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男性として、女性にどう接していけば良いのだろうーあるデンマーク人男性の告白と対談

これまで面白いと思ってきたジョークが、周りが凍りつくようなものになってきていると感じている男性は多いのではないか。今の時代、男としてどういう発言をしていけば良いのだろう。フェミニズムのレトリックに合わせて言葉を選び話す、いわゆる『ものわかりの良い人』的な振る舞いをするか、あるいはだんまりを決め込むか。多くの男性はとても難しく歯がゆい思いをしていると思う。Podcast "Karrierekvinder" より

デンマークのポッドキャストでそんな発言を聞き、とても興味を持ったわたしは、その発言者を辿っていった。そして見つけたのがこれから紹介する本。この発言の本人で、本の著者。アナス・ホー・ラスムセン Anders Haahr Rasmussen(一字違いで昔の首相と同じ名前ですが同一人物ではない)、1979年生まれのジャーナリスト。この著書がきっかけで、フェミニズムに関して公の場で発言する機会が増えた、デンマークでもまだ数少ない男性の一人。今回はこの著書がものすごく面白かったので、部分的にはなりますが紹介してみたいと思います。

けれども、最初に断っておかないといけないことがあります。それは、わたしがこの本を読むときにはどうしたって自分の立場、つまりヘテロの女性で外国人であるという立場からしか読めなかったということです。あちこちの新聞やレビューサイトでこの本のレビューを読んでみたけれど、書いた人の性別によって視点が少し異なっていると感じざるを得なかった。わたしは男性の立場からはこの本は読めない。だから、読み方が偏っているかもしれないという断りを入れてから、自分に響いた箇所を中心に紹介したいと思います。

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アナス、それは男の視点だよ..

女性が社会から求められている性の在り方、それを今の時代、男性はどんなふうに紐解いていったら良いのか。MeTooやリベンジポルノなどの現象を踏まえ、男性の立場から、これまで当たり前だったことをなかったことにせず、オープンに、正直に向き合って、言葉にして語り合い、新しい男性としての在り方を探りたい。それが著者がこの本を書いた理由なのだという。

そんな著者の本は、まず自身の幼少時代から始まる。体育の時間の後に入るシャワータイムが男女で分けられたという体験(ここで初めて性を意識したこと)、思春期が遅れていたことで味わった恥ずかしさなど、子ども時代に感じた自分の男性性。そして、大人になってからの恋人やパーティで出会った女性たちとの関係。ベッドに行くまでのコミュニケーション、女性の出すサイン、それをどう受け止めるか、これまで自分がどう受け止めてきたかなどが、赤裸々に描かれている。簡単に男性の求めを受け入れる女性たちはどう見られるのか、そして「そんな女」だと思われないために、彼女たちはどう振る舞うか、それは理解できるけれど、彼女たちの受動的な態度を受け止めるのは難しいなど、性に関する女性とのコミュニケーションの難しさについて、自身の立場から多くを語っている。

読み進めていくにつれ、正直、少し場違いというか、これは男性の視点で書かれているなという感覚になることが多々あった。女性を自分との対の性として受け止めていることをひしひしと感じた。あまり居心地の良くない違和感を持ちながら読み進めると、突然、対談/インタビューのページに入る。そしてその後、この本の中では、大学の研究者やフェミニストらとの対談がいくつか紹介される。この対談によってこの本の面白さが際立ってくるので、ここからはその中から4つを紹介しようと思う。


どういう疑問を設定するかで見えてくるものは変わる
ドーテ・シモンセン Dorthe Gert Simonsen

最初の対談の相手は、コペンハーゲン大学の准教授、ドーテ・シモンセン(女性)。著者は、本の中で記した自身の性体験や女性とのパワーバランスについて思いを綴った原稿をシモンセンに見せ、意見を求める。著者からシモンセンへの質問はずばり「どうやって、ぼくは女性を襲うことを避けられるか」だ。これは、同意があると思い込んで性行為に至ること、夜道に女性の後ろをジョギングして女性を不安にさせること、薄着でジョギングしている美しい女性を目で追ってしまうこと、これらの行為を、自分はどうしたら避けられるかということで、もちろん実際に彼が女性を襲うということではない。ただ、自分が男性という立場から、女性を抑圧せずに存在するにはどうしたら良いのかという質問を、著者はシモンセンに投げかけた。

