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「他者をどれだけ気にするべきか」中高生と話し合った

「他者をどれだけ気にするべきか?」

今日、福岡県のみやこ町で5年間開催している「三四郎の学校」に参加した。私は第1回目から参加し続けていて、いつも脳から湯気を出している。「三四郎の学校」は、中高生と大人が答えのない問について話し合うワークショップだ。
今回は、「対話について」考えを深め、「何を話し合いたいか」テーマをみんなで挙げた。

そして出てきたのが、「他者をどれだけ気にするべきか」。
ワークショップの中で、どんな話が出てきたか、私はどう考えたか、レポートする。

◆「他人のため」か「自分らしく」か

高校生のAさんは、指定校推薦の1つの枠を狙って準備をしていた。しかし、他に4人も同じように指定校を狙っている子がいることを知る。他の子たちよりも、勉強ができるその子は、自分は一般入試で受けて、他の子に推薦の枠を譲った方がいいのかもしれないと思い始める。
他の子たちは、「●●さんが受けるなら絶対無理だわ、他のところにしよう」とか「一緒に頑張ろうね」とか言ってくれている。

そこで、他者をどれだけ気にするか?という問が生まれる。

現在、「他者のために生きることはいいことだ」という教育と、「自分らしく生きなさい」という教育がなされている。これはどちらもとてもすばらしいし、間違っていない。

しかし、どちらに軸足を置くかで、まったく相反する答えにたどり着くこともあるかもしれない。ダブルスタンダード。もしかしたら、そんなことを言えるかも。

自己のアイデンティティを持った上で、社会の中で生きていかなければいけない生き物である人間は、自分と他者の間で葛藤する。

◆みんなの幸せが自分の幸せではなかったら?

「他者をどれだけ気にするべきか?」
この問を持って、ワールドカフェ(各テーブルを国に見立て、転々と席替えをしながら自身の思考を深めていくワークショップ手法)がはじまる。

そこで出会った、Bくん。
「社会の経済発展が自分の幸せであった時代は、みんな(他者)の幸せ=自分の幸せと捉えられたのかもしれない。でも、今は・・・、そうじゃないケースもあると思う」

みんなの幸せが、個人の幸せにならないこともある。
「自分を殺して、他者の幸せを優先するべきなんでしょうか」

もちろん、他者へ故意に危害を加えることは許されないだろう。しかし、自分のしたいことと向き合い続けた結果、他者の利益を損なうことにつながったら・・・?

その子とは、「たとえば、生死を分かつボートにあと一人しか乗れなくて、その時に、自分が乗るか、誰かに譲るかはすごく難しいよね」という話にまでなった。どちらの選択をしても、それを非難することはきっと誰にもできないはずだ。

◆協調性が同一性に変わるとき

入社試験でも、入試でも、「協調性が大事だ」と言われる。
私も、そこを疑ったことはまったくなかった。しかし、協調性を曲解し、それを極端なものにすれば、同一性に陥ることもあるのではないか。みんなの幸せが個人の幸せではない場合、同一性は不幸の種である。

「相手に合わせて生きていくのがすごく苦しい。もっと自分らしく生きていきたい」
Bくんの話を聞いたCくんはそういった。

協調性があるがゆえに、自分の首を柔らかく締めていく。もしかしたら、そんな体験をしている子は多いのかもしれない。協調性を説くのであれば、”自分自身の持ち方”を同時に伝えていかなければ。社会は、同一性の波に飲まれてしまう、かもしれない。 

◆他者と自分を切り離す

「他者を気にする」ということには、「他者から叱責されるのではないか」、「他者からいじめられるのではないか」という不安から他者を気にすることもある。しかし、それだけではないだろう。

たとえば、
自分の決断が「他者を傷つけてしまうのではないか」、あるいは「他者の人生を損なってしまうのではないか」という不安を抱くとき。

他者を気にするということは、他者への優しさでもある。多くの子から、「葛藤するし、辛いこともあるけれど、他者を思いやれる人でもありたい」という発言があったのも事実だ。

「気にする」には、プラスとマイナスの意味があり、プラス側には「気遣い」や「配慮」があるのではないか。

では、「他者を傷つけてしまうのではないか」という懸念についてはどうだろう。
参加していた女性がいった。
「自分が他者を傷つけてしまうかもというのは、他者主体と思いきや、思いっきり自分主体ですよね。自分がどれだけ他者に影響を与えるか、という話。自分が誰か傷つけたり、誰かの人生を損ねたりするという考え自体が傲慢なのかもしれない。
それに、相手がしたい道を選んだ結果、自分が傷つくということがあったとしても、それは他者への依存に他ならないのではないかな。もっと自立的でないと。自分と他者(周囲)を区分けして考えること、それがまず必要かもしれない」

◆「あなたは羊じゃない」

「否定された経験が多いと、人の目を過度に気にするようになる」
これも高校生から出たコメントだ。たしかにそうかもしれない。人は、いつだって「もう傷つきたくない」と思っている。それを、小さい頃からたくさん経験していればなおのことだ。

大学生がいった。
「親の期待に応え続けて、大学まで歩んできた。受験時期を振り返ると、いきなり18歳になって、自分で学びたいことを決めろと言われて非常に戸惑ったんですよね。自分がもうなくなっちゃっていた。他人に合わせる、他人の期待に応える、これまでそうやって生きてきた気がします」

もしかしたら、今「優秀だ」と評価されている人々の中には、他人の期待に応え続けて自分をそぎ落としてきた人も少なくないのかもしれない。

その大学生に、インドからきた女性が伝えたひとこと。
「あなたは羊じゃないよ。人間だよ」
羊じゃないのだから、好きなほうに進めばいい。自由に突き進んでいけばいい。もしかしたら、真理とは、そんなふうにシンプルなものなにかもしれない。
最初に推薦で悩んでいた子も、最後には「私は周りの子を気にしすぎていた。今日の対話で出てきた『自分の楽しいを大事にする』ということを重視したいと思う」と帰っていった。
そう。人は自由である。
どんなに心を砕いても他者の心理をすべて把握することはできない。だから、「傷つけるかも」という取越し苦労をするよりも、自分の気持ちを尊重するほうがよいのかもしれない。

私は・・・といえば、まだ答えが出ていない。
他者と自分をつなぐものは、「対話」である。しかし、まだ私の中で「対話」は手法であって、「生き方」にまで落とし込めていない。
「他者への愛」と「自分の尊重」を両立させるしっくりくる道を、自分の言葉で語れるようになりたい。

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