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私がゴミをあさるわけー強迫性障害のこと<6>


小学生時代に強迫性障害を発症し、今までに出た症状は確認強迫、縁起恐怖、儀式強迫などで(うち、今はほぼ出現していないものもあります)、洗浄強迫/不潔恐怖はないという話をしてきましたが、今回は確認強迫と同じくらい、いやもしかしたら私にとってはもっと厄介で、そのために日常生活に制限がかかり、また行動範囲、大袈裟に言えば(いや、大袈裟じゃないんですけどね)人生の可能性まで狭めてしまっている「加害恐怖」の話をしたいと思いますが、今回は雑談(?)から始めさせてください。

この『私がゴミをあさるわけー強迫性障害のこと』のヘッダー画像、何だか分かった方は海外旅行好きか、公共機関の乗り物好きか、ポルトガル語が読める方ですかね。これは私が大昔、リア充だった頃にポルトガルを長期旅行した時の特急や路面電車、バス等の切符や回数券です。私は基本、旅行した時の紙ものは捨てずに記念に取っておくので、この切符たちもざっくりと分別した「旅の思い出のあれこれ」を保管したポーチの1つに入っているはずです。確認強迫持ちの人間のくせに、こういった細かいものを集めてしまいます。強迫性障害を患っている方ってミニマリストが多い気がしますが、そうなるのはよ~く分かります。けれど私はどうしても物に執着してしまう方が勝ってしまうようなのです。シンプル且つ必要最低限のものだけを持つ暮らしは私には出来そうにありません。とはいっても自分にとってもう不要だと思うものは捨てますし、何の思い入れもない壊れたものを「直せば使える」などと取っておいたりはしません。また、私がある物を買おうと思ったり欲しがる基準は「便利かどうか」「使い心地、着心地が良いか」ではなく「見た目や意匠が自分の眼鏡に適っているか」であることが非常に多いので、手に入れて後悔することもほとんどありません。よく言えば「好きなものに囲まれた生活」ですね。他人にとってはただの1枚の切符、ゴミだとしても私にとっては数多の記憶に通じるパスポートなのです。

さて、閑話休題(といっても強迫性障害と無関係の話でもなかったわけですが)、今回は加害恐怖についてお話ししたいと思います。初めに書いた通り確認強迫より厄介に感じていて、もし「確認強迫と加害恐怖、どちらか完全に一生消してやる」と神様が現れて仰って下さったら私は迷わず「加害恐怖でお願いします」と言います......もし20年前なら。なぜ20年前かって?――今、加害恐怖が消えてくれてももう遅いと思っているからです。加害恐怖のせいでやりたかったあれこれが全然できなくて、日常生活や就職で不利な目に.....。今でも消えてくれたらそりゃ嬉しいですが、願いが叶っても「もう遅いんだ、遅い」という言葉が口をついて出てしまいそうです。確認強迫、確かにきついです。<1>から読んで下さった方は「こりゃ大変だなぁ、ガスを確認しに昼休みに会社から家に戻ったりだなんて。さぞかし時間も気力も体力も失われただろうに......」などと思ったかもしれませんが、確認行為をしても一応社会生活は出来ていました、見かけ上は......。会社や人前で何度も何度も確認行為をしていたらなんだか気持ちが悪いと思われるかも知れませんが、私の場合は人前ではあまり出ないんですよね。まぁ、まともな会社勤め歴も短く、人付き合いが少ないというのもあるのですが、ほぼ家でしか確認強迫の症状が出ないので他人にはバレませんし、また確認行為をしているところも見られたくありませんのでそこら辺は気にしています(家でばかり症状が出るのは外よりも、世界のどこよりも家の中が心配の火種だらけで安心できない場所だということだと思います)。しかし......加害恐怖は............。

私は加害恐怖のために車を運転できません。またバイクも乗れません(そもそも免許を持っていませんが......そこら辺は諸々、後述します)。数ある加害恐怖の症状の中でも車を運転できない、運転できても常に警戒状態というのは代表的なものでしょう。運転しながら人や動物を轢いてないかとずっと気になって、確認するために何度も車から降りて確認したり、ドラレコ見たり、重度になると警察署に行って「今日、この区域で自動車事故は起きていませんか?」と自分が交通事故を起こしていないかと確かめるために訊きに行ったりするという話を聞いたことがある方もいると思います。しかし............