シモンセンからの答えは興味深い。
その質問が生み出すものを考えてみてください。その質問から描かれる男性像とはどんなもの?女性像は?正直言って、わたしはあなたの質問の女性にはなりたくないですね。権力者対犠牲者、という構造がそこにはある。この言葉が作り出す、古典的な性的ポジションとは何だと思いますか?その構造を、その男女の関係を変える新しい質問を考えてみて。」

シモンセンは、夜にジョギングする著者の友人男性が、女性の後ろを走らず、脇道を走るようにしているという話に「(移動するかどうかは)女性自身に決断させないといけないと思いますね。男性が先回りして、ものわかりの良いように振る舞うことが良いことではないんです。女性を、一人の人間として位置づけないといけない。そうでないと、男女の関係は閉じたもの、固定したものになります。あなたは良い人になるかもしれないけれど、そこに本当の人間らしさはない」と指摘してる。

フェミニズムが男性に求めているものは何か
マイケル・キンメル   Michael Kimmel

男性ジェンダー学の第一人者でアメリカの社会学者である、マイケル・キンメルにも著者は留学時に話を聞いている。自分が美しい女性を目で追ってしまうということ、そこに性を感じてしまうことについてどうしたら良いのかという著者の質問に、キンメルは答える。

その美しさは、自分個人に向けられた美だという考えを捨てるのです。見てしまっても、それ以上の権利は自分にはない。もし薄着をして身体の線がはっきり見えるとしても、それはわたしのためにされているのではない。だからわたしは何も彼女に言う権利はないのです。彼女は自分のためにその恰好をしているのだから。見てほしいという思いはあるかもしれないが、それはわたしに、ではない。わたしには許可は与えられていない。

著者はさらに、自分がプレーしているデンマークのサッカーチームで、試合に勝つと歌う歌がセクシズムに溢れているため、違う歌を歌おうと提案したエピソードについて話す。その時のチームメートは完全に沈黙。そして実際に試合に勝った後には「アナスがいるから、あの歌は歌えない」と仲間から言われたという。「すごく歯がゆい思いをしたんです、だってそれは、僕が仲間に注意したみたいな、上から指示したようなニュアンスで受け取られた感じがして」と著者。それに対して、キンメルは答える。

「君は彼らに立ち止まって考える機会を与えたんだ。歌うのを止めろといったわけではない。君はあの歌は嫌な気分になるというメッセージを伝えたんだ。そうすることで、他のメンバーはどうしたって、その歌えなかった歌の内容について考えざるを得ないのだから。それが彼らの望みであるかは別にして。そして君がいない時に歌っているとしても、それは内容について考えた後に歌っているのだから。認識はできている。」

著者:「男性は周りから監視されていると感じているのではないか。これはもう言ってはいけない、してはいけない、もう何もしてはいけないと。そして自分が安心できる、小さなグループに身を置いて、そこでだけほっとすることができるような。」

キンメル:「多くの男性が、周りから引かれるようなことを言いたくないというのは、1)空気を読めてないような行動をしたくないから、2)自分たちに怒りを向けられたくないから、というのがあるのかもしれない。何を言ったらよいのかわからないから、沈黙してしまうのかもしれない。でも、そんな状況でも、本当は『よくわからないんだ。これを言ったら怒るかもしれないけど、でも言わずにいられないから、ぼくが分かるようにそれの何が間違っているかを教えてくれないかな』と言えることではないかな。これは、許しともいえる。自分がこれまで育ってきた環境のなかで、本当のところ、理解できてないことがある。それを理解できるように助けてほしいということ」

キンメルはここで、フェミニズムについて言及する。「フェミニズムというのは、われわれにこれまでの態度、受けてきた躾、考え方、わたしたちが男性として社会化されてきた方法に再び向き合うことを求めているんだ。われわれは再考する必要がある。フェミニズムは新しい眼鏡でそれらを見直してくれと言っている。わたしの経験談(ここでは端折るが強いセクシズムが表れている過去の経験)も、昔はこうだったということをシェアして、でもそれを今もっと違う視点で見たいと思うから出している。もし君がそれをバックアップしてくれないなら、わたしが考え直すことを応援してくれないなら、そんなことはしたくないわけだ。つまりフェミニズムは、われわれの過去ともう一度向き合うけれども、それをしても、また人々の輪の中に入っていける可能性を残しておかないといけない。追い出しても何も良いことはない。

