本と歩んだ10年間。これまでのこと、これからのこと。
10年弱所属していた日本能率協会マネジメントセンターを、6月末で退職することになりました。
書籍をつくりつづけた10年弱。
在職中お世話になったみなさま、本当にありがとうございました!
* * *
この想いには、これっぽっちも嘘はない。
でも、正直にいうと、何を書けばいいのか、とても迷っている。
退職にあたって、私はどんな言葉を残しておきたいのだろうか……。
「ああでもない、こうでもない」と考えては消しているうちに、退職日はもう明日。
今日書かないと、退職日までにみなさんにご報告できなくなってしまう‼︎
そんなギリギリのタイミングで出会ったのが『森の生活』の著者ヘンリー・デイヴィッド・ソローのこの言葉だった。
これで、もう開き直ることにした。
「真実」を書こう。
私にとっての真実を、できるだけ嘘のない言葉で、飾らない言葉で。
そのつもりのエントリなので、あまり役に立つものではないし何しろ長い!
あと、何を隠そう、私の人生は現在進行形で変化していて、今書いた「物語」「意味付け」も、少し経つと変わるかもしれない。
でも、今日の時点の「スナップショット」として、私の退職エントリとして残しておきたい。
「伏線回収がひと段落したので退職します」
いきなりワケのわからないことを言うと、私にとってのこの10年間は、伏線を回収するような日々だった。
ユング心理学に「布置」という概念がある。
「布置」は英語で言うと”constellation”。占星術で使われていた言葉でもあるそうで、「出来事や人の運命を左右する星の位置」を意味していて、のちに「星座」を表して使われるようになったという。
私はこの言葉、この概念が、とても好きだ。
というのも「○○の星の下に生まれた」みたいに、よくもわるくも、私たちは一人ひとり、生きることを宿命づけられた、布置された「物語」のようなものをもって生まれてきたのではないかと思っているから。
「エビデンスを求められたら困るけれど、そう考えないないと説明がつかないことが多すぎる!!」というのが、私の正直な気持ちなのだ。
日本能率協会マネジメントセンターに入社したことも、今回、退職することも、自分の意思で決めたこと。
入りたくて入った会社だし、私なりの想いがあって退職する。
でも、入社から退社までの一連を少し離れたところから眺めてみると、布置された出来事だったと思えてならない。
ちがう表現をすると、人生に張りめぐらされた「伏線」のようなものがあって、自分の心も身体もまるごと使って、実際に生きてみることで「伏線」の意味が回収されていく。「ああ、こういうことだったんだな」と腹落ちして、納得すると、自然と次の扉が開かれていく。
人生はそんなふうに進んでいくんじゃないかと、感じているのだ。
だから、退職の理由をひとことでまとめるならば
「伏線の回収がひと段落ついたから」。
以上。私にとっての真実を、ありのままに書くのならば、これに尽きる。
でも、さすがにこれじゃ”説明責任”を果たしているとは思えないので、もう少し書き続けてみることにする。
はじまりの物語:入社にまつわる2つのアクシデント
退職という「終わり」のことを書くならば、「はじまり」についても書いておきたい。
入社したのは、2011年10月。当時の私は30歳。
「そろそろ転職しようかな」と思っていたところで、転職エージェントさんから声をかけてもらって……というのが、入社のきっかけだった。
ただ、入社に際して今でも
「不思議だなぁ」
と感じていることが2つある。
まず、私、この仕事を紹介してくれた転職エージェントに登録した記憶がないのです。
たしか、R社に登録しようと思ったものの、面談に出てきた方の態度がイヤで登録はせず。。。たしか一人で転職サイトを眺める日々…だったと思う。
そんなタイミングで知らない番号から電話がかかってきて
「柏原さんにピッタリの、ぜひご紹介したいお仕事があって……」
まるで渡りに船のように、
日本能率協会マネジメントセンターを紹介されたのだった。
普通ならば、知らない番号の電話はとらないけれど、その時は、なんとなく不意に出てしまった。
電話口の担当者の声がすごく心地よくて、
つい話を聞き、つい面談をし、
(転職エージェントとは思えないような飾り気のないオフィスだった)
あれよあれよと面接をして、入社が決まった。
個人情報が漏れていたのか?
いずれにしても、エージェント経由でしか受け付けていない求人だったので、あの時、なんとなく電話に出なければ、この会社に出会うことさえなかっただろう。
そしてもう一つの不思議。
この10年弱、私がやってきた仕事のメインは本をつくること。
でも、入社前は「本をつくること」が仕事になるとは思っていなかった。
転職前にやっていたのは社会人向けの通信教育事業の立ち上げで、徐々に事業が大きくなるなかで、人に任せられずに手元に残っていたのが教材開発(編集)の仕事。
その経歴が評価され、日本能率協会マネジメントセンターでも通信教育の教材開発職の採用面接を受けていた。
……のはずだったのだけど、内定時に言われたのは
「入社後は、書籍/本をつくってもらいたい」。
日本能率協会マネジメントセンターでは、職種はざっくりと「営業職」「企画開発職」に分けられて(他にも「講師職」「業務職」もある)、私は「企画開発職」として採用されることになった。
当時、企画開発職のなかで一番人手が足りなかったのが、本をつくる部門だったらしい(後からわかったことだけど、ちょうど私の採用が決まるタイミングで退職者が出たみたい)。
やったー!!!!!!!
