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コスパ教──ぼくらが知らずに入信してた新興宗教について

コストパフォーマンス。
気づけば、いつの間にかこの言葉はぼくたちのとなりにいつもいる友達のようなやつだった。

「値段の割にお得」
「出費はリーズナブルだが、商品は豪華」

そんなコストパフォーマンスに、気づけば誰も魅了されていた。
やがて、それは人生の領域にまで侵入してきた。

「コスパのいい学部選び」
「コスパのいい恋愛」
「コスパのいい人生」


どうやらぼくたちは、いつの間やら
知らぬうちに、とある新興宗教に入信していたようである。

『コスパ教』
教祖を持たない新興宗教。
そのヤバさと威力に関する考えを示したい。

コスパは、人生を決定する価値観として信じるに値するものだろうか。
勉強や恋愛をコスパで評価する考えは、本当に「あり」なのだろうか。



「この間、泊まったホテルのコスパ最高で……」

こんな切り出しから始まる旅行トークを何度、耳にしたのだろうか。
60秒以内のショート動画の中で何度も登場するこのフレーズには、聴き馴染みもあるし、何より快適さすら感じる耳障りがいい言葉である。


この言葉は、10年前はせいぜい
値段に対して、商品(サービス)の品質がグッドの意味で使われていた。

しかし、ここ3年ほど前から、
おそらくひろゆきやメンタリストダイゴの切り抜きが世の中に出回る頃には、
この言葉の意味は、明らかに強化され、抽象化されて拡張された。
より普遍的な言葉になったのだ。


支払ったコストに対して、
高いパフォーマンスを発揮すること全般を指す概念に生まれ変わったのだ。

そして、浸透したこの価値観にしたがって、
ぼくらの選択は規定されるようになった。


値段の割に、豪華なマンションに住みたいし、
値段の割に、高見えする服で身を包みたいし、
値段の割に、楽しめる国へ旅行へ行きたい。

ある意味、無邪気に楽しんでいたこの「値段以上」は、いつしかぼくらの中に浸透して、気づけば欠かすことのできない要素になった。
つまり、これらの価値観が、人生を規定するようになったのだ。


最小のコストで、
最大の利益を。


最小の努力で、結果を出す勉強法。
最低限のコストで稼ぐ仕事術。


気づけば、ぼくたちの周りには、
世の中に出回る情報の多くは、このようなコンセプトで溢れる世界になっていた。
人生のコンセプトがカチッと切り替わった瞬間だ。


ぼくは、こんな価値観の中で生きる人のことを
「コスパ教徒」と呼ぶことにした。(いや、ぼく自身もかなり熱心なコスパ教徒だ)

そして、出会うべくしてこの問いと出会うことになる。

ぼくたちの人生は、本当にそれでいいのだろうか。コストに対するパフォーマンスのよさは、人生の指針になり得る概念なのだろうか。
つまり、宗教(=人の生き方)を規定するのに十分な設計がなされた経典なのだろうか。


たとえば、
勉強はコスパなのだろうか。

東京大学医学部に在籍中に、司法試験の予備試験に合格して、卒業後、会社を運営しながら、自身はタレントやYouTuberとして活動し、
公認会計士など難関資格を次々に取得する河野玄斗が少し前に出版した本の帯に書かれていたフレーズがある。

「勉強はコスパ最強の遊びだ」

河野玄斗によれば、勉強の時給4万円なのだという。
1000時間勉強して、将来の年収が100万円アップする場合、勉強の時給は4万円になる。
という論法で、なるほど非の打ち所はない。

だが、本当に勉強はコスパだけなのか。
「知る」それ自体の楽しさは、どこに行ってしまうのだろうか。

知る→考える

このプロセスの楽しさをいっさい度外視した考え方だ。
「将来の年収が100万円アップするから」
勉強をするよりも
「面白くて仕方なくてハマっちゃって気づいたら受かってた」
の方が何倍も価値があることなのではないだろうか。


できる人には、東大医学部へ行って司法試験や公認会計士試験に合格することは、「コスパがいい」考え方なのかもしれない。

しかし、河野玄斗(的な生き方)は、医学でも法律でも会計学でもなんでもいいが、どれか一つでも味わって、反芻して、味がいつまでも続くスルメのような楽しさを知っているのだろうか。


なんというか、
楽しむの方向性が、未来にばっかり向いている気がするのだ。
将来年収○円アップする。
それより大事なのは、イマココの知る喜びと考える楽しさなのではないだろうか。


では、
「恋愛はコスパが悪い」という考え方はどうだろうか。

少し前にTwitterで流れてきたが、
結婚と風俗を対比しながら、かかる値段や労力を算出して、風俗に通い続ける方がコスパがいい、と断定する内容だ。

対比の対象が、制度とお金を支払うサービスなので、そもそも破綻している気もするが、
感覚的なところだけ柔軟にキャッチして話を前へ進めたい。


この対比に欠落している視点は、ギブよりテイクの方が幸せであることを当然視しているために、見落としてしまっているギブの楽しさである。


ギブする=なんでこんなことしてあげたくなっちゃうのかよくわからないけど、なんかしてあげたい


こういう感情は、人にならおそらく誰にでも備わっているものだと思うが、その視点が欠落してしまっている点だ。

人から見たら搾取に見えても、
人から見たら傷の舐め合いに見えても、
人から見たらイタイ恋愛だったとしても、

その2人の中でそれが「あり」なのであれば、
それは他人から何も言えることはないのではないだほうか。

つまり、恋愛とコスパとは別次元の問題なのである。
しかし、テイカーに怯えてギブすることに臆病になった結果、
恋愛はコスパが悪いという結論になっているのではないだろうか。


このように、ぼくらの人生にはコスパが知らず知らずのうちに大きな存在になっており、
コスパがあらゆる決定の指針になっているような気がするのだ。


そして、自分で考えることを放棄してしまった人には、コスパがすべての指針になっており、
敬虔なコスパ教徒は、今日も熱心にひろゆきとメンタリストの助言にありがたく耳を傾ける。
そして、目の前のあらゆる選択に損か得かの二文法が刻まれる。

たとえば、散歩中に鳥の鳴き声に巧拙にこだわりながら聞き耳を立てる行為は損なのか、得なのか。
東京から仙台へ向かう予定だが、新幹線に乗らずにローカル線を乗り継ぐことは、損なのか得なのか。
『鬼滅の刃』や『HUNTER×HUNTER蟻編』を何度も何度も読み直してしまうのは、損なのか得なのか。
なんの意味もないこだわりで少し肌寒いのに我慢してファッションを徹することは、損なのか得なのか。
このように、なんとなく没頭してしまうことは、損得で割り切ることができるのだろうか。

すべてがコスパになった時、
ぼくらに残るものなんなのだろうか。
だから、ぼくらどこかで一度立ち止まる必要があるのではないか。
それが、ぼくの想いである。



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