著者は、この対話をこの本にまとめ切ったあと、キンメルがアメリカである女性研究者からセクシャルハラスメントで訴えられたことを報告している。キンメルは社会学者にとって名誉であるJessie Bernard awardを受賞することが決まっていたが、この一件により取り消された。これほど、性について、フェミニズムについて真摯に向き合っているようにみえる著名な社会学者でさえ、そのようなことが起こる。


自分が良い人になるための宣言より当事者の声を聞け
モンス・ビッセンバッカー Mons Bissenbakker

あるフェイスブックへの投稿がきっかけとなり、ビッセンバッカーと対談をすることになった著者。その内容とは、著者が自身の育った時代や当時の様子を考えると、ホモフォビア的、人種差別的な言葉遣いは、それが間違っていると今はわかるけれども、それでも自分のどこかに残っていることは否めず、それを踏まえて、オープンに、正直に語り合っていくしかないと思うと記したものだった。これはこの本の前半で一貫して著者が表明している立場であり、ひとつ前の対談者であるキンメルとも、同じような対話をしている。

これに対し、冷たく、辛辣に反論したのがビッセンバッカーだ。「これまで読んできたレイシズムやホモフォビア分析の中でも、最も乏しい分析のひとつだ」と彼は言い放った。

のちに2人は対談する。ビッセンバッカー(コペンハーゲン大学准教授)はそこで改めて著者を批判する。「自分が偏見をもっていると認めることに価値がある、という考え方自体が問題なんだ。それを正して、良い人になりたいとでもいう思惑が裏にあるのだろう。」「君が自分の言葉の中にホモフォビアやミソジニー的なものを認めて、『また言ってしまうかもしれないけど』と言うとき、君はわたしに何を期待しているんだ?『そうだね、アナス、しょうがないよ。がんばってるもんね』とでも言ってほしいのか?そんなことが良いわけないだろう!君が、心地よく自分のホモフォビアについて語る場を持つっていうのは、わたしにとってはひどく恐ろしい場が開かれるってことなんだよ(ビッセンバッカーはトランスジェンダー)。次に会った時に何を言い出すかわからないんだから。君にとって仕方がないことのために、わたしにとっての安全が除外されるんだ。『ホモフォビアを乗り越えるために、もう少しホモフォビアがあることも受け入れよう』ってロジックで。」

多分君は、自分がどう思うか、どう感じるか、そればかりではなくて、それによって影響を受ける他者の言葉を聞く、ということをした方が良いのでは?」「自分で自分はまた間違いを犯してしまうだろうと、始めから認めるって、なんという野心のなさだ。始めから無理だと認めるというのは、権力関係の存在をそのまま受け入れるっていうことだよ。何とやる気のない態度だ。宣言するのは、聞こえが良いかもしれないが、それだけでは終わらないんだよ。『これはおかしい』と、人々が言いにくくするということでもあるんだ。宣言することで、自分の責任を放棄しているようにも見える。」

間違っても良い、と宣言すること(また差別的なことを言ってしまうかもしれないと認めること)が、何をするのか。その宣言がもたらすことについて、著者はのちに、考えたことはなかったと認めている。自分は正直であれば良いのだと、それだけを思っていたと。

ビッセンバッカー:「君にとっては、他人についてコメントして面白いかもしれないが、それを言っている自分がだれなのかを考えたことはあるのか。ぼくらはカテゴリーじゃないんだよ。君は「ぼくは白人でヘテロの男である」ということを強調するけれど、そうじゃない。君の言動がそれをしているんだ。例えば、君は君じゃないだれか別の人のことを話して、一見「ほらみてくれ、ぼくはこんなに偏見があったんだ。それで良いと思っていたんだ、ばかだろう?」と言いたいだけかもしれないけど、同時にそれは、君がその他者とは違うという宣言なんだ。君は(当事者として)そんな風に見られないから、全然危険に身をさらしていないからできるんだ。でもわたしに同じことは危険過ぎてできないからね。」
著者:「どんなふうに危険なんですか。」
ビッセンバッカー「わたしは君のように色々なカテゴリーについて語れないんだよ。」「それ(自分の立場から他者を語る)ためには、わたしはカミングアウトしなきゃいけない。君との対談でも、ネットでも、公の場でも。それはものすごくリスクが高いんだよ。」