(なんと)私は自転車にも乗れないのです。加害恐怖のために。もう30数年乗っていません......というかまともに道を走ったことすらありません。

流石に驚いたでしょうか?それとも加害恐怖の人ならば別に不思議ではないと思うでしょうか。また「じゃぁ三輪車には乗れるのか?その他の乗り物は?」といった疑問もわくでしょうか......?

強迫性障害の話をせずにいきなり「自転車に乗れない」と聞くと技術的に自転車に乗れないと思うのが普通ですよね、乗り方を知らない、操縦できないのだと。ですが、自分には加害恐怖というものがあって自転車には乗れないのだと説明しているにもかかわらず「今、乗ってみれば案外怖くなくなってるかもよ?」「そう簡単に事故なんか起こさないよ。そこらのじいさんばあさんだって乗ってるってのに」と言ってくる人や、運転すること自体が怖いのかと誤解する人が結構いて、その度にまぁ、理解できなくて当然だよなと思って適当に話を終わらせようと試みます。そもそもそんな話をしたのは数えるほどで、私からこの話をしたこともありません。「その距離ならわざわざ歩かなくても自転車でくればいいのに」みたいなことをしつこく言われた時に「病気なんです」と言えば黙ってそれ以上言ってこないだろうことを期待して話すのですが......妙な興味を持たれていじられたり、面倒なことになることが多かったです。

私は生まれてからずっと、交通至便な場所に住んでいますので車がなくても別段困りません。ちなみに両親も免許を持っていません(彼らの場合、車を持つ必要性がないから持っていなかったというのもあるでしょうが、多分試験に通らないと思います......実際、私が子供の頃父が原付の試験に落ちたことを覚えています。なぜ父が原付免許を欲しがったのかは覚えていませんが)。ですが私は本当は車やバイクに乗りたいのです。運転したいのです。60年代のファッションが好きな私としてはランブレッタに乗りたいですし、シトロエンの2CVチャールストンなんて死ぬほど好みです(どうでもいいですが、仏人の彼氏に「2CV?おっさんの車だ 笑」と言われたことがあります。そして2CV(deux chevaux)という発音が上手く出来ずに軽くからかわれたことも......)。車やバイクは、加害恐怖があって乗れないのも事実なのですが、皆がこぞって免許を取る年齢、二十歳前後の私は超不遇で、教習所などに通っている余裕は金銭的にも時間的にも精神的にも全く余裕がありませんでしたし、たとえあったとしてもその頃はまだ親と同居していましたので、免許を取ると言ったら猛反対されていたに違いありません。その後、親とは物理的に離れ、多少お金も時間も出来、教習所に行く余裕はありましたが加害恐怖持ちなのと、そもそもそこまで車やバイクを乗りたいとは思わなかったのと、お金や時間があるならば旅行に費やしていましたので、面許を取ろうとか車がほしいとは思いませんでした。そして結局取らずにこの歳になってしまいましたーー正直、ちょっとコンプレックスがあります、普通免許すら持っていないなんてことに。今、内閣府のHPを見たら、日本の74.8%の人が普通免許を保有しているそうです(平成27年のデータです)。ちなみに今年の新成人の保有率は56.4%。もし私もまともな親育ちだったならばこの中に入ることが出来たのかなと思うと絶望します。なにもマジョリティが偉いとかいいわけではないですが、私は普通が良かったんです。自分は平均的な人間になりたかったのです。たとえつまらん人間でも。変で貧乏、知能も低い親に虐待をされ、散々苦労して変人になってしまった私は「個性的」と言われてもちっとも嬉しくありません。

