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珈琲と煙草と音楽のある生活

珈琲のある生活

どうもこんにちは。さとしです。

新居に越してきて1ヶ月半余りが過ぎました。

実家から出て地味に、自分の中でどうしよう案件だったのが、珈琲の淹れ方です。
実家にはネスプレッソのカプセル式のコーヒーメーカーがあったので、いつでも飲みたいと思った瞬間に珈琲を淹れることができる環境でした。我が家は同居している4人のうち父・母・僕の3人が1日に2〜3杯はコーヒーを飲む、珈琲一家(まぁ普通っちゃ普通ですよね。)なのでカプセル購入のおまけでマシンを無料でもらえるくらいのネスプレッソのお得意だったみたいです。

珈琲の淹れ方どうしよう問題に対して、僕はハンドドリップをするという答えを導き出しました。豆を選んで、好きな挽き方で挽いてもらって、ドリッパーとコーヒーフィルターを使って珈琲を抽出する。って、、、なんかテンション上がりませんか?「いや、別に」という人もたくさんいるとは思いますが、僕はなんかそういう『丁寧で凝った暮らし』みたいなのにちょっとテンションの上がるタイプなのです。「30歳にもなってドルオタしてるおっさんがオシャレ気取りとかきっしょ」と言われたら返す言葉がありませんが、案外僕はオシャレな行動が好きなタイプみたいです。推しメンに似て。

というわけで家で飲みたいときに珈琲を淹れられる環境を整えることに成功した僕は、家で1日3杯は珈琲を飲むという、自分の珈琲を飲むペースを乱さずに生活を送ることができるようになりました。「やっぱり家でメシ食った後は珈琲飲みたいもんね。わかるわかる」と自分と一人で会話しながら、珈琲をわりとガブガブ、ときにチビチビ飲んだりしてるわけです。紅茶も好きだしよく飲みますが、コーヒー派か紅茶派かでいえば断然コーヒー派です。大人の味って感じだし。あ、またオシャレぶってる。そしてカフェオレよりはブラック派です。漆黒に黒い湯気がたちのぼる様子が男心をくすぐりますよね。あ、またカッコつけてる。そしてさらにいえば猫より犬派です。これはカッコつけてない。ただ実家でもずっと犬飼ってるし。犬って可愛いよね。推しメンも犬派だということなのでそこも推せますよね。

煙草のある生活

家の外でも僕はコーヒーを飲みます。「さとしといえばドトールのアイスコーヒー。ドトールのアイスコーヒーといえばさとし」というくらい頻繁にドトールでアイスコーヒーを飲んでいました。頻繁というか出勤する日は毎朝…。世の節約家の皆様からしたら考えられない浪費だとは思いますが、仕事に出勤するのが嫌すぎて、ドトールの喫煙席で珈琲を飲みながら煙草を吸う時間で心を癒していたのです。わかってくれる人いるかなぁ。あんまりいないよね。今煙草吸う人少ないし。

僕の場合、珈琲を飲んだ後にさらに欲しくなるのが煙草です。禁煙中の人がタバコを我慢しながら眠気覚ましのためにコーヒーを飲むというのを時々目にしますが、僕からしたら考えられません。『珈琲と煙草はセットでしょ』と思っちゃいます。その考えがあながち間違っていないな、と思うのは、喫煙席のある飲食店の種類を考えたときです。
大体今どきタバコを吸える飲食店は居酒屋か喫茶店かのどちらかです。酒や珈琲のような舌触りの強い飲み物を飲む際には煙草が欲しくなるものです。どうですか?喫煙者の皆さん、今はげしくうなずいてませんか?

僕が数あるコーヒーチェーンから高確率でドトールを選ぶのは、煙草を吸うことができるからです。非喫煙者からすると「そんな理由で選択肢を狭められるなんて可哀想!スタバ美味しいのに!」と言われるかもしれません。わかります。よくわかります。喫煙可能どうかが店選びの基準になってしまうと時々居酒屋選びなどの場面で、痛い目を見ます。当然のように、喫茶店選びも、居酒屋選びも、遠征先のホテル選びも、喫煙可能かどうかで決めるより、まず予算を決め、広い選択肢の中から良さそうな条件を選んで決める方が絶対いいに決まってるのです。ですが、僕は煙草をやめることはできないでしょう…。そう断言できるくらいのいわゆる「ヤニカス」が僕です。

