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【読書録】『陰翳礼賛』『文章読本』他3編 谷崎潤一郎

『陰翳礼賛』『厠のいろいろ』『文房具漫談』『岡本にて』『文章読本』の5作品が入っている1冊。『文章読本』が読みたくて手にしたが、その他の4作もとても印象深かった。

『文章読本』

含蓄ある日本語を書くための心得をまとめた随筆。実用的な内容になっている。重要なポイントは太字で強調してくれているのでわかりやすい。以下、太字部分を中心に骨子をまとめてみる(完全な引用ではなく、要約を含む。また、以下の太字は私が付したもの)。

●言語と文章について

言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつけるという働きを持つ。言語は思想を一定の型に入れてしまうという欠点がある。言語は万能なものでない、その働きは不自由で、時には有害(p126-127)。

同じ言葉でも既に文字で書かれる以上は、口で話されるものとは自然違ってこないはずはない。口で話す方は、その場で感動させることを主眼とするが、文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるように書く。(p128)

●実用的な文章と芸術的な文章の違い

文章に実用的と芸術的との区別はない(p129)。最も実用的に書くということが、芸術的の手腕を要するところ(p136)。

●口語体を上手に書くコツについて

口語体の大いなる欠点は、表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥り易いこと。文章を人に「分からせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出来ないことの限界を知り、その限界内に止まること(p140)。

言葉というものが不完全なものである以上、読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差し支えない。日本語は独特な形象文字を使っているのだから、それが読者の眼に訴える感覚を利用することは、活字の世の中でもある程度まで有効(p145-147)。

文章を綴る場合に、まずその文句を実際に声に出して暗唱し、それがすらすらと云えるかどうかを試してみることが必要。真に「分からせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要。字面と音調は文章の感覚的要素で、これが大切な役割を果たしている。(p150-154)

●西洋の文章と日本の文章の違い

日本語は語彙に乏しい。それは、我等の文化が西洋や中国に劣っているという意味ではなく、我等の国民性がおしゃべりでない証拠。国語の長所短所は、国民性に深い根ざしを置いているのだから、国民性を変えないで、国語だけを改良しようとしても無理(p160-164)。

わが国の文学者は、わざとおおまかに、いろいろの意味が含まれるようなユトリのある言葉を遣い、あとは感覚的要素、すなわち調子や字面やリズムで補う。言い換えれば、僅かな言葉が暗示となって読者の想像力が働きだし、足りないところを読者自らが補うようにさせる。作者の筆は、ただその読者の想像を誘い出すようにするだけ。そういうのが古典文の精神。西洋の書き方は、出来るだけ意味を狭く細かく限って行き、少しでも蔭のあることを許さず、読者に想像の余地を剰さない(p173-174)。

語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る十分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければならない(p178)。

●文章の上達法

文法的に正確なのが必ずしも名文ではない。日本語のセンテンスは必ずしも主格のあることを必要としない(p179-180)。

名文とは、長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの、何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの。しかし、名文の正体は、読者自身が感覚をもって感じ分けるよりほかに他から教えようはない(p189)。

感覚というものは、生まれつき鋭い人と鈍い人とがある。多くは心がけと修養次第で、生まれつき鈍い感覚をも鋭く研くことができる。そのためには、出来るだけ多くのものを繰り返し読むことが第一、実際に自分で作ってみることが第二(p194-195)。

文章道においても、和文脈を好む人と、漢文脈を好む人とに大別される。一番手っ取り早く言えば、源氏物語派と、非源氏物語派になる(p203)。

●文章の要素

文章の要素は6つ。①用語、②調子、③文体、④体裁、⑤品格、⑥含蓄(p205-206)。

用語の選択(p206-230)。①わかりやすい語を選ぶ、②昔から使い慣れた古語を選ぶ、③適当な古語が見つからない時に、新語を使う、④古語も新語も見つからない時でも、造語は慎む、⑤耳遠い、難しい成語よりは耳慣れた外来語や俗語を選ぶ。同義語をできるだけ沢山知っていることが必要。最適な言葉はただ一つしかない。最初に思想があってそのあとに言葉が乱されるという順序であれば好都合だが、実際はそうとは限らず、まず言葉があって、そののちにその言葉に当てはまるように思想を纏めるということもある。人間が言葉を使うと同時に、言葉も人間を使う。

調子(p230-251)。文章道において、最も人に教え難いもの、その人の天性によるところの多いもの。その人の精神の流動であり、血管のリズム。①流麗な調子(源氏物語派)、②簡潔な調子(①と正反対)、③冷静な調子(調子のない文章)、④飄逸な調子(飄々として捕らえどころがない)、⑤ゴツゴツした調子(故意に読みづらく書く)。

文体(p251-262)。①講義体、②兵語体(です・ます)、③口上体(ございます・ございました)、④会話体(口でしゃべるとおり)。

体裁(p262-293)。①フリガナ、送り仮名、②漢字と仮名の宛て方、③活字の形態、④句読点。

品格(p293-319)。礼儀作法。①饒舌を慎む、②言葉遣いを粗略にせぬこと、③敬語や尊称を疎かにせぬこと。品格ある文章を作るには、それにふさわし精神を涵養すること。優雅の心を体得すること。それは、われわれの内気な性質、東洋人の謙譲の徳というものと何かしら深い繋がりがあるもの。

