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「スキマ時間恐怖症」

沖縄で年末年始を過ごして、周囲の過ごし方を見ていると、みんなとってものんびりしているんですよね。中学生も高校生も、家でゲームなんかしている。大人ももちろんゴロゴロしている。
「なーんにもしなくていい日」を満喫しているのです。

でも、なんだか私はソワソワソワソワしてしまって。え?これでいいの?とか終始思いながら過ごしていました。
特に「これがしたい!」とか要望があるわけじゃないんです。なのに、なぜか「これでいいの?」と思っている。

◆私は「スキマ時間恐怖症」

「なんでだろう?」と自分の心を整理していくと、おそらく私には「なにもない時間」への耐性がないのだと気づきました。

中学校から部活動一色で。
高校に入ったら、年間の休みはトータルで2日くらいの部活三昧。練習からクタクタで返ってきて、机にかじりついて勉強をする。それも、「エスカレーター式の大学にはいきたくないから」という理由で、なんとか飛び出せるまでの学力をつけようと必死の形相で詰め込みました。
大学に入ってひとり暮らしし、開放感に浸りながら調子に乗って、サークルに3つも入る。週2でバレーボールをし、週2でサッカーをし、休みは旅サークルで旅をしていました。
就職してからも、仕事は人並み程度にしつつ、土日は基本的に休みなく、習い事やら遊びやら合コンやらをしていました。

…だから、もーう忙しくない時なんてなかったんです。人生で。
スケジュールの空き時間が怖いとばかりに、予定を詰め、走り続けてきました。(仕事でってわけでもなく、遊びたがりでもあるから、さぁ。)

どうして私はこんなにスキマ時間なく予定をぎゅうぎゅうに詰めてしまうんでしょう?

たぶん。
忙しいと、自分と向き合わなくていいんです。
忙しいと、「忙しい自分」に酔っていられるんです。
忙しいと、肯定感を保っていられるんです。

忙しさ中毒ともいえるような、予定を入れることが「是」にいつの間にかなっていたんだろうなぁと思います。「スキマ時間恐怖症」ともいえる状態です。
沖縄にきたのは、このまま突き進んだら自分がちぎれてしまいそうだと思ったから、かもしれません。でも、まだゆったりを楽しみ切れていない部分もなくはないんですけれど。(重症か?)

◆スキマ時間をつくる意味

立教大学の中原淳先生が、新年こんなブログをアップしていました。
中原先生は、大学教授という本業はもちろん、書籍の執筆、講演、インタビュー協力、育児(!)などなど、とても忙しい日々を過ごしていらっしゃいます。それは、もう私なんて比じゃないくらいでしょう。

それで、新年こんな気づきをしたそうです。

スケジュールを埋めず、知的インプットに従事する時間を確保する、ことにしたいと思います。たとえ、それで「短期的」には仕事のペースがおちたとしても、「中長期」には、僕の仕事の「持続可能性」を高めることになることを信じて。

ああ、なるほど。

私に必要なことは、「中長期的な視点を持つ」ということなのかもしれないな、とこのブログを読んで思ったのでした。スキマ時間を持つことが、「持続可能性を高める」という視点はまったくなかったな、と。

◆スキマ時間になにをするか?

「スキマ時間を設けよう」と思っても、それだけではスローガンで終わる気がするので、「なにをするか」を決めた方がいいのでは…?と思い、ここで書いておきたいと思います。(っというか、なにをするか決めたらスキマじゃなくなっちゃうんだろうか…? どうなの?w)

・読書時間
仕事をはじめて、業務以外の本を読む時間が極端に減ってしまいました。小説や短歌など、仕事と関係のないものも読もう!
・「いつか」会おうをやめる
忙しさにかまけて、これまでの人間関係を少し疎かにしてきてしまったような気がします。自分の段階によって付き合う人は変わるものなのだろうけれど。でも自分が今後もずっと大事にしたいと思っているのに、切れかけてしまっている人間関係があるのならば、それはつむぎなおさないといけないですよね。
・対話の場への参加
「対話の場」って、目的が明確ではないし、効率を考えると参加していられないんですよね。でも、場を経験して、しばらくしてから「おやっ? これはあの時の思考につながるぞ」と気づいたりする。「持続可能性」ということを考える上では、対話の場は大事なんじゃないかなぁと思ったわけです。

「自分の時間は自分でコントロールしている」と思いきや、実のところそうでもないんですよね。もっと自覚的に時間を使っていくために、「スキマ時間恐怖症」を手放していこう、と思ったのでした。

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