≪このビッセンバッカーの言葉を読んでふと思ったのは、自分の立場として何かを語るとき、その立場の強弱が確かにあるということだ。わたしが例えば女性として差別されること、外国人として差別されることを公の場で語るとき、それは私自身の経験として語る。つまり、自分の立場を明確にしてその問題を指摘することになる。その時のわたしは、女性で外国人であることを隠せないし、それによってネットや公の場でさらに差別的な言葉をかけられる危険があるということだ。≫

ビッセンバッカーは続ける。「君にとっては、ヘテロであることを公言するのは全く危険ではないよ。でも他のカテゴリーの者にとって、それは同じではない。君以外の立場の人たちが、自分の立場から語ること自体がどれほど自己を危険に晒すことになるのか、君のやり方ではわからないだろうね。」

リベンジポルノは女性を男性から遠ざけるだけ
エマ・ホルテン Emma Holten

前回の note でも紹介したエマ・ホルテンは、フェミニストでアクティビスト。リベンジポルノを経験し、本人の同意なしに個人の裸の写真を第三者に公開することの問題を指摘している。ホルテンは、著者との対談でこの経験を振り返って語っている。

「リベンジポルノっていうのが、男対女という構図じゃないというのは、わたしにとってはとても重要なこと。世の中には2つのグループがある。一つは互いを信頼して、男女の関係を持ちたいというグループ。もう一つは、それを壊したいというグループ。彼らは安全な場所を壊し、他者をいつも不安に陥れる。そうした雰囲気によって、セックスはもっと減る。男女の親密さもなくなっていく。リベンジポルノがもたらすのは、男性と女性が互いを信用しなくなるってことなんです。そして、若い女性に裸の写真を撮るなと言ったり、仮面をかぶりなさい、いつも。タブロイド紙の一面に載るような恥ずかしいことはしないようにって忠告するんです。」

もっと、男の人たちには、女性を不安にさせる男性たちにむけて声を上げてほしいと思う。わたしたちにもっと信用してほしければ、信頼できなくしている原因に踏み込まないといけない。」「女性だってもっと男性と仲良くしたいし、セックスだってしたい。でもそのためにはその環境が安全だと思えないといけない」「性差別的な行為やリベンジポルノは、女性が男性に性的なアピールをさせなくしている。だってあまりにも危険すぎるから。そこにもっと多くの男性は気づいてほしい。もし男性がもっと女性と親密になりたい、相手を見つけたいって思うならなぜ、嫌な体験をした女性を攻撃するの?むしろ、女性が嫌な思いをさせられた相手を攻撃しなきゃ。でも多くの男性は、ばかなことをしている男性を擁護している。その同盟が存在することに、わたしはほんとに驚くんですよね。」「5人に一人の男性が女性を裏切るとして、それを例えば5人に一人がアイフォンを盗むというとするでしょう?そうしたら、あ、どうせ盗まれる可能性があるから、あまり親しくしないでおこうっていう心理になるんです。」

「わたしがこれまで話してきた経験から言えることは、すっごく酷いこと、もうものすごく酷いことをする人は、その相手が、もう根元的なレベルで自分と同じだけ価値のある人間だとみなしていないんですよね。そうじゃなくてむしろ自分の性欲の道具ぐらいにしか見てない」

