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犯罪と小説(4)(2015)

第4章 犯罪と場
 近代は自由で平等、自立した個人によって成り立つ社会を理念としている。この近代社会を舞台にする近代小説は等身大の人物を扱う。ありふれた人が文学作品の主人公たることを示すために用いられるのが心理描写である。外界からはうかがい知れないが、内面にはドラマがあるというわけだ。読者も理念上ありふれた人間である。彼らにとっても登場人物に心理を通じて感情移入できる。

 近代小説が犯罪を取り扱う場合、そうした特徴から犯罪者の心理に焦点が当てられる。更生の方が内面のドラマを秘めているのに、文学は実行までを好む。謎解きであるミステリーでは、最大の関心は手口であるけれども、犯人特定に動機が必要なので心理に限定されるが、あくまで限定的である。こうした心理主義は犯罪の原因を主に加害者の内面に帰属させる。時代的・社会的背景や個人的境遇を考慮するものの、同様の状況に置かれている人は他にもいるのだからと犯人の心理の歪みや倒錯に理由を見出す。三島由紀夫の『金閣寺』はその典型例である。

 もっとも、作者の三島自身も放火犯の動機を信じていない。三島は、小林秀雄との対談『美のかたち』で、あの犯罪には動機などそもそもないと言っている。目的論によって支配された仮構の世界を創作するための口実である。

 実情は坂口安吾が『国宝焼亡結構論』で次のように指摘した通りだろう。

 私はこんな青年はザラにいると考えているのである。彼は夜分変質者で、同居人や、主人筋の人々に愛されず、ひそかな反抗を内攻させて、挙げ句の果ての放火であったろうと思うが、たまたま彼が金閣寺に住んでいたから、金閣寺に放火するに至ったまでのことである。彼が、田中という旧家の使用人であった場合には、田中家に放火したであろう。
 たまたま、このような青年が金閣寺に住んでいたために金閣寺が焼かれただけのことで、金閣寺というものの特性が放火せしめたのではないのである。

 センセーショナルな犯罪が起きると、テレビのワイドショーやスポーツ新聞、週刊誌、ラジオのワイド番組などで、数々の「素人理論(Lay Theories)」が披露される。防犯は犯罪者との戦いである。それは心理戦・情報戦であり、犯罪者の心理や手口などの情報を知っていなければならない。しかし、犯罪は人と状況が複雑に関連して引き起こされるものだが、その説明は社会の風潮や犯罪者の内面に犯罪の原因を求める傾向があり、単純化されている。

 素人理論は暗黙の理論と確証の理論という二つの要素によって形成されている。前者は経験則であり、後者はそれに都合のよい情報を集めてただしいと納得する作業である。素人はこれらを用いて目の前にある不可解な事件を片付けようとする。この説明はたいてい場当たり的であり、矛盾だらけであることも少なくない。ただ、直観主義的であることもあり、世間に対する影響力ははなはだ強い。

 ハードボイルドを始めとする行動主義も字犯罪の文学には使われている。しかし、それは心理主義のアンチテーゼで、犯罪の場面の全体を描くことができない。カナダなどで性犯罪の再犯防止のために認知行動療法が試されているように、矯正には心理を無視する女とはできない。心理と行動の二項対立を超える方法論が望ましい。

 今日、防犯に関して犯罪者自身ではなく、「場」に着目する考えが示されている。犯罪は場を必要とする。警察と協力し、市民が参加して防犯活動に取り組んでいる地域も少なくない。けれども、犯罪も共進化する。

 犯罪は行動である。しかも、犯罪者は社会の少数派であるから、それは稀だ。その行動は飛躍を必要とする。犯罪において内面と行動の対応は必ずしも一対一ではない。犯罪を内面から把握することはできない。犯罪は場を必要とし、それとの相互作用がその行動を促す。人々はその地域に住まう。さまざまな事情を持っている。また、そこには多くの蓄積もある。防犯はそれらを前提にして検討される。すべてをチャラにして、防犯計画など机上の空論である。警察と協力し、市民が参加して防犯活動に取り組んでいる地域も少なくない。けれども、犯罪も共進化する。

 場は境界によって内部と外部を区別することで成立する。その境界から侵入しない事物は無視できる。と同時に、越境してくる事物が内部という場とどのような相互作用をするかを把握することが可能である。