周りの人への申し訳なさ?そりゃ感じますよ。街中でふと吸いたくなった時に、喫煙所にいけば5分くらいは同伴者を待たせることになるし、喫茶店や居酒屋に入る時はできれば喫煙席、最低でも喫煙ブースのある店でないと長居するのは難しく感じてしまいます。それでもなかなかやめることができないのがタバコの厄介なところです。
だから「このnoteを読んでいる未成年のよい子の諸君は不良の友達に誘われても絶対タバコを吸わないように!」といっても今の時代屋上で煙草を吹かしている、ステレオタイプの不良はあまりいないと思うし、まず未成年のよい子の諸君はこんな30歳独身異常ドルオタ男性のnoteは読まないでしょう。

そんな未成年に絶対におすすめできない行動ランキング1位の喫煙を続ける理由は『煙草を心から愛している』からです。たしかに喫煙は人に迷惑をかけることも、吸わない人からしたらクッセェことも(吸ってる人間でも湿気た煙草や、ヤニが吸い付いた部屋はクッセェと思います。)重々承知です。タバコは周りの人に激しく攻撃的な代物です。しかしながら煙草を吸っている張本人にとっては、疲れきって擦り切れた心をやさしく抱きしめてくれるような、あたたかくやわらかい包容力に溢れたモノなのです。

多分かなり誇張している部分もあると思いますし、ましてやそんないいものでもないとは思います。健康に悪いし、『ゆるやかな自殺』という表現もみたことあるし。でも自殺をする人の気持ちは自殺をした人にしかわかりません。というか自殺をした人は既に死んでいるので、この世ではその気持ちを知る人は誰ひとり存在しません。だけど煙草が『ゆるやかな自殺』だとしたら。煙草を吸う人はこの世の中に無数にいるのだから。この傷んだ心を少しはわかりあえるのでは…と。いうような、痛くてもの悲しい連帯感を喫煙者には感じてしまうのです。こんなこと言ってると、気持ち悪いから喫煙所について来るなと思われますが、こんな駄文誰も読んでいないと信じてカミングアウトしました。

煙草をいくら愛していても、いつでもは煙草の吸えない時代になってしまいました。昔は職場はもちろんのこと、電車の中や病院でも喫煙が許されたというから驚きです。今の時代は決められた喫煙所でしか煙草が吸えないので、喫煙者は「ちょっと煙草吸ってくるわ」といって喫煙所にいきます。昔の人は何も言わずに煙草にzippoでカシュッと火をつけたのでしょうが。まぁその違いはどうでもよくて、今も昔も「ちょっと煙草吸ってくるわ」と言いながらも、『煙草を吸うという行為』だけを単体でする人はいないなと、ふと思ったわけです。

まぁ当たり前っちゃ当たり前ですよね。『息を吸うように煙草を吸う』といったら変ですが、煙草を吸ってる間にしてる行動って、言ってしまえば深呼吸をしているだけですから。「ちょっと呼吸するわ」と言って深呼吸をする人はいないわけで。深呼吸に集中するにしてもなんらかの身体を動かすなり、過呼吸ならビニール袋を口に当てて呼吸を意識するなりの行動が伴うわけです。当然深呼吸をしているだけでは手持ち無沙汰なので喫煙所で煙草を吸っている人は大体スマホを弄っているか、連れ立って煙草を吸う連れと会話をしているなり、なんらかの喫煙とは別の行動を伴って、『ながら煙草』をしているわけです。

珈琲のある生活、再び

さて、話を珈琲に戻しましょう。思想の強い煙草に対する想いを読んで疲れたと思うのでコーヒーブレイクです。まぁ僕は珈琲を飲みながら煙草を吸う人間なので、コーヒーブレイク中でも煙草の話をするのですが。ですが、そろそろ煙草ばかり吸っていないで珈琲で落ち着きたい頃です。

コーヒーを飲める店のことを喫茶店やカフェといいますね。
喫茶店は照明が薄暗く、木目調のアンティークで調度品が揃えられているような、静かで古風な美味しい珈琲を出すお店というイメージがあります。さらにいえば下町の商店街にあって、静かに読書をする老人や、井戸端会議をする地元の専業主婦たちがいるでしょう。まぁ、最近はインスタ映えブームの影響で古風な喫茶店がもてはやされる傾向にあるので、見目麗しい女子高生や、テニサーの100人斬り大学生も店内で談笑していることでしょうが。

一方でカフェという言葉は、美術館に併設されている白くて明るい照明と調度品が特徴で、テラス席があったりする店舗を想起させます。ここでも読書をしている人や談笑する主婦の姿が見られるでしょう。あまり老人がいるイメージはないので、どちらかといえば若者向けの業態なのでしょうか。読書をしているのも孤独を愛する繊細そうな若者がいるような気がしますし、井戸端会議をする主婦も、小さい子どものいる若めの上流階級有閑マダムのイメージがカフェにはあります。ここにもインスタ映え女子高生に比べたら少しだけ年上の女子大生連中や、Macbookをカタカタする職業不詳のクリエイターがいるでしょう。

