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1人の人間が亡くなるということ

誰もが生涯で1度は、身近な人物が亡くなるという経験するかもしれない。

私は身近な人物の死を経験するまでは、人の死はただただ悲しいものだと考えていた。故人との関わりが深ければ深いほどに、その悲しみは深いものになるのだろうと漠然と死を捉えていた。

しかし昨年祖母が亡くなり、身近な人の死とは単純に「悲しい」ということだけではないと実感した。

時に死とは、ややこしく複雑で混沌としたものであると思えた。

私が初めて身近な人の死を経験したのは25歳の時、仲の良かった祖母の唐突な死であった。

小学生の頃にも、父方の祖父母を続けざまに亡くすということを経験したが、幼さと生前に関わりがあまりなかったことで「悲しい」という感情を少しだけ経験したに過ぎなかった。

大人になって初めて、身近な人物の死を経験した時、「悲しさ」だけではない様々な複雑な感情が入り混じり、単純に大好きな祖母の死を悼めないことにジレンマを感じることになった。

ただ悲しいだけだと思っていた死が、実はそうではないと知った時、世の中の多くの人は、死をどのように感じたのかが気になった。

そこで私が祖母の死を通して感じたことをここに記録しておこうと思う。

自分はそうではない。とかこう感じたとかあればコメントにて意見が欲しい。

①死までの過程が壮絶すぎる

祖母の死へのカウントダウンは、死の2カ月前に突如末期がんが発覚したことで始まる。

判明した時にはすでに余命2カ月余りだった。

そこからは病院や、在宅医療の医師、看護師探し諸々で非常に忙しかったことを覚えている。

兎にも角にも知識が無いのだ。どこの病院が良いのかも分からない。

治療ができず退院することになった際には、自宅に訪問してくれる看護師や医師はどこで探せばいいのか。緩和ケアがどこも満床で入れない場合はどうしたらよいのか。介護保険の申請はどこでするのか.....?

もう何が何だか分からない状態。こういうことを義務教育で学びたかったなどと悪態をつきながら、時に無駄足を踏みつつ1つずつ進めていった。

こういったことに手間取っている間にも、祖母の体調は日に日に悪化していき、余計に焦り手間取る。優先順位が全く分からないのだ。

人の最期は、「病気になったら病院を受診して治療する」なんて単純なものではない事をひどく痛感した。とにかく手続きやシステムがややこしい。

②死の間際の人間をみる辛さ

結果的に祖母を自宅で看とるという選択をしたのだが、末期がん患者の現実は過酷だった。

無論、一番辛いのは当の本人だということは承知の上で書く。

我慢強い祖母が一日中痛がる姿を見て「がんというものは、こんなにも痛いものなのか」と愕然とした。

痛み止めが効かないという痛みを経験したことのない私には、見るに堪えなかった。

夜中に何度も起き上がろうとしたり、食べたはずの夕食を食べていないと騒いだりする言動も徐々に見られ、がんと同時に認知症も始まってしまったのではないかと疑った。

今思えば痛み止めのモルヒネで意識が朦朧としていたのだと納得できるが、当時はボケてしまったのではないかと大いにショックを受けた。

正直に書くと、日に日にやせ細り、意識が朦朧とする祖母を見ることは耐えられなかった。とてもじゃないが、自分の心が保てなかったし冷静ではいられなかった。

薬を飲ませる手が震えたし、何度も自宅で看取ることは困難ではないかと感じた。

毎日祖母のベッドの近くに行く度に憂鬱な気持ちになり、そしてそんな弱い自分の精神を自覚することが一番辛った。

祖母を看取りたい気持ちと、現実を受け入れられず逃げ出したい自分の気持ちでぶつかり合っていた。

本人が一番辛く、悲し状況なのに、なぜか自分が一番辛いとさえ感じた。

それくらい身近な人が苦しんでいる姿は、見るに堪えないのだ。

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末期がんの家族を自宅で看取るということは、それなりの知識や家族のメンタル、協力体制が必要なのだと実感した。

しかし多くの人がそれらを準備する余裕なくそういった状況に追い込まれる。

切羽詰まった状況で、冷静な判断ができないのは当たり前だが、そういった準備不足の面もあり、遺族は故人の死後「もっとこうしていれば.....」という感情が止めどなく溢れてくるのかもしれない。

私自身も当時の自分の不甲斐なさを何度も思い起こしては、情けない気持ちになった。

③病院への理不尽な怒り

痛み止めであるモルヒネを、検査入院した先の病棟看護師たちは、本人にも聞こえる大きさの声で「麻薬、麻薬」と連呼するので、私は嫌悪感を感じた。

ただでさえ家族や本人にとっては、つい1か月前に末期がんが判明したことすら受け入れられないのに、痛み止めが実はほとんど麻薬だという事実を"何度"も突きつけられたくはないのだ。

しかも当時本人には、寿命が"すぐそこま"で来ていることを伝えられていなかったの"に"だ。(祖母の性格を考慮し家族でそういう方針をとった)

当時はそういった病院の対応に不信感を感じた。

無論、当時の私は気が立っていたことは否めないし、八つ当たりである節もあった。

末期がんの祖母と私たち家族は、とても不安定な状況なのだから「もっとデリケートに対応して欲しい」という身勝手な思いがあったことも確かだ。

加えてその病院は、がん専門の病院ではなかったし、日々様々な病気で入院している患者さんたちと向き合っているスタッフに、私の願望は無理難題であったと思う。

当時、直接看護師にそういった配慮を希望することを口にこそしなかったが、そう感じることさえ自分たち家族を特別視しろというクレーマー的発想であったと現在は感じている。