ペーパーでもいいから今からでも免許取ればいいじゃんと言われたことも何度もありますが......今更、免許が必要そうな仕事に就くとは思えないし、車が必要な場所で生活する予定もないし(車が必要な場所に住んでいて、車を運転するのが怖いという加害恐怖の方はどうしているのでしょうか......。想像がつきません)、ましてやうつ病で何も出来ないときがあるのに数十万円を払い教習所に通って、おそらく今後乗りもしない車の免許を取得するというのは......どうなのでしょうかね、みみっちいコンプレックス解消のためにする価値はあるでしょうか。そもそも加害恐怖があるのに合格を頂けるとも思えません(ーーですがこれまた不思議なことに、教習車なら乗れるかも、怖くないかも知れないと思っています)。まぁ、色々考えると今後私が免許を取る可能性はかなり低いでしょう。

色々書きましたが、加害恐怖のせいで、行動範囲や生活、就職の面でかなり制約があるということがお分かりいただけたでしょうか。何も加害恐怖の症状は乗り物を運転して人を轢いてしまわないかと恐れるだけではありません。私は全くこの症状はないのですが、万引きなんてしていないのにお店に入ると何かを万引きをしてしまったのではないかと異常に心配してしまうというケースもあります。もちろん本人には万引きをしたいなどという気持ちは全くないにもかかわらずです。この場合だと「店には入らないようにする、外での買い物は極力避けるーーひいては家から出ないようになってしまう」といった回避行動がみられると思います。私の「人を轢くかもしれないから、車やバイク、自転車に乗ることは一切しない」と同じ心理です。どうして私が加害恐怖持ちになったかという推測は前回に書きましたので詳細は省かせていただきますが、親やモラハラ加害者に理不尽に責められた記憶から、自分が起こしたこと、或いは起こしてもいないことで面倒なことになりたくない、巻き込まれたくない、からまれたくないという思いが強くあり、恐怖症にまでになったのだと思っています。

あまり本当は弱みを見せたくはないので、自転車にすら乗れないことはあまり書きたくはなかったのですが、このnoteに書いてあること全ては「遺書」ですので、書くべきだと思ったのです。私が何かまずいことをして逃走するとき、或いは誰かから逃げ出すときには車やバイク、自転車を運転することはあり得ませんし、公共機関を使うか、タクシーに乗るか、ヒッチハイクをするか、徒歩、もしくは誰かにわけを話すか話さないかして車等を出してもらうしかありません。

そして......これまた強迫性障害の複雑怪奇なところなのですが、何故か私は昔から船を操縦したいという小さい夢があり、当然免許が必要なので取りたいと思っています。車やバイクの免許なんかよりもずっとずっと取りたいです。海上だって他人に加害してしまう可能性があるのにもかかわらずです。本当に意味が分からなさ過ぎて自分でも何だか分かりません。自転車にも乗れない、乗るつもりはない人が船には乗りたいと思っている......この種の加害恐怖のある方、強迫性障害をよく知っている方にしかおそらく理解してもらえないかも知れません。私は洗浄強迫、不潔恐怖はありませんが、それらを患っている方の中には、たとえば「電車のつり革やドアノブは触れないのに、(もっと菌等が付着、存在しているであろう)スマホをいじったり接吻や性行為をできるのはどうして?」などと訊かれたことのある方も少なくないかと思いますが、それと同じです。どうしてこれが平気であれはダメなのかなどよく分からないのです、本人にも......。分かる方もきっといるのでしょうけれども。

強迫性障害関連の話を6回にわたって書きましたが、今現在思いつく限りのことはほとんど書いた気がします。いずれまた何か思いだしたら書く予定ですが、一旦はここで終わりとします(私のことだから、きっと今はパッと思いつかないけれどすぐに思い出して書きそうな気がしないでもないですが)。お読みいただきありがとうございました。

続く......かも?