイヤ改正である。そうした中で、速度向上の一環から外れた貨車たちは
『黄色い警戒帯』
を巻く事に決まったのである。その制限は、
『時速65キロ以上での使用はできない』
という制限であった。そうした中で、除雪車両…事業用貨車として区分されており特殊な役割を背負うこれらの車両は、黄色い帯を巻く対象になったのであった。
 また、この黄帯付与の他には65キロ以上使用不可…の証拠として『ロ』の記号も付けられた。
 そして、黄色帯の他に北海道で活躍する貨車の一部に北海道内だけで使用を完結させる車両に
『道外禁止』
の識別を付与していったのもこの時期である。
 マックレー車・ロータリー車の黄色帯は、事業用貨車として。特殊な車両としての責務を背負ったが故の事だったのである。

 さて。話を戻して。
 この名寄には、全国で
『ここにしか存在しない』
 と言われる貴重なD51形蒸気機関車がいる。見た目は普通のD51形蒸気機関車であるが、この車両は非常に面白い展示方法で全国にその名を轟かせている。自分の中では、名寄への訪問目的はキマロキ編成…というより、このD51形蒸気機関車だったと言っても過言ではない。名寄のD51形蒸気機関車にはどのような知名度が秘められているのだろうか。

 名寄市は北国公園で保存されているD51形蒸気機関車はまず、398号機である。全国でもD51形蒸気機関車の保存数はトップクラスであり、番号の桁はインフレ化。そして1,000以上にまで達するものもあり、その沼を見せているばかりだ。
 さて。この398号機。何が珍しいのか…で言えば、その展示方法なのである。この展示方法をよく見れば、この機関車の存在が全国規模で有名になるのはある意味で必然なのかもしれない。
 まずは、このD51-398の経歴を知っていこう。
 D51-398が誕生したのは昭和15年。日本車輌で製造された機関車だ。そして、最初に配属されたのは岩見沢機関区。ここから活躍を開始し、3年後の昭和18年9月には、蒸気機関車の聖地とも語られた追分機関区に転属した。そして昭和20年代に入って昭和22年。旭川機関区に転属し、更に北への配属となる。
 そして昭和40年代に入ってもまだまだ活躍を続けた。離島。九州や四国では蒸気機関車の活躍が昭和の晩年付近まで続いたものだが昭和44年の10月。D51-398は北見機関区に転属する。この時期では本州方面で考えると101系〜103系に続く国電たちも近代化され、電車たちにカラフルな個性が足されていった時期である。そんな中でも、北海道は未だにクロガネの息が気を吐いていた。
 そして昭和47年3月。いよいよ昭和50年代も間近に迫り、動力近代化も見えた頃に現在の保存場所に近い、名寄機関区に腰を下ろす。そして最後は昭和48年の9月に34年間の活躍を終えて、現在の保存形態になったのである。
 このD51-398は地球周回を基準にして走行距離を算出すると、実に地球60周分の距離を走行した事になる。非常に永き働き者だったのだ。

 さて。D51-398を知ったところでここからが本当の…?真の解剖だ。
 先ほどの説明では、398号機が北海道生え抜きで北国に尽くした蒸気機関車である事を解剖した。そして、ここからが
『398号機の名を全国区に押し上げた展示方法』
の紹介である。自分のかつて地元・京都で購入した中古の鉄道雑誌にこう描かれていたのだ。
『列車の姿で保存されているD51自体が貴重な存在であるため。』
と書かれていた。この記述を見た時に、自分はキマロキ編成ではなくこのD51-398の姿を撮影したかったのである。
 D51自体に関しては、そして列車を組成した姿での展示というのは考えてみれば全国規模で探しても少なく。そしてかつては列車の姿であった…としても客車や貨車が撤去されもの悲しくなっていたり。と何かに曰く付きな感覚が否めない。そんな中で、写真のように列車のような隊列を組んでのD51形の保存は全国規模にして貴重なのだ。
 写真のように、『キマロキ編成』の姿として保存されているので前後車両を挟み組成した
『中間車然』
とした姿は本当にその頼もしさの彷彿…ではないが、機関車の持つ威容。そして列車の中に挟まって裏役者に徹した、機関車のならではな顔を楽しめる。
 何回も光線、撮影条件をボヤくわけではないが、このD51-398の列車としての個性。中間に入ったが故の個性というのは、この時間帯に訪問したからこそよく出せたのだろうと思ってしまうばかりだ。