 進入盗犯、いわゆる空き巣を例に考えてみよう。清水賢二元警察庁犯罪予防研究室室長の『犯罪者行動の諸相』によると、獲物を手に入れ、捕まらずに、逃げおおせる。これが行動の基本原理である。眼球は左右に絶えず運動し、環境情報をできるだけ多く取り入れる。目立たないように、つねに自分の気配を消し、人と目を合わせないようにしている。これは暴力団員とは大きく異なっている。彼らは脅すために、つねに威圧感を保ち、目立つように、ヘアー・スタイルやファッショイン、小道具もそれと分かるように定型的なものを好む。

 空き巣の場合、街の状況を最優先で考慮する。人通りが少なく、よそ者でも気楽に歩ける。全体的に獲物がありそうだ。そんな街を選ぶ。

 次に、その街中を徘徊する。通りの見通しが悪くて、脇道が多い。獲物がありそうなことは言うまでもなく、逃げやすい街であるかどうかが重要である。

 狙うブロックを絞りこむ。通行人の装いができ、見咎められない地域がよい。慎重に下見をし、留守がちで、ある程度の金品の所有が見こまれ、逃走経路が確保できる家を探す。ターゲットとなる家の前に立って、近所づきあいが悪そう家が適している。普段と変わった様子でも、隣人は無関心だからだ。塀に囲まれ、中に入ると、外から見えない住宅が望ましい。

 侵入は二階から行う。そうすると、家人が急に戻ってきても、屋根伝いに逃げられる。神経が過敏になっているので、思いもかけずに家人と出くわすと、パニックに陥り、時として、刃物で刺すことが起きる。罪が重くなることをするのは未熟者だ。

 ターゲットとなる住宅を中心にした空間認識が5つのステップで絞りこまれ、それに応じて心理状態も変化する。第一が町全体で、半径500m以上、なんとなく、第二が学区空間で、半径500m程度、見とがめられない、第三が街区空間、半径200m程度、逃げやすい、第四が近隣空間,半径20m程度、声や目でとがめられない、第五が個体空間、それ以下、やりやすいである。

 この常習犯は、空き巣に比べて、強盗の罪が重いことを知っている。加えて、強盗は技能がなくても、凶器で武装すれば実行できるが、姿や声を晒すことになり、繰り返し行うことが難しいため、職業的犯罪者は避ける。

 これは極端な例だけに犯罪においていかに場が重要であるかをよく物語っている。場が犯罪を誘発したり、抑止したりする。犯罪を文学が扱う際、場に着目するべきである。直観的に考えただけでも、都市と村落では犯罪傾向が異なる。都市は人間関係が希薄であるから、犯罪も無差別に発生しやすい。他方、村落は地縁血縁が濃厚で、犯罪が起きた場合、そこから犯人にたどりつける。横溝正史の作品はまさにそうした閉鎖的で濃密な人間関係という場のもたらす犯罪を描いている。すぐれた作家は場に着目している。

 犯罪はどれも歴史的には単独的である。同じ事件が二度起こることはない。文学が犯罪を取り扱う際、それは愚弟的・個別的ケースである。文学が犯罪を通じて描こうとする者は大きく二つである。一つはそういうことを起こす人間とは何かであり、もう一つはそれを生み出す社会はどのようなものなのかである。いずれの場合でも、ポジティブと言うよりもネガティブな面を顕在化する。ただ、それは人間や社会が単色ではなく、彩色であることを示すものでもある。

 犯罪の原因を個人にのみ帰属させることは人間が社会的存在であることを見逃している。けれども、社会にのみ帰属させることも個人差を無視している。社会というマクロ、個人というミクロではなく、その中間のメゾの視点が適切だろう。

 近年の日本における犯罪の特徴の一つは高齢加害者によるものの増加である。平成26年度高齢社会白書は日本の高齢化率を25.1%と報告している。4人に1人が高齢者であるのだから、彼らを加害者とする犯罪が増加することは予想がつく。けれども、平成を迎えた頃の総犯罪件数に占める高齢者の比率は2%程度であったが、四半世紀を経た今日では約17%で8倍に増えている。これは高齢化率の伸び以上であり、この犯罪が人口変動だけで説明できないことを物語る。殺人や窃盗の件数の増加が大きく、再犯率が高い。万引き件数は、2013年度、従来最も多かった未成年者を高齢者が上回っている。