私は命の現場で闘う医療スタッフの過酷さや、責任感の重さなど、現場スタッフの背景を全く想像していなかった。

祖母の死後、世界的に流行するウイルスの蔓延が加速する中、何度も医療現場で奮闘する医療従事者の姿をTV越しで見たことで、ハッとさせられた。

配慮していなかったのは自分の方だと気付かされた。

相手の背景を知ろうとしないで、自分の背景を察しろというのは可笑しな話だと気が付くことができた。なんと愚かだったのだろう。

④何度目かのオピニオン

当時は、がん判明後の病院だけではく、判明以前の病院にも怒りを感じていた。

末期がんが発覚する少し前に、高熱で救急病院に運ばれた祖母に担当医は、どこも異常がないと結論付けた。何度も身体がだるいと訴える祖母に、「心の病気ではないか。ここでは診られない。」などという言葉を発した。

その後いくつか目の病院でようやく末期がんだと分った際に、「何度も病院に受診したのに何故.........」と、これまで診察した医師に対する怒りがMAXになっていた。

当時医師や病院のせいばかりにしていたが、裏を返せば近くで祖母を見ていた私も何故、祖母の変化に気が付かなかったのかと思わせられた。

一番近くで見ていたのに、変化に気付けなかった自分のやるせなさから、責任転嫁のような気持ちが沸き起こっていた節も否めない。

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こういった病院に対する怒りは、当時頭の多くを占めていた。

直接医師や看護師に怒りを伝えることはもちろん無かったが、病院に対する不信感というものが募っていった。

その根本には、「病院に行けばなんとかなる」という気持ちが私の心の根底にあったからのように思う。

医師でも困難な症例や、末期がんのように根治困難な病気が存在することを、これまで具合が悪くなれば病院を受診し回復してきた私には、真には理解できていなかった。

医師や看護師は神様ではないのだ。

全ての病気を発見し、根治させることが不可能なのは明らかな事実である。

故に、死を迎えない人間はいないのだから。

私だって母親なのに、息子の全てを理解しているわけではない。息子の気持ちの変化を見過ごしてしまうことだってある。

私はなんて自分勝手なことを感じていたのだろうと、祖母の死後に何度も感じた。

⑤予想外の安堵感

祖母の死後、悲しさと同時に安堵感もあった。

苦しんでいた祖母が安らかな顔になり、ようやく苦しみから解放されたのだと思うと、思わず「良かったね」と言ってしまいそうな程であった。

そして祖母の介護をメインにしていた私の母にとっても、私から見たら肩の荷が下りていたように感じる。

当の本人は悲しみに明け暮れていたが、近くで母を見ていた私は「この状況が続くと母まで病気になってしまうのではないか」という心配があった。

体力や気力的な問題もそうだが、どちらかというと「実の母が末期がんであることを受け入れられずにいる私の母」に対して、状況が長く続けば続く程、メンタル的な問題が出てきてしまうのではないかと懸念していたのだ。

そういった2つの意味では、祖母の死後に悲しさだけではなく安堵感も感じることができたのは想定外に良い事でもあった。

⑥死を悼まない人がいるという事実

一番誤算だったのが祖母の死後、純粋に「死を悼む」ということ"だけ"を目的としていない人がいるということだった。

やらしい話、遺産や相続の問題だ。

正直当時は、「人が亡くなった時になんて話をしているんだ!」と心の中でその親戚をフルボッコしていたが、これもまた人が亡くなるということなのだと現在は受け入れられている。

現実的には、遺産を法定相続人たちで分配しなければならない。

遺書の有無を確認し、法定相続割合にするのか、はたまた個人の事情を考慮するのかどうかを協議の末、手続きをしなければならない。

故人の死後にやらなければならない手続きの1つなのだから、そういった意味では仕方がないとも言える。

純粋に故人の死を悼むということを私はどこか決まり事のように思い込んでいたが、人間には自由意志がある。

強制することはできないのだ。

花を見て綺麗と感じるのか感じないのかは、本人が選択するのではなく、心から自然と沸き起こる生理現象のような感情であると私は思う。

人の死後、自然と悲しさが溢れるのか溢れないのかも同じことが言える。

溢れない人がいても仕方がないと思えるようになった。

そしてもしかしたら、目の前の人は悲しさで涙が溢れているのに、私にはその涙が見えていないだけなのかもしれない。

【死を「悼む」ということ】

「悼む」という言葉の意味を調べてみると、

「悼む」の語源は「心臓が悲しみで驚き揺れる」という意味があるらしい。

そして「悼」という漢字は、

「心臓」や「心」を表す「りっしんべん」と、人が太陽より高いという意味の「卓」の成り立ち。「心が悲しみで驚き揺れる」という解釈から、「人の死をあわれむ」といった意味を持つ字。

という漢字のようだ。

祖母の死後、病院でされた対応への悔しさ、手続きのややこしさ、親戚の非常識にも思える言動で、純粋に死を悼むだけの時間があまりないことに、当時はひどく苛立った。

しかしこの漢字のように、私は祖母の死で大きく心が揺れ動かされたことは事実だ。

純粋に「悼む」ことだけに集中していたら、きっと私の心はいつまで経っても揺れ動かされ、回復しなかったかもしれない。

様々な人と関わり合って生きているからこそ、助けられたり、時に振り回され、感情をかき乱されるが、あえてかき乱されていた方が良かったと思う瞬間もあるのかもしれない。

「人の死」というものは悲しく、複雑でややこしいものであると同時に、周囲の人間に様々な感情を沸き起こし、時に成長させる、「非常に意味のあるもの」であると私は考えている。




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