その化け物の名前は、岡田斗司夫

エピローグ——ぼくは岡田斗司夫に嫉妬している



ぼくは岡田斗司夫氏が好きだ。
クレヨンしんちゃん『オトナ帝国の逆襲』、ジブリの考察や『HUNTER×HUNTER』の考察だけではなくて、
人生相談に、書籍紹介など、これまで何時間も話をラジオ代わりに楽しんできた。

特に、人生相談の相談メールの読解力なんかはすさまじい咬合力だ。
ぼくも仕事で現代文のテキストと格闘することがあるからよくわかる。
それに加えて、あの物語への咀嚼力である。

実際、岡田斗司夫のレンズで、『HUNTER×HUNTER』を咀嚼してみたことがある。『HUNTER×HUNTER』はとうぜん面白くなったし、全くちがった角度から楽しみ方ができるようになったので、岡田斗司夫ちゃんねるには大満足だ。
※実際に、なぜかクレジットカードの決済エラーが続いたため、断念したが、岡田斗司夫の過去の動画がすべて見れるサブスクに登録をしようともしたことがある。

具体的に、岡田斗司夫のレンズを通して観た『蟻編』は、ぼくが言語化できなかったことも含めて、自分の
蟻編はぼくの小さな脳内では理解できなかった世界が広がっていることに気がついた。
それが理由で蟻編のKindle版も買ったし、岡田斗司夫のレンズには本当に感謝している。人生を楽しみ方のひとつを教えてくれたのはこの人である。
そのため、とても感謝している。

しかし、


岡田斗司夫は、ブックオフに売られてしまっているような作品のホコリやヨゴレを払ってピカピカに磨き上げて、その作品の楽しむポイントに丸をつけて教えてくれる達人なのだけど、

岡田斗司夫には欠点がある。


それは、岡田斗司夫のレンズでその作品を観てしまうと、
岡田斗司夫のレンズを通さない自分なりの楽しみ方がちっぽけに思えてしまうからだ。

そういう意味で、岡田斗司夫は、「概念としてのインスタグラム」をやっているのだ。

概念としてののインスタグラム」とは
イケてる誰かのインスタのストーリー写真を見て、いいなと思ってる場所にある時、自分も行ってみたら、「そいつ以上に自分は楽しめないんだろうな」という劣等感を感じて、羨ましいと同時にみじめな気持ちになってしまう現象のことだ。

つまり、岡田斗司夫は、ぼくらにすごくイケてるレンズを格安で渡してくれる。
岡田斗司夫のスゴ技はショート動画で大量にばらまかれている。
観てしまうと、自分の作品の楽しみ方がちっぽけなものに思えてしまう。そういうことを岡田斗司夫はやっているのだ。

つまり、作品に対しての「正解」を知ってしまう気持ちになるのだ。
作品のネタバレというか、作品の解釈方法のネタバレをくらう気持ちになる。

早い話が、岡田斗司夫の考察を訊いていると、「自分もコレに気が付きたかった‼」と嫉妬してしまうのだ。

そんな能力、羨ましすぎて、自分が頼りなく嫌になってしまうわけだ。



岡田斗司夫からの逃走


岡田斗司夫という現象は、作品観賞のアウトソーシングである。

現代アートの世界には、批評家という存在が不可欠だ。
どういうことかというと、以下の文章を。

ジョン・ケージとマルセル・デュシャンは、それぞれ音楽と視覚芸術の世界で革新的なアプローチを持つことで知られています。彼らの作品は当初、大衆に理解されにくいと感じられるかもしれませんが、批評家の存在がその解釈と評価に大きな役割を果たします。

デュシャンの「Fountain(噴水)」は、レディメイド(既製品)を用いた彼の挑戦的なアートの一例で、伝統的な芸術の定義を覆す作品となりました。批評家の視点からすると、これは単なる便器ではなく、芸術とは何か、何が芸術作品として認識されるべきかという問いを投げかける象徴的な作品であり、20世紀の芸術の進化における重要なターニングポイントを示しています。