著者:「男性がそういう被害にあう女性と同じチームメイトとして支えたいと思えるにはどうしたら良いか、あなたからの提案ってありますか?」

ホルテン「ほんっとうに多くの男性がわかっていないのは、女性だってセックスしたいってことなんですよね。でもそれに興味がないってふりをしなきゃいけない。だって、そうしないと男性から酷い扱いを受けるから」「(性的な興味があるってわかってしまうことは)恥ずかしいことだとされている。だから仮面をかぶるんです。多くの男性は、セックスしたい男性の方がしたい女性より多いと思ってる。男の方が女より性欲があるのは当たり前だと。世界はそういうものだと。だから説得するのがセクシュアリティの基本だと。境界線は越えるべきものだと。そうしないとできないと。それってものすごく残念なこと。そして多くの女性が、したくてもしたくないと言う、という現実。男性は女性を説得するものだと思ってる。」

「女性たちもリベンジポルノから距離を置きますよね。リベンジポルノの被害者のことをひどく悪く言う。自分を守るために。だって、オープンでセクシャルな女性でいるというのはリスクが高いから。そうだと思われるだけでも。ものすごく自分を危険に晒すことになる。それで何か起こったら、『そうなるってわかってた』っていう。だって5人に一人はアイフォンを盗むんだから。だから多くの女性はリベンジポルノの被害者から距離を置くんです。そうすることが本当はこの問題をさらに酷くしてることに気づいてるはずなんですけどね。自分にだって返ってくるだろうし。でも現状維持の方が、そこから抜け出して新しい見方をするより安全だから。わたしのような人間にはそうすることはできなかったんだけどね。」

著者は、ホルテンがリベンジポルノを体験したあと、あちこちで講演している中で聞く反応についても聞き出している。彼女によれば、捉え方は年代によって異なるのだそう。身体や、写真自体に強く興味を示すのは40代以降(例えばどんな写真か、胸がきれい(だから良いじゃないとか)、セックスしてる写真なのかなど)。若者はむしろ、自分がコントロールできなかったという事実が辛いということに共感してくれるという。

「見てほしくなかった写真を見られたというのがポイントになってくる。30枚セルフィー撮って、その中から一枚を選ぶ世代のものの見方ですよね。自分のオフィシャルな部分を自分で作っていく、特にインスタとかでね、自分のアイデンティティをコンセプト化していく世代だから。その世代にとってもっとも恥ずかしいことは、自分で選べないってこと。

著者は最後に、2011年にホルテンの写真がばらまかれたことを知ったとき、反射的にそれを見たいと思ってしまったということをこのインタビューで告白している(個人的にはこういうことを言っちゃうところがこの人のオリジナリティ・正直さなのかもしれないけれど、不快感を感じてしまうところでもあります)。それに対しホルテンは「わたしの写真を見ないようにする、というのはものすごく深いエンパシーが要るんですよね。知らない人間に対して、そこにはいないし、顔も見えない、手をふれることもできない人に対して。それってもう宗教的ともいえる。神はあなたを見ていて、それは間違った行為だと言う。そんな力をだれもが持っているわけではない。それはわかるんですよね。」

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と、ここまで9000字近くも書いてきましたが、それでもこの本の要点が紹介できているかどうか、とにかく、それほど読み応えのある本でした。そして改めて言えることは、この本は、読み手がどの立場なのかによって、受け取り方がかなり異なってくる本だろうということ。男性が読むと女性が感じていることがわかるのかもしれないし、同じように思い悩んでいる男性が、自分の体験から様々な思いをシェアしてくれているのは、とても心強いだろうと思います。逆にわたしは語り手が男性であることで、男性の立場からこの問題をどうとらえたらいいかとためらっている側のことを知ることができるというのも、この本の良さかもと思います。デンマークでも、男性が女性に対してあからさまに性差別的なことを言ったり書いたりすることは減ってはいるものの、受け手である女性たちはまだまだだと感じていること、そして男性たちの戸惑いもあるのだなと、この本を読んで改めて知ることができます。そして、ここでも、女性が性に関して振る舞うべき姿がしっかり存在してきたということも。著者は対談した人々から時に手厳しく批判を受けながらも、自らを(黒い部分も含めて)さらけ出し、真摯に考えようとしている態度は、それが内包している問題があることを踏まえても、やはりその勇気には敬意を表したいと思いました。とても興味深い告白の数々がありました。

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"En fandens mand -Fortællinger om nye tider" Anders Haahr Rasmussen
Gyldendal 2019 「強い男ー新しい時代の語り」アナス・ホー・ラスムセン


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