ドトールやスターバックスのようなカフェチェーンの店舗は、喫茶店とカフェの間にある業態のように感じます。その証拠として、「今、カフェで作業しています」と仕事の電話を応対する人もいれば、「喫茶店で時間でも潰すべ」といって談笑している男子大学生たちもそこにはいるので、昔ながらの喫茶店と洗練されたカフェの間の客層を狙った珈琲を飲めるお店だと言えます。喫茶店とカフェの間というだけあって、喫茶店とカフェのどっちつかずな人々が集まるので、とにかく雑多なのが街のカフェチェーンの特徴です。仕事や作業をするために集うパソコンカタカタ族を中心に、読書に没頭する人、井戸端会議をする主婦、談笑する若者などありとあらゆる人々がいます。

僕が言いたいのは「昔ながらの喫茶店最高!ドトールはクソ!」とかそういうことではなくてですね。むしろ僕ドトール好きですし、ほぼ毎日のように行ってますし。かと言って「インスタ映え族滅べwwwwwwドトールでパソコンカタカタするンゴォwwwwww」ということでもなくてですね。僕がお話ししたいのは『珈琲を飲むお店は一体何をするためのお店なのか』という話です。もちろん『珈琲を飲むお店』と言ってるくらいなので『珈琲を飲むためのお店』であることは確かです。ですが、その『珈琲を飲むためのお店』で我々は様々なことをします。さっきから語っている喫茶店やカフェ・カフェチェーンで見る人々の話と重複しますが、友人と語らったり、静かに読書をしたり、ひたすらスマホを見ながら煙草を吸ったり、PCで作業をしたりするわけです。いうなれば私たちは珈琲を飲むお店で『ながら珈琲』をしているんですよね。

音楽のある生活

『珈琲を出すお店』の特徴をさらに深掘りしてみましょう。そのお店では高確率で、ジャズやクラシックを中心に、『歌詞のない』音楽が流れています。街のカフェチェーンではJ-POPやジブリ音楽のジャズアレンジなどが流れているでしょうし、喫茶店ではアルトサックスの特徴的なジャズ、カフェではピアノの旋律の美しいクラシックが流れていそうです。『珈琲を出すお店』で音楽が流れている理由は、音楽が流れていると雰囲気がいいという直感にもとづいた、店の雰囲気づくりのためのものです。たしかに音楽が流れていることによって、雑多な人々が集まっていても、おばちゃんたちの話声、コーヒーカップをカタっと机に置く音や、PCのキーボードをカタカタとタイプする音を多少はかき消すことができ、そういった生活音(?)が響き渡る店内よりは落ち着いて過ごすことのできる空間を作り出せるでしょう。

ただここまでではなぜ『歌詞のない』音楽なのかということまではわかりません。『歌詞のある』音楽でもPCのタイプ音はかき消すことができますし、おばちゃんたちの話し声をかき消すためには『歌詞のある』音楽の方が有効です。この効果を実証するかのように話し声の騒がしい居酒屋では歌詞のある音楽を流している傾向があります。これは居酒屋はただワイワイガヤガヤ楽しい時間を過ごすことができればいいのに対して、『珈琲を出すお店』は仕事や作業、読書をする人のために集中できる空間であるべきだからです。音楽の人に与える効果について深く考察せずとも、「歌詞のない音楽が流れている方が作業に集中することができそうだな」ということは直感的にわかります。

この直感に理由づけをするために、「音楽とは脳内に直接語りかてくるものである」という仮説を僕は考えました。活字で見たものを瞬間的に思い出して言葉にするのは難しくとも、よく聴く曲の歌詞というのは自然に口ずさむことができるものです。小さい子供向けの九九やアルファベットの数え歌があるのも、そういった脳内に直接言葉を語りかけてきて、再現ができる音楽ならではの効能を活かしたものなのではないかと思います。『珈琲を出すお店』で流れているのが歌詞のない音楽なのは、作業を邪魔しない程度に脳内に語りかけてくる音楽を選んでいるということです。要はいわゆる作業用BGMというやつです。

