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父の人生2

 満州からぎゅうぎゅう詰めの引き揚げ船で日本へ戻ってきた小学生の父とその家族(僕の祖父母とこのとき赤ん坊だった叔父)は、大阪で新しい暮らしを始めた。そこがどんな場所か、貧民層だったのかどうかは聞けていないが、財産をすべて満州に置いていった彼らが裕福だったとは思えない。

 ちなみに僕の祖父母は鹿児島の小さな村が故郷だった。明治の終わりだか昭和の初めのころ、祖父はお寺の娘だった祖母に許嫁がいたのを知っていながら、略奪して結婚したそうだ。いわば駆け落ち。故郷の集落は大騒ぎになっただろう。怒った檀家の住職は僕の祖父母をお墓ごと追い出したと聞く。それでほうほうの体で祖父と祖母は満州へ移り住んだということだと推測される。そんなわけで終戦後、満州から追い出された祖父母一家は故郷へ帰ることも許されず、大都市大阪に流れ着いたんだろうと思う。余談だが、満州に行ったときに祖父はキリスト教に改宗したらしい。

 大阪に移り住んでからすぐに祖父が亡くなった。父が言うには「朝、一緒に便所でションベンをして、父が遅れて戻ったら倒れていた」らしい。そのとき父が思ったことは「父が早死=苦労人となって出世する可能性がある」だそうだ。偉人たちの伝記を読む限り、幼い時に父親が亡くなる逸話がたくさんあったからそう思ったらしい。実際に祖父が亡くなったときに悲しかったのかどうかは語られていないので分からない。僕の父は相当な天邪鬼だ。だからこそ脚本家で成功したのだと思う。
 どんな中学生活を送っていたのかは聞いていないが、父はかなり成績がいい少年だったと聞く。

 ここで父の人生について、何故僕が記そうと思ったのかを書いておきたい。昭和9年生まれの父は、第二次世界大戦勃発時は7歳。終戦時は11歳。小さい頃は軍国主義の教育にまみれて育てられたわけだ。前にも書いたが小学生だった父の夢は「御国のために死ぬこと」だった。鬼畜米英を大人たちが連呼し、近所のお兄さんが万歳三唱で戦地に見送られたのを見て羨ましく思い、ラジオや新聞からは戦地で日本兵が大活躍する情報が飛び込んでくる。大人たちや世間というものがそれが正しいのだと子供たちに伝えれば父が「自分も御国のために命を捧げたい」と思ったのは容易に想像できる。そしてきっとすべての子供が同じように洗脳されてしまうだろう。大人は、世間は、国は、そういう力を持っている。

 その後、父は大人の、世間の、国の都合により終戦を迎え、生まれ育った満州国は失われ、祖国(と父が思ったかどうか知らないが)である日本に引っ越すことになった。ソ連兵に殺されかけ、誰かも知れぬ多くの死体をまたいで歩いた道。そこに父の責任はひとつもない。すべては国が決めたこと、大人たちがそれに倣ったこと、そして勝手に失敗したことだ。しかしその結果、幼き父は辛く悲しい体験をし、そのことは恐らく今なおその脳裏に、心の奥底に暗く圧し掛かっているのだと思う。
 戦後、父が信じられるものは大人でもなく、政治でもなく、教科書でもなくなった。唯一信じられるものは証明ができる教科=算数や理科だったのではないだろうか。きっと歴史や国語については斜め上からの目線で点数を取るような中学生だったのではないかと思う。

 高校に入っても父は学校で一番の成績だった。そして高校で演劇部に入った。何故かは知らない。流行っていたからかもしれない。そのころ東京では文学座、俳優座、民藝が人々を熱狂させていたころだ。演劇部で大活躍をして、何らかの賞を貰った父は演劇役者で生きて行こうと決めたらしい。そして高校二年のときに大検を取り、そのまま高校を中退して俳優座の研究生となった。

 国も政治も大人も信じられない父。軍国主義に染まっていた少年は、教育も思想も一気に変わった時代に翻弄され続け、それでも何かを追い求めていたのだろうと思う。そのひとつとして「演劇」というものに魅力を感じて飛び込んでいったのは、ある種仕方ないことだし、それを誰も止められないだろう。かくして父はひとり、東京へ向かうのだった。

(つづく?)

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