見出し画像

母のことは好きだけれど、私は母とはちがう母になりたい。

半月ぶりに東京の実家に帰ってきた。ちょうど夕飯時だったので、母に「今日のごはんはなにかしら?」と何の気なしに聞いてみた。すると、「は? なんか残り物よ」というそっけない返事がかえってきた。

あぁ、そうだ。母はこういう人だったよな。とその時、妙に納得してしまった。
結局、母は私の好物の回鍋肉を作ってくれたし、自分が旅行で買ってきた美味しい漬物も出してくれた。
そう。別段愛情がないわけではない。私のことを理解しているし、考えてもいてくれる。しかし、それを言葉で示さない。

たぶん…。私は実家に帰って来たら、「あんたの好きな○○を作っておいたわよ〜」と明るく言ってくれるような母に憧れている。最終的な行動は一緒であったとしても、言葉でわかりやすく愛情を伝えてくれる母を求めていたのだと、30代もだいぶ過ぎたいま、気づいてしまった。

* * *

母との関係性だけでは、この気づきを得ることはできなかったと思う。

ここ数年、友人Mの実家に1年に1回(もしくはそれ以上)泊めていただくことが恒例になっている。泊めていただくだけでもありがたいのに、お母さんもお父さんもすごくかわいがってくれて、「おかえり〜」と笑顔で迎えてくれる。その上、「ともちゃんはうちの次女だからね!」と励まして、悩みを聞いてくれたりもする。

もう1つ。
ライターの先輩は自分の小学生の子どもに対して、「すごいねー!」「きみは、本当にカワイイねー!」をことあるごとに繰り返している。危ないことをしたら注意をするけれど、「大人の理由」で我慢させることは極力しない。
子どものありのままを受け止める、そして、わかりやすい愛情を示す、という覚悟を決めているようにも見える。

私はこの2つの家庭の仲間に入れていただいて、少しずつ少しずつ自分が親からなにがほしかったのかを理解することができるようになった。子どもの頃から抱き続けてきたぼんやりした寂しさの形を縁取ることができた。

* * *

一方で、「母親のことがとても嫌い」という友人Aの話もしてみたい。
ある時、友人Aが母親への思いを他の子に話すと、
「大人になってまで親のことを嫌うなんて、人間できていないね」
と返されたそうだ。
その話を私に打ち明けてくれた時の友人Aのとても悲しそうな表情を、いまでもたまに思い出す。

「なに言ってんだ」、と私は思う。大人になったって、嫌いなもんな嫌いだ。「親のことを好きでいなければいけない」なんて、いったい誰が決めたの? 

見えない既成概念に私たちは苦しめられる。「母親のことが嫌い」な彼女も、「正論(とされるもの)」に心の傷をさらにえぐられてしまった。

* * *

私は、友人Aのようにように母のことが明確に嫌いというわけではない。大人になってみたら、「母」という顔以外にも、仕事上の多忙な厳しい顔を持っていたり、父にムカムカする妻の顔があったり、大変だということもわかってきた。だから、人間としては好きだと思う。

しかし、「母とはちがう母親になりたい」とは思う。
「自分のお母さんのようなお母さんになりたいです」と、心の底から言える人は幸せだと思う。品行方正だと受け取られる気持ちも理解できるし、うらやましさもある。

でも、後天的にでもなりたい母親像は得られるのかもしれないと、最近思うようになってきた。残念ながら、いまでも波はあるけれど。

もしかしたら、私のような気持ちを抱えている人は少なくないかもしれない。そんな人たちが、私のようにどこかの家庭の仲間に入れる機会を持てるといいな。プチホームステイのような制度はどうだろう。
家族関係をオープンにしていくことは、子どもをたくさんの手で育てていくことにもつながるし、その家族に入れてもらえる私のような存在の救いにもなる。相互に、明確に、愛情を感じられる親子関係は、決して「当たり前」のものではない。だからこそ、そんな親子関係を築く方法を知る機会に誰もが恵まれればいいな、と思っている。

<ツマミにこちらもどうぞ>


いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。