なぜ、作業をするのにBGMが必要であるのか、という問いに対して『人は脳内が空っぽの状態だと集中できないもの』なのではないかと僕は考えます。たとえば真っ白な壁紙だけがある部屋や、無音の空間を想像してみましょう。『集中できそう』に見えますが、案外そういった環境は人にとって落ち着かないものです。広々とした視覚的に真っ白な空間には『空間を視覚的に埋めるモノ』、そして無音のシーンとした空間には『空間を聴覚的に埋める音』が人が暮らしていくためには必要です。とくに一人暮らしをしていると自分の立てる音以外は無音の空間となってしまうので、その無音を埋めるために音楽を流すことは有用であるように感じます。

「作業用BGMなんていらない!俺はJ-POP一筋!」というという人もいるでしょう。こうった歌詞のある音楽を中心に聴く人というのは、徒歩や運転などの、『思考を伴わない作業』をする際に音楽を聴いていることが多いのではないでしょうか?『歌詞のある』音楽も徒歩や運転などの『思考を伴わない作業』をするためには、集中力を上げる効果があると思います。居酒屋で話すのは『思考の伴わない作業』なのか、と言われると、そこはかなり微妙ではありますが、真剣な話をしたい場合は、ある程度落ち着いた雰囲気の飲み屋を選ぶと思いますし、ガヤガヤした居酒屋での会話は『思考』というよりは『反射』に近い言葉選びが主となるのではないのでしょうか。

なにやらいつの間にやら僕の経験と自論を交えたややこしい話になってすみません。「自分でも何言ってんだ状態」です。要するに僕が言いたかったのは、珈琲、煙草につづいて、音楽も『ながら行動』にぴったりなものなのです。よく考えれば、私たちは生活の中のいろんな場面で『ながら音楽』や『ながらラジオ』をしていますよね。こういえば音楽に限らず音声コンテンツ全般が『ながら行動』に適しているという話にはなるのですが、今回はタイトルを『珈琲と煙草と音楽のある生活』としたので特に話を音楽に限定させてもらいます。理由は音声コンテンツより音楽といったほうが響きがかっこいいからです。あ、またカッコつけてる。きしょっ。

生活に溢れる情報

『ながら行動』にぴったりな音楽も、使用法を間違えると、行動を邪魔するハードルになりかねないことは『珈琲を出すお店』において『歌詞のある』音楽が忌避されることからもわかったと思います。それはことさら、『言葉を扱う思考』の伴う場面であるといえます。やはり会話中や、仕事でメールを打つときに音楽を流すという人は稀でしょう。言葉を考えて使う場面では脳内に音楽が語りかけてくる状況というのは邪魔になりやすいようです。特に『歌詞のある』音楽というのは、脳内に言語が二重に存在する状態となり「えーと、なんだっけな?」と一つの言葉を選んで使うのに苦労してしまう状態になってしまいます。

言語というのは人間独自の文化かと思いきやそうでもないという記事を見たことがあります。たとえばイルカが超音波を使って会話をすることはよく知られていますね。ただ言語をこれだけ多くのフォーマットにして使用するのは人間特有なのではないでしょうか。会話をするために音声で言語を使用するのはもちろんのこと、文字として視覚でも言葉を認識しますし、文字の一種である点字では触覚からも言語を伝えられます。さらに時代の進歩により、文字という言語のフォーマット一つをとっても、PCのようなタイプ入力、スマホのフリック入力、音声入力や、最近では写真から文字情報を読み取る機能もスマホに搭載されています。そしてそんな言語を文字として表示したり入力ができ、音声として再生したり録音もできるスマートフォンを、私たちは四六時中肌身離さず手元に持っています。要するに私たち人間の生活は言語で溢れかえってているのです。

人が生活する場所は言語で溢れかえっています。1人で自宅にいても本やスマホ、PCなどのモノや機器を開くと、そこには文字情報がびっしり。食品の成分表示や日用品のパッケージ、煙草のパッケージにすら「望まない受動喫煙はどうたらこうたら」という表示。街にでてもピカピカ光るネオンに赤や黄色や青や緑、色とりどりの看板に文字躍っています。店内には入れば音楽が流れていて、それも店によっては有線のヒットチャートがJ-POPの歌詞で言葉を伝えます。電車に乗って遠くへ逃げましょう。ダメです。電車の中には中吊り広告に怪しげな書籍やマンションの宣伝広告。最寄駅とアクセスの良い上質な暮らしを伝える文字情報がマンションの広告には踊ります。広告を見ていたって別に楽しいものではありません、あなたはスマホで音楽やラジオを聴いたり、ネットニュースやSNSを見てしまうでしょう。