日本語に見逃すことのできない特色として、日本語は語彙が貧弱であるという欠点を有するにもかかわらず、己れを卑下し、人を敬う言い方だけは、実に驚くほど種類が豊富であり、どこの国の国語に比べても、遥かに複雑な発達を遂げている(p298)。

われわれは、生な事実をそのまま語ることを卑しむ風があり、言語とそれが表現する事項との間に薄紙一重の隔たりがあるのを品がよいと感じる国民である(p301)。

敬語の動詞助動詞を使うと主格を略すことができるので、混雑を起こすことなしに、構造の複雑な長いセンテンスを綴ることができるようになる。ラテン語も同様。単に儀礼を整えるだけの効用ではない。われわれの国語が文章の構成上に持っている欠点や短所を補う利器である(p316-317)。

敬語をあまり多く文章に用いないが、せめて女子だけでもそういう心がけで書いたらどうか。男女平等というのは、女を男にしてしまう意味でない以上、また日本文には作者の性を区別する方法が備わっている以上、女の書く物には女らしい優しさが欲しい。女子はなるべく講義体の文体を用いない方がよい。講義体は、敬語を多く使うのには不適当(p318-319)。

含蓄(p319-331)。饒舌を慎むこと。あまりはっきりさせようとしないこと。意味のつながりに間隙を置くこと。この読本は、始めから終わりまで、ほどんと含蓄の一事を説いてると言ってもよい。たとえば、主格を省く。テンスを明瞭にしない、感情を直接にそれと言わない。現代の若い人の文章は、無駄な形容詞や副詞が多い。言葉を惜しんで使うべし。

以上から私が得た学びは、文章は読み手の記憶に残るように、できるだけ実用的に書き、言葉は厳選し、足りない部分は調子や字面やリズムなどの感覚的要素で補うこと。文章上達のためには、沢山の文章を読み、書いてみること、というあたりだ。

西洋の言葉と日本語の違いについては、うすうす感じでいたことを、言語化してくれた。日本語は言葉少なく曖昧で、英語に訳すときに言葉を随分補わなければならないという経験を何度もしてきたが、やはり、と思った。

ひとつだけ、女性の書く物には女らしさがほしい、とあるところは、少々ひっかかったが…。

『陰翳礼賛』

その名のとおり、日本文化に深く根差した陰翳(陰影)というテーマについて語ったエッセイである。西洋と対比して、日本や東洋では、陰翳の濃淡によって美を創造し、暗がりに美を求める傾向があることを、日本料理や日本建築を例にとり、西洋の例と対比して縷々綴っている。現代では、どんどん西洋文化が浸透しており、そのために日本らしい文化がだんだん消失しているように感じるが、日本らしい陰翳の作り出す美にもっと注目し、大切にしたいと思った。

ところで、以下の「日本の女の典型的な裸体像」の描写には、読みながら、「失礼な!」とツッコミを入れてしまった。

あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸もない、まっすぐな背骨と臀(しり)の線、そういう胴の全体が顔や手足に比べると不釣り合いに痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のような感じがする。(p47)。

まあでも、そのとおりかもしれないが…。この後、次のように続く。

あれを見ると、人形の心棒を思い出す。事実、あの胴体は衣装をつけるための棒であって、それ以外の何物でもない闇の中に住む日本女性にとっては、ほのじろい顔ひとつあれば胴体は必要なかった。明朗な近代女性の肉体美を謳歌する者には、そういう女の幽鬼じみた美しさを考えることは困難であろう(p47)。

一応、日本女性の美しさに言及してフォローしているようだが…。ちょっと微妙か。

『厠のいろいろ』

厠、つまりトイレに関する短いエッセイ。美しい文章なのだが、テーマがテーマだけに、お食事中にはちょっとキツい。昔の風流な厠を丁寧に描写しつつ、西洋の水洗と比べ、典型的な田舎の家の、母屋とは離れた自然の中にある厠がよいなどと説いている。読みながら、昔の祖父母の家がそうだったなあと思い出した。夜に庭に出てトイレにいくのが怖かったし、暗かったし、水洗ではなかったし…。いくら風流でも、昔のトイレには戻りたくはないなあ…。

『文房具漫談』

万年筆ではなく、毛筆と鉛筆を使うご自身のスタイルとメリットを紹介している、短いエッセイ。日本紙に毛筆を使う人はどれくらいいるのだろう。こちらも廃れつつある日本文化か…。

『岡本にて』

震災の翌年、東京から兵庫県芦屋に移り、その翌年岡本に家を持ったこと、岡本が気に入ったことのほか、震災後の東京のことや、揮毫を頼まれた話などを含む、短いエッセイ。

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以上、どの作品も、とても読み応えがあった。文章読本は、日本語の文章の書き方について、特徴を鋭くとらえていて大変参考になった。その他のエッセイも、日本文化の繊細さ、奥深さを感じさせる作品だった。

また、西洋との比較がなされている記述も多く、外資系企業に勤めていている私にとっては、普段感じている、よくわからないギャップの正体に少し近づけたような気がした。

日本人の衣食住は、今や、西洋文明の影響を大きく受けて、考え方や行動様式も西洋風になってきているが、美しい日本文化の真髄を忘れないようにしたいと思った。

そして、筒井康隆先生が解説を書いているのもよかった。彼が『創作の極意と掟』を書こうとしているとき、谷崎の『文章読本』を読み返すことを考えたが、影響を恐れて断念し、結果的に読まなくてよかった、というエピソードも興味深かった。



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