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マイノリティが本質を握る

「佐藤さんは今後マイノリティの立場に立った発信をしていきたいと思っているんですか?」と尋ねられたことがある。たしかに、このnoteでは社会的弱者や傷ついた人たちに関する興味を日々つらつら書いてきたように思う。
それに、マイノリティと呼ばれる人々の話を聞くことは間違いなく、好きだ。

でも、私は、ジャーナリスト的にマイノリティの声を発信しなきゃとか、マイノリティの人たちに平等な権利を!みたいなことを叫びたいわけではない。
そうした使命感を持っている方を尊敬するし、発信を興味深く読んでいるけれど、私がそちら側にいきたいわけでは、ない。

では、私は、なんで?なにに?関心があるのか。
少し、考えてみた。

たぶん…、
マイノリティの方々が”本質”を握っているケースが多いから、私は興味をひかれるのだと思う。「当たり前だ」と言われていたことを、「本当に当たり前なの?」と投げかける存在が、マイノリティと呼ばれる人々だと思うのだ。

例えば、性的マイノリティの方の話を聞くと、「性別ってなんだろう」「私は女だというけれど、本当かな」「性差って必要なのかな」「性別ってアイデンティティなのかな」などと考えさせる。
不登校の子の話を聞くと、「学校ってなんのためにあるんだっけ」「楽しくないことをやる意味ってあるのかな」「人生を充実させる上で、学校はどんな役割を果たすのだろう」などと立ち止まることができる。

「これが当たり前」として、大きな流れに流されてきた私に、一旦立ち止まって、周りを見渡し、常識を疑う機会を与えてくれるのがマイノリティの方々だ。上空へ意識が上がり、社会常識だといわれていることを、客観的に見渡すような気持ちになる。

さらに、これまで「当たり前でしょ」「これが普通でしょ」「常識だよね」という言葉に押し固められてきた私は、真剣に自分の人生を生きようとするマイノリティ人々の声にすごく心が救われるのだ。だから、いつもマイノリティと呼ばれる方々の話を聞くと、「ありがとう」と伝えたい気持ちになる。

冒頭の質問に戻る。
「佐藤さんは今後マイノリティの立場に立った発信をしていきたいと思っているんですか?」

答えは、NOです。
でも、マイノリティの言葉を聞いて、私と同じように心にいくつかのトゲが刺さったままの方に一緒に楽になっていこうよ、とは伝えたいと思っている。そう。どちらかというと、私を含めたすべての人が、自分と向き合い、自分を生きられるようになることに、私は関心があるのだろうな。

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