 キャブ内を観察してみよう。
 キャブ内は通常の蒸気機関車と同様であり、D51形だからとして大きく他の機関車との差異は存在していない。
 ただ、この機関車の仕様。この機関車としての生産が1,100両の規模で製造され、最も普及した運転台というだけの話ではあるのだが。
 名寄の人々がキマロキ編成に向けた気持ち。そして冬を支えた真の力強さへの敬意としてこうした勢いの維持をしているというのが自分の感じた思いであり、配管類に装飾類も非常に均整に。そして美しく整っている。
 決して蒸気が通うわけではないのだが、今にも火を焚べれば動き出しそうなくらいには綺麗な姿をしていた。機関士たちの緊張感に、男の仕事の迫力も感じられるところである。

 列車の姿として保存され、キマロキ編成の中に入るD51-398。前面の撮影については不可能なものの、こうして編成中間に入った姿というのは前面が撮影できないながらも、『中に入っている事自体』に個性を感じられ、それが逆にD51-398のキャラクターになっているようなイメージである。
 このヶ所からは北国活躍の蒸気機関車ならではの副灯が観測できる。前照灯横にある、豆球のような形状をしたものが副灯であり、この副灯は霧の中での走行。そして同時に、北国独自の理由として雪に視界が遮られた際のホワイトアウト時に点灯させて走らせる目的がある。
 明かりを照らす場所を更に確保して、視界を保つ目的があり。増やした前照灯で機関士の視界を拡張させる事で北国の安全を守っていたのだ。
 そして、デフレクター(煙よけ)に関しては切り詰められ、除雪が徹底的に向くように設計されている。こうした部分に関しても、北海道生え抜きとしての魅力が列車挿入という展示でもハッキリ伝わるものである。
 改めてではあるが、前方に確認できるテンダーはロータリー車のものだ。ロータリー車を後方から押し、列車は冬の雪の安全を確保する為奮闘する。
 しかし。こうした北国仕様に満ちたD51-398であったが、実際に撮影してもまだまだ足りない部分が多かった。
 D51-398には雪から身を守る対策として、前方に旋回窓を装着している。しかし、その旋回窓でも足りなく。旋回窓の他には旋回窓の上部にバタフライウィンドウの装備がされており、このバタフライウィンドウで雪を支える屋根のような役割をしていた。
 帰ってから名寄のD51にこの装備がある…と書籍にネットでの調査で判明し、自分の中では肝心なヶ所の撮影を忘れた後悔の1面を抱えることになってしまった。もう少し、事前知識を持ってから挑むべきであったというのだろうか…

