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酔いどれ雑記 163 わたしのゲルニカ

※記事中に政治に関する話が含まれますが、わたくし個人の政治的志向には何ら関係がございません。ただ、この目、この耳で見たこと聞いたことを記すにすぎませんし、その性質上、内容に絶対に間違いがないとは言い切れません。この点をご留意の上お読み下さい。

2004年3月11日。3月11日と言えば日本人の多くが大震災の日だ、と思うでしょうが(私も同じです)、わたくしはマドリードの列車爆破テロ事件も思い出してしまいます。何故って?まさか朝にそんなことが起きたとも知らずに夕刻、マドリードに着いて驚いたという経験をしているからです。当時はスマホなどもなく、ラップトップを持っていくこともしませんでしたし(そもそも持ってなかった......)、スペインには直行便がないため、パリで経由してマドリード入りしたのですが、何も知らずに到着したら街の様子が何かおかしいのです。わたくし、マドリードは初めて、スペイン自体初めての訪問でしたが、なんかちょっぴり違和感を覚えたのものの異常事態という感じには全然思えない程度というか......。街は普通に動いてる、人も普通に歩いてる。けれどなにかが違うーーどうやら朝に駅でテロがあって、たくさんの人々が死傷したということが分かりました。どうしたものかな......どうしたもなにもないのですが、街は「普通」に動いているのです。少なくとも旅人、よそ者の自分にはそう見えました。無事何事もなくホテルに向かい、荷解きをしてから隣にあるスーパーマーケットで食料を買って、ホテルで夕飯を取りました。

「どうやらETA(バスク祖国と自由)の仕業らしい」
これがその時点でのマドリード(というかカスティーリャの人々)の共通認識のようでした。わたくしは他国の事情をよくも知らないのにあれこれ言うのは好まないのですが、う~ん?くらいには思っていました。

テロ当日の発令によれば「3日間、国中が喪に服すのでお国の管轄の施設はすべて閉館する」とのこと。つまりは当然お目当てだったプラド美術館をはじめ、ほとんどすべての「観光地」が閉まるということになります。正直、「わたくしは一体何しにスペインくんだりまで来たんだ......」とは思わなかったと言えばうそになります。でもあの頃のわたくしは「じゃぁまたそのうち来ればいいじゃない」くらいの行動力がありましたので、まぁ仕方ない、不謹慎だけれどある意味貴重な体験をしたと考えるしかないと思いました。

翌朝、ホテルを出て近くのカフェだかバルだかでコーヒーを飲みました。普通。日常。これがわたくしのマドリードでの初の朝だけれど、おそらくいつもの朝。前日にテロがあったとはとても思えない雰囲気。マドリードは欧州でも特に治安の悪い街で、テロよりむしろそちらを心配しなくてはいけないのではないか?といった感じでしたが、3日足らずのマドリード滞在で危険を感じたことが一切なかったのはテロでわたくしが気付かないだけで街がいつもと違ったせいなのでしょうか?街に出ている警官の数もおそらく普段より多かったに違いないですし。

結局、テロの翌日にはプラド美術館も、その他ほとんどの施設が通常通り開館していました。「喪に服すから閉館」の宣言は一体何だったのかと思ったけれども、閉館すれば喪に服したことにはかならずしもなるわけじゃなし、死者を大っぴらに悼まなかったからって冷たい人間とも限らない。逆に公衆の面前で泣いたからって心優しい人間とも限らない......。

「震災日に黙とうしない同僚がいて、その彼女は犠牲者や遺族を侮辱していると思う。彼女は普段からデリカシーがない人間だとは思っていたが......そんな彼女に対し自分は憤っている」という旨の投稿が今年(2021年)4月22日付けの読売新聞の『人生案内』のコーナーにありました。でもわたくしの経験上、こんなことを言う人に限って誰かが泣いていると「泣けばいいってものじゃない」「泣いて何か解決するの?」などと平気で言うんですよね。はっきりと「お前の涙は不快だけど、好きなあの子が泣いているのはかわいそう」とでもいえばまだ憎々しくも潔いのになぁ、と思います。

以前、某地下鉄駅のホームにあった「かたちはこころをすすめる こころはかたちをもとめる」というコピーが添えられた仏具屋の広告を思い出してしまいました。信仰や善行は強制されることがあってはならないし、見せつけるものでもありません。他の誰かと比べることでもないのではないでしょうか。

テロの2日後の朝、ソフィア王妃芸術センターに行きました。ここにはあのピカソの傑作<ゲルニカ>が展示されています。こちら、説明するのは野暮でしょうがドイツ空軍がゲルニカに無差別爆撃を行ったことに対する反戦画です。そしてこの<ゲルニカ>にはいくつかのいわくがあります。フランスの降伏後にパリを占領したナチの兵士がアトリエに踏み込んだ際ピカソに
「ゲルニカを描いたのはお前か!」と問うたら
「いや、あなた方だ」
と返したというのがその中でも一番有名でしょうか。
この話を聞いたら「さすがピカソ!天才の言うことは一味違う!」と思った方も多いかと思います。ですが......。これ、正直わたくしには美談には全くできません。何故って?

ピカソはあの才能を持ちしかも長寿、女性遍歴もすごいものでしたが、とんでもない嗜虐趣味であることが知られています。彼と関わった女性たちにはもれなくひどい虐待をし、彼女らが彼のもとを去る、もしくは追い出した後には彼女らが不幸になっている様を見て悦ぶという趣味を持っていたのです。

反戦の絵を描いたり、反戦/平和を歌う曲を愛聴しているような人が家庭、職場、学校、地域、ネット上等でいじめ、虐待をしている光景は非常にグロテスクで吐き気がしますが、こういう人間は身近にいます。さらに問題なのは「そんな絵や音楽を愛でる心がある人が虐待なんかするわけがない」「あんなに優しい人を暴力に走らせるなんて相手がよほどのことをしたんだろう」なんて思う人も一定数いることです。

<ゲルニカ>は長いことニューヨークにあったのですが「スペイン人民に自由が確立されたら絵をスペインに返還してほしい」というピカソの願い通り、1980年代にようやく戻されました。テロの翌々日に<ゲルニカ>を前にしたわたくしもその場にいた鑑賞者たちも何を思って観ていたのでしょうか。スペインは平和になったのか?世界は?わたくしはあの時ピカソがあんなひどいDV野郎だということを知っていたならばまた別の感想を持ったかもしれません。作者と作品は切り離せるか?というのは大昔から語り尽くされているテーマですけれども、素人目線、つまり単なる一介の芸術愛好家としては作品だけを評価するのというのはちょっと難しいですね。また、作者は好きだけれど作品(作風)が好みじゃないというのもわたくしは結構多いです(脱線するのでこの話はいずれまた別のところで書くかも知れません)。

マドリードを離れ、カスティーリャからも離れ、テロ発生日から10日後くらいにバルセロナに着きました。
「あのテロ?アルカイダの仕業じゃないかって最初からみんな思ってたよ。ETA?彼らは犯行前には犯行声明を出すし、そんなわけないだろうってね」と現地の人々。バルセロナのあるカタルーニャとスペイン政府とのあれこれは語りませんが(知識が浅いゆえに簡潔に説明するのが大変なので)、なんか「生」の体験をしてるなぁ、わたくし、マジでスペインにいるんだな!とビシビシと脳天からつま先まで感じました。

ヘッダー画像はセゴビアの水道橋です。聖母子像に喪章が付けられたスペイン国旗が巻かれているのが見えますでしょうか。