一方、ジョン・ケージの「4'33"」は、演奏者が楽器を一切奏でず、4分33秒の静寂を提供するという実験的な音楽作品です。大衆には混乱をもたらしたこの作品もまた、批評家によって解釈されることで深い意味を持つことが明らかになりました。彼らはこの作品を通じて、音楽とは何か、音楽的な経験とは何かを問い直し、静寂そのものが音楽の一部であるという新たな視点を提供しました。

これらの例から、批評家は現代アートの世界で中心的な役割を果たし、一見理解しにくい作品に対する深い理解を促進し、その重要性と影響力を明らかにします。ケージやデュシャンのような挑戦的な芸術家の作品が受け入れられ、芸術の発展に大きな影響を与えたのも、批評家の存在があったからこそと言えるでしょう。

ChatGPT4

つまり、ぼくはアーティスト至上主義で批評家という存在を軽視しているわけではない。
批評家と芸術家の相互な読み合いと交流が、現代アートという現象だ。
——現代アートをすごくひらたく表現すると、コナンと怪盗キッドの騙し合い、裏の読み合いのような世界観なのだ。

したがって、岡田斗司夫のやっていることも一種の批評活動であるため、彼の活動を否定したいわけではない。

そうではなく、あのわかりやすさは、自分の頭で考える習慣が備わっていないうちに触れてしまうと、岡田斗司夫を通さないと作品を楽しめない怠けた読解力しか育たなくなってしまう、という危惧があるのだ。

この話を理解してもらうのに、とっておきの例がある。

東京03のコントで、自宅でやるたこ焼きパーティに、銀だこを買ってきちゃうというボケがある。その時の飯塚のツッコミは、「銀だこの方が美味いから(怒ってるん)だよ!!」である。

そう、オリジナルなたこ焼き(読解力)を養うより、銀だこ(出来上がった定番商品)の方が美味い(上手い)のだ。

だから、岡田斗司夫に思考をアウトソーシングするのではなく、距離を置いて自己流の読解力を鍛えたいという気持ちになった。

岡田斗司夫からの逃走である。


もしかしたら、これは
すごくわかりやすい予備校の先生の授業を受けていると「わかった気」になっちゃって復習をしなくなる、という話に似ているかもしれない。

岡田斗司夫にも解けない謎はある

作品鑑賞をする上で、岡田斗司夫にも解けない謎はある。
解けないのかもしれないし、解かないのかもしれない。

たとえば、フランス現代思想という哲学体系はひじょうに難解だ。
ドゥルーズ=ガタリやラカンなど
さまざまな名前が挙がるが、これがイヤにむずかしい。
日本でもニューアカブームというものが80年代にあって、浅田彰が挑んだテーマでもある。
現代では、千葉雅也が挑み続けている重厚感のある難題である。
フランス現代思想の書籍はどれも本当にむずかしい。
むずかしいものをむずかしいまま理解する読解力がないとその真意を受け取ることはできないのだという。

話は変わったが、要するに、
岡田斗司夫のようにやさしく噛み砕いて咀嚼してくれた概念は、それだけオリジナルから遠ざかったものであるということだ。


自分で切り拓いてこそ真の鑑賞

なんの先入観も持たずに、作品を鑑賞してたどり着く感動は、本物の感動である。
と、ぼくはどこかでそう思っているのだ。

もちろん、岡田斗司夫や宮台真司や宇野常寛の
手導きでたどり着く感動があってもいいと思う。

しかし、彼らのレンズをとおさない純粋な作品鑑賞の態度を養えるようになることが、どうやらぼくらの人生には必要みたいだ。

作品を鑑賞するということは、西洋近代の美学の考えに照らせば、人間形成において重要な役割を持っているためである。

岡田斗司夫の解釈がないと作品を楽しめないことは、すなわち、自分の人生も誰かの解釈がないと楽しめないことと同義なのだ。

したがって、ぼくは岡田斗司夫と意識的に距離を置く。
オリジナルな自分だけの作品鑑賞の態度を養うための修行期間が必要なのだ。














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