 キマロキ編成の大まかな構成としては、先頭の機関車・次位のマックレー車・ロータリー車。そして最後尾の機関車としての内訳になっていくのだが、最後尾には車掌車の連結もされている。車掌車もこのキマロキ編成になくてはならないものなのである。
 具体的に言うと、キマロキ編成では車掌車を連結して更なる作業効率の拡充を図っている。
 キマロキ編成だけで除雪が出来、最終的には雪の跳ね飛ばしが成功しても実は更に先が残っている。作業員を動員せねばならないのだ。
 マックレー車・ロータリー車両が頑張って雪を跳ね飛ばしたその先は、車掌車に動員された係員がスコップを使って雪の壁を切り崩し、線路周りに雪を人海戦術で下ろしていたのだ。
 そして、キマロキ編成はそのまま時速10キロ以下…または時速10キロスレスレをずっと保ちながら走行していく。蒸気機関に人の戦力を総動員して、昔の除雪技術は維持されてきたのであった。
 では、最後尾に連結されているこの車掌車について触れていこう。
 この車掌車は、ヨ3500形のヨ4456という車両だ。角形の車掌車は全国の鉄道貨物のしんがりを務め、特に蒸気機関車たちの全盛期には大活躍であった。
 ヨ4456は、かつてこの名寄には居なかった。名寄市がキマロキ編成の保存・維持を継続していく為…の一環として、キマロキ編成の完全な姿での保存をかつて目指したのだ。そうした中で、キマロキ編成の仕上げの要となった車両、車掌車を追加する事になったのである。
 そうして、ヨ4456は釧路から購入され、このキマロキ編成の最後尾に連結されたのだ。かつては貨物列車、キマロキ編成の最後尾を務めた車両であったが、現在は名寄キマロキ保存会の管理棟として機能している。車掌車の機能を活かした活用であり、キマロキ編成の維持管理として車掌車の枠を越えた第2の活躍に入っている。

 列車最後尾を見てみよう。
 自分がこの場所に訪問した時には既にこちら側が順光線になっており、列車を後打ちで撮影する形になっていた。
 順光線になっているヨ4456。そしてその先にD51-398。先にキ604。そしてキ404から編成が変わってキ911。その前方には59601が連なるようになっている。
 しかし本当に綺麗な青空であり、撮影者も自分だけと言う環境でこの上ない完璧な状態に仕上がっていた。ある意味で訪問時間としては完全にこの位置から見れば完璧である。う〜んしかし。先頭の59601を順光線で狙撃したかったなぁ…。
 小高い丘の上を、今にも蒸気を噴き上げて雪の塊に向かい走り出していきそうなキマロキ編成の姿。この編成の眺めは、物々しさによる迫力に武骨なオーラと。そして北国と雪国の住民たちがクロガネの勇者にいかに大きな信頼を寄せていたか感じられる1コマのように感じられる。

 ヨ4456にも、準鉄道記念物指定のマークが装着されている。車掌車の要…である尾灯に関してはくり抜かれて赤い板を差し込んだダミーになっているが、それ以外は国鉄時代からの車掌車の外装を継承した素晴らしい状態になっている。
 装着されたマークも、北海道の保存蒸気機関車による運転列車…。冬の湿原号やSLすずらん号と同一の形状で何か面白さも感じられるところである。
 車掌車へのステップ付近には白い塗りが入っているが、これは名寄に来てから挿された色差しなのだろうか。黒一色に一筋の閃光のような輝きである。
 多少の改造はされており、既に管理棟としての余生が完璧様になっている状態ではあるが、原形の姿で残存している状態というのは貴重な事であり、列車最後部に連結されている姿は車掌車としての役割を尊重した展示である。
 蒸気機関車の保存や、花形の活躍を残した車両たちの保存が大きく残る現状だが、こうして車掌車が当時の役割もそのままに保存されているのは非常に嬉しい限りだ。

 ヨ4456…形式・ヨ3500形という車両は日本の車掌車の基礎を築き上し車掌車でもある。この車両が改造され。そしてそのデータが反映され、後の車掌車標準形式となったヨ5000形に継続されていくのであった。
 そんなヨ3500形。戦後はGHQ統治のされる中、昭和25年から昭和33年まで製造された車掌車であった。しばらくの国鉄の車掌車の現状としては、GHQ統治に従う為。そして新造車両の製造や予算制限を受ける中で、戦前戦後に疲弊した木造の貨車を改造し、急場凌ぎで使用していく時期が続いたのである。
 しかし。そんな現状を続けていくのはどうにもならない。そして、戦前の鋼製車掌車であるヨ2000形を基礎にした車掌車の開発を実施していく事になったのだ。当然ながら、木製貨車の改造車掌車の評判は現場内でも悪く、この新たに設計されていく車掌車の計画は朗報だったであろう。
 ヨ3500形は、トキ900形の改造グループと完全新造の2つに形態が分離される。
 このうち、トキ900形からの改造に関しては国鉄の全国にある工場。多度津工場や新津工場などでの改造が開始された。
 そして、新規製造になったヨ3500形は595両の製造が実施された。順次、ヨ3500形による戦前設計・戦前登場の疲弊した車掌車の置き換えがスタートしていったのである。また、この時期にはワフ29500形という車掌車と有蓋車を組み合わせた合造貨車の製造も実施されている。