なにやら言葉で溢れかえることを悲観的にとらえているような表現を並び立ててしまいました。別に言葉で溢れかえっているのは当たり前のことですし、そう辛いことでも悲しいことでもありません。しかしながらそういった情報の溢れる社会に時々パニックになったり、気が狂いそうになるときってありませんか?ないですよね?わかってます。普通の人はそうです。しかしそういった情報に過敏な人も近年増えてきてちょくちょく話題にあがっているようです。HSPとかいったかな?そういう人たちは意識的に情報を遮断する方法を学びながら生きていく必要がありそうな現代社会の今日この頃です。HSPのことを『言葉に過敏』ではなく『情報に過敏』と言いましたね。こういった人たちは主に言語情報に過敏ですが言葉に限らず、情報全般に過敏です。たとえば気候や騒音、色彩の過剰な空間にいると、触覚・聴覚・視覚などを刺激され、気持ち悪くなってしまうようです。

僕が言いたかったのは『情報に溢れている現代社会はクソ』ということではありません。さっき『人は脳内が空っぽの状態だと集中ができないもの』ということを言いましたよね。この脳内を埋めるものがまさに情報なのです。温度や騒音、味覚、色彩が脳内を埋めるというとイメージしにくいかもしれませんが、人の脳は情報を瞬時に言語化する能力を持っています。たとえば家系ラーメンの店舗の外観を見たとして、「ラーメン屋だ」という情報は最低限、誰でも言語化されるでしょうし。「横浜家系ラーメンのフォントは毛筆の手書き風フォントだ。」や「看板に使われている赤は食欲を刺激する色だ。」などとデザイン系の人は思うかも知れません。味覚や温度はイメージしづらいかも知れませんが、ラーメンの一口目「うまっ」とか「あっつ!」っていうでしょ。アレです。

情報が空っぽだと集中できないということはあまり意識されませんが、情報に溢れていたら集中できないことは誰でも容易に想像がつくと思います。赤と白のストライプの壁紙(⚫︎図かずおの家か←)だったり、飛行機や重機の騒音が響き渡る空間や、冷暖房が一切存在しないオフィスは今どきあまりないでしょう。最近のオフィスはよくできていて、音が静かで情報の遮断されたオフィスでもマルチディスプレイが用意されていたりして、適度に視覚に情報を増やして集中しやすい環境が作られています。逆に営業などの賑やかなオフィスは情報が多いので、マルチディスプレイは不要かなと思ったり、思わなかったり。要するに情報量をコントロールすれば誰でも集中できる作業環境を作れるではないかという話です。

珈琲と煙草と音楽のある生活

なんやかんやと色々わめいてきてましたが、そろそろお別れのお時間です。名残惜しいですか?僕もう自分で勝手に書きはじめたnoteのではあるけれども、8477文字も続いてしまってウンザリしています。最後にまとめると『ぼくのかんがえたさいきょうの集中できる環境』というのが、このnoteのタイトルにした『珈琲と煙草と音楽のある生活』だという話です。カフェで仕事とか作業するくらいなら家をカフェみたいにしたほうがコスパよくね?という中学生でも少し考えれば気付きそうな結論に至りました。これだけ語っといてこんなしょうもない結論で田舎の両親に顔向けができません(※今いる自室から5km圏内に住んでいて。2日に1回は会っています。)

そしてこのnoteを最後まで読んでくれた気骨のある読者の方にだけ、僕に関する重大発表をさせてもらいましょう。このnoteを最後まで読んだ方は「あれ?こいつの仕事フルリモートなんだ。」と思ったでしょう。まぁ見方としてはまず間違っていません。僕は今現在一切出社をしていませんから。でも甘いですね。僕のことをまだまだ知らなすぎます。

実は・・・・・・・僕今・・・・・・休職中でーすwwwwwwwwwwwwwww

ということで実は休職を満喫している真っ最中でした。
真面目に働いてる人の、「そんなnoteを書く元気があるなら働け」という声には耳が痛いですが、これも僕の休養の手段の一つだと思ってもらて。極度に脳が空っぽでも落ち着かないタイプでして。程よく脳を使って休む方法がnoteを書くなどの娯楽なのです。許してちょ。とはいえ、このnoteを職場の人に見られたりしたらちょっと気まずいので、みんな告げ口はしないでくれよな!まぁさすがに本名は知られてても職場までは特定されてないと思うけど!知ってる人もいるかもだけどね()

こうして自宅での過ごし方をバリバリ快適にして、バリバリ在宅勤務できるようになって復帰するのが今の目標です。あ〜、仕事フルリモートにならねぇかな()
ということで最後まで読んでいただきありがとうございました。またnoteやXやinstagramでお目にかかりましょう。じゃ〜ね!

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