 殺人は介護疲れが主である。老人介護の中で精神的に消耗したり、将来への不安に襲われたりして被介護者に手をかけてしまう。特に、近年、認知症が増加しており、在宅介護の場合、家人は疲労困憊し、冷静な判断をできないほど追いつめられる。こうした現状から老老介護のみならず、認認介護も増えている。

 河合幹雄桐蔭横浜大学教授は、『日本の殺人』において、次のような介護殺人のモデル・ケースを紹介している。

 長年、親の介護を担ってきたが、介護する自分も六〇歳を過ぎ、介護される側は九〇歳というケースで、主に女性、主婦が加害者である。自分のほうが体調を壊してしまい、入院するように医者に宣告され、もはや親の面倒を十分に見てくれる人はいないと悲観して、親を殺害したが、自分は死にきれないというような事件である。

 さて、このような殺人者に、いかほどの量刑が適切であろうか。これまでに犯歴もなく、高齢で体調不良の主婦に、ほかの一般人を傷つけるおそれは全くないと言ってよいであろう。治安を守る観点からは、彼女たちを刑務所に入れる必要があるとは到底思えない。ところが、起訴猶予にするか執行猶予判決を出して、釈放すれば、それは彼女たちにとって、よい選択であろうか。彼女たちは、人を殺してしまったという強い罪の意識を持っている。それに対して、罰を与えないで自宅に帰してしまうとどうだろうか。帰宅したそこは、しばしば、犯行現場でもある。自宅に帰った彼女たちが、その場で自殺を遂げるという危険性がかなりの程度存在する。誰か世話してくれる人がいればまかせればいいが、その人がいないから事件が起きているわけで、そのような可能性は低い。したがって、釈放はまずないのである。
 これらのことは、検察も意識していると思われる。短期の実景を求刑し、裁判官も、その八掛けくらいの短期懲役刑を宣告する。自首などが伴えば、一年ということさえある。
 自殺防止ということなら、刑務所内ほど適した環境はない。また、ある程度罰を受けた形にしたほうが納得する。時間がたてば落ち着くという効果もある。早いとこ落ち着いたとみれば、刑期の三分の一を越えれば仮釈放可能である。罪の意識はあるが、凶悪な殺人事件とは認識していないので、長期間刑に服さないことに対しては、違和感はないであろう。一つの目安として被害者の一年後の命日は区切りになるであろう。事件後、即日逮捕、全面自供でとんとん進んでも、判決まで何か月かはかかるので、刑務所入所後、短期間で最初の命日を迎えることになる。
 刑務所では、殺人犯に対して、命日は、平日でも懲役の仕事は一日休ませ、被害者の供養をさせるようにしている。その後、落ち着いていれば仮釈放となるであろう。

 孤立化した中で介護疲れから殺めてしまう。そんなニュースを年間数件耳にする。そんな事件に関する河合教授の解説には「場」への眼差しがある。犯罪の発生もそれへの半生も場が後押ししる。行動と心理という区分のために、従来、犯罪を四つのフェーズで捉え難さがり、文学の取り上げ方にも偏りがある。しかし、場はそれを包括的に捉えることを可能にする。犯罪と文学の課題は犯罪者自身ではなく、場を扱うことにある。今後も文学は犯罪を扱っていくだろう。場の発想は文学の犯罪に対する見方を広げる。
〈了〉
参照文献
内堀基光、『「ひと学」への招待』、放送大学教育振興会、2012年
大越義久、『刑罰論序説』、有斐閣、2008年
大越義久、『現代の犯罪と刑罰』、放送大学教育振興会、2009年
大橋英寿他、『改訂版社会心理学特論』、放送大学教育振興会、2005年
河合幹雄、『日本の殺人』、ちくま新書、2009年
小林秀雄、『小林秀雄対話集』、講談社文芸文庫、2005年
坂口安吾、『坂口安吾全集9』、筑摩書房、1998年
清水賢二他、『暮らしの防犯と防災』、放送大学教育振興会、2006年
高橋和巳、『悲の器』、新潮文庫、1967年
法務省保護局編、『‘04更生保護便覧』、ひまわりブックス、2004年
フレデリック・フォーサイス、『ジャッカルの日』、篠原慎訳、角川文庫、1979年

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