 写真は発電機付近の様子…だが、ヨ3500形の設計に関しては車内だけに関してはヨ2000形。ベースの車両に接近させ、デッキや担いバネ式の足回りに大きく手をかけた。外装に関しても、ヨ2000形同様に設計された状態であり、車両設計には
・小変化
を足して世に送り出す事となったのである。
 ヨ3500形の最もな変化としては、ダルマストーブの車内設置に、電気設備が車内に入った事だろう。この変化は車掌車として大きな進歩を遂げた。
 最終的に、ヨ3500形は1,345両の車両たちが製造された。1,000両以上の製造は、間違いなく国鉄からの絶大なる信頼を受けたと言える証拠であろう。
 しかし、ヨ3500形には速度制限という欠点が存在していた。特徴的だった。長所とも言えるバネの足回りで75キロでの走行は可能になったものの、後に汐留⇄梅田にて高速貨物列車の運転が発表されたのである。製造は長くに渡り。国内メーカーでの製造も続き、多くの工場で改造もされたヨ3500形であるが、そのうち12両が85キロ対応の高速化改造を受けて、2段リンク式への改造も受けヨ5000形へと改造されていった。付番はヨ5000〜ヨ5011となっている。
 しかし、コレらの改造を受けなかったヨ3500形に関しては活躍場所が制限される事になり、碓氷峠。そして四国、この滞在の地である北海道での活躍に留まった。北海道の車掌車として、ヨ3500形は力強い働きを見せ。貨物列車の後方部を支え続けたのである。決して目立つ車両ではなかったが、役割は大きなものであった。
 ヨ3500形はその後、JR北海道への継承も受け、国鉄からの分割民営化も経験した。
 この日の旅である留萌方面との合わせに因んだ
話…ではあるが、分割民営化でJR北海道に継承されしヨ3500形は、留萌本線の観光列車。SLすずらん号にて使用され、編成最後尾に連結される車掌車として第2の働きを見せていた。

 ここまで、長くなったがキマロキ編成各所の解説。そしてキマロキ編成に関する解説などを入れて、名寄のシンボルとなったクロガネの頼もしい冬の戦士を見届けた。
 車両の撮影条件を思う…と少し難しい環境ではあったものの、訪問して良かった場所なのは間違いない。そして、このキマロキ編成は保存会を結成して現在も保存活動を実施している…とあり、次回はそんな折にも訪問してみたくなった。
 ここまでの高待遇な保存車両。ここまでの美を貫く保存車両も中々存在したものではない。そして、我々はこの車両を見られしこの時代に大きな感謝をすべきだろう。
 長くなってしまったが、名寄訪問に関しては少し移動しながら。そしてこの先は音威子府に向かっての移動で、また宗谷本線を旅していく。
 もう少しだけ、最北の旅路にお付き合いください。

 最後に。このキマロキ編成。ずっと前照灯が点灯していたのだが、更には汽笛の吹鳴も可能。そして編成にはブラスト音のギミックが仕込まれており、完全に後は動力機関だけが整えば…な状態にまで整えられている。(ようやくこの部分に触れたか)
 そして長かった最後の写真は、数少ない訪問客だった方に撮影していただいた記録です。
(こんなに調査に内容に時間かけてるから完成しないんですよ)

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