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誰もが知らぬ間に人を傷つけている。

友達と話をしていた時、こんなことを言われた。
「自分がここに立っているだけで、どのくらいの微生物が死んでいるんだろうと気になり、計算してしまう。自分なんかが生きていることで、失われている生命があるということが気になってしまうんだよね」
その話に驚愕して、「計算してしまう」というのがまさに彼女らしくて少し笑ってしまった。自己肯定感の問題は、私たちにずっとつきまとうけれど、その表現の仕方は千差万別だ。

生きているだけで、私たちが傷つけているのは微生物だけではない。生きている中で、そうただ生きているだけで、知らぬ間に人を傷つけてしまうことが、ある。とても、残念なことながら。

私が第1作目の著書『公立中高一貫校選び 後悔しないための20のチェックポイント』を出した時、みんなが「おめでとう」と言ってくれる中で、ある人にこんなことを言われた。
「佐藤さんが自分の本を出してショックだった」
「は?」、最初意味がわからず聞き返した。どうやら、著書を出すなんて自分より上にいかれた気がして悔しいというような意味であるようだった。そんなことを正面きって言う人がいるんだなと驚いたのと、知らぬ間に人を悲しませたり悔しがらせたりすることがあるんだな、と感じて唖然とした。

父の病気の時も、そう。心筋梗塞と脳梗塞を併発して、生死をさまよった父。無事に回復するまでに、SNS上でとても励ましてもらった。

しかし、その一方で傷つけてしまった人もいたのかもしれない。回復した父とは違う道を歩んだ肉親を持つ人は、いく人もいるのだから。(この件は、「SNSの可能性と、その後ろにある人生を感じた時の話。」で詳しく書きました。)

他にも、
仲がいいカップルは別れたての女性を傷つけているかもしれないし、
めでたく出産した人は不妊治療に悩む夫婦を傷つけているかもしれないし、
健康で仕事をバリバリしている人の「忙しくて、いやんなっちゃう」という言葉に、病気で働けない人は傷ついているかもしれない。

私は、なるべく誰かを傷つけたくない。でも・・・、人は、知らぬ間に誰かを傷つけている。

生きるには、覚悟が必要だなとよく思う。誰かを傷つけてまで、自分は生かされているのだから。
だからこそ、掛け値なしに自分自身を生き抜いていかなければいけない。
「あなたのせいで、傷ついた」と言われても、「ごめんね。あなたを傷つけるつもりはないんだけれど、私も自分自身を生きているんだ」と伝えられるように。少なくとも、自分をごまかしたようなズルい振る舞いで相手を傷つけてしまうことが、ないように。

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