内定の連絡を受けたとき、心のなかでガッツポーズをした。
「編集をやるならば、もっと幅広いジャンルが扱える書籍をやってみたい」
本当はそう思っていたけれど、他業種から出版業界への転職は、意外と難しい。だから、半ばあきらめていたのだ。
「いずれ異動の道もあるのかな」なんて思っていたのに、
たなぼた的な幸運に恵まれての入社と相成った。
キャリア論でよく聞く「計画的偶発性理論」。
この典型的な出来事かもしれない。
だって、この幸運は、どうがんばっても自分では予想できないことだから。
ちなみに、計画的偶発性が起こりやすい人がもつ行動特性は「好奇心」「持続性」「柔軟性」「楽観性」「冒険心」らしい。
いくつになってももちつづけたいものばかりだ。
Y:やったこと
さて、やっと入社の話が書き終わった。
なんせ在籍していたのは10年弱。各タイミングでいろんなエピソードがあるのだけど、それじゃあいつになっても書き終わらない。
なので、ここから先は、サクッとおなじみの”YWT”のフレームワークで振り返っていくことにする。
(なお、このフレームワークの開発元は、グループ会社のJMACです)
まず、やったことを簡潔に。
100冊以上の本に関わりました
企画・編集・制作などなど。
本をつくり、届けることを続けてきた。
つくった本の一部は、こちら。
「99冊」記念で書いた記事も、あげておこう。
本に関わる”あれこれ”をやってきました
つくる前、つくる最中、つくった後。
正直なところ、本に関わる”あれこれ”の仕事は際限がない。
全てを挙げることはできないので、一部だけ記録しておくことにします。
①本をつくる前:「本の企画、一緒に考えませんか?」会議
テーマは「おもしろい!」と思うのだけど、どう形にしていったらいいのかわからない……だったら”未来の読者”に聞けばいい!
そんな発想から生まれた一連のイベントが、これだった。
「本の企画、一緒に考えませんか?」会議
おかげさまで2021年春『野性の力を取り戻せ』というタイトルの本へと結実しました。
日本橋の高層ビルに、法螺貝が鳴り響いたのもいい思い出だなぁ。
あと、この本に携わったことをきっかけに私も山伏の修行をはじめたのだった。
②本をつくっている最中:発売前なのに読書会
『組織にいながら、自由に働く。』という本の制作中のMTGで
「実際の読者はどんなふうに感じるのだろうね」
という話になり、そこで企画&実行されたのが「発売前なのに、読書会」。
テスト・マーケティングって、良いものをつくるために、わりと普通に行われることだと思うのだけど、本の世界だと、なかなかそういう機会はない。
あっても「表紙」に関してや、つくった後の「どう売るか」の段階で行われるテストくらいだった。
でも、本当は、つくっている最中にこそ読者の声が聞きたい!
そんな趣旨ではじまったイベントだったと記憶している。
このイベントがあったのは2018年春。
つくっている最中に読者の声を聞けるありがたみを痛感し、その後、事あるごとに「発売前なのに読書会」は実施することになった。
あと、この「発売前なのに読書会」をきっかけに、アクティブ・ブック・ダイアローグ®︎の魅力にハマった。
私も認定ファシリテーターになり、今でも月に1〜2回は継続的にABDの場を企画している。
(アクティブ・ブック・ダイアローグ®︎の魅力について、詳しくはこちら)
③本をつくった後:たくさん(笑)
本をつくった後にやったことは、本当にたくさんある。
自分たちでイベントを企画したこともあるし、他社さんや書店さんとのコラボレーションでイベントをしたことも。
取材記事もたくさん出してもらったし、テレビで紹介されたこともあるし、flierさんで要約記事を掲載いただいたことも何度も。
ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございました!
2021年夏 「人の本質的な成長」を考える連続ダイアローグ
本が出来上がってから波及していく様子に立ち会い、読者のみなさまの反応をダイレクトに感じるのって、何ともありがたく、幸せな時間だった。
ちなみに、本をつくっている者にとって、リアクションは何よりの宝物。
密かに書名でエゴサしている著者、編集者は多いので、ひと言でもいいので、ぜひ感想を呟いてください!
あと、変わり種として「本の編集者」としてラジオ出演させてもらったこともあった。余談だけど、当時、さとみつさんに「柏原さんはラジオ向きだ」と言ってもらえたのが地味に嬉しかったw
W:わかったこと
やったことの次は、わかったこと。
ここは、私のオリジナリティの部分なので、多少長くなると思う。
本をつくるのは、正直しんどい。でも「喜び」にあふれている
1つ目は、もうこのまんま。
ゼロから何かを生み出せる喜び。
これまでになかった渾身の表現が生まれる場面に立ち会える喜び。
「なんかよくわからないけれど、結果的にこのタイミングに、この本を出せて本当によかったよね」と完成を迎えられる喜び。
本は、ある種のworks「作品」だ。
1冊の本の文字数は10万字前後。
これだけの量を、そして多くの方に「文字」だけで意見をを伝えるって、生半可な知識、経験、態度ではなし得ない。
そんな、とても深淵な知的作業、知的な営みに参加できるって、それ自体が喜びなのだ。
そして、そんな人生の結晶ともいえるような本が、誰かの手に届き、癒され、励まされる人が増えていく。
本をつくるという仕事は、たぶん、みなさんが思っているより100倍近く「喜び」にあふれている。
しんどいのだけど、そのしんどささえもが、喜びになる。
「産みの苦しみ」さえもクセになる。
依存性のある仕事だと思うよ、本当に。
「本」というメディアには、限界がある
とはいえ、本をつくり続けるなかで、ふと疑問に思ったことがある。
この違和感に対する明確な答えを得たのは、昨年秋、ヴィパッサナー瞑想に参加した時のことだった。
あらためて、気づきを得たゴエンカ先生の講義の部分を引用する(1日目より)。
本はたしかに価値がある。
本のない人生は考えられない!
でも、つくりながら、どこかで不完全燃焼感を抱くことがあった。
精一杯伝えているけれど「暖簾に腕押し」感があるのは、なぜだろう…
私は、人の可能性を信じている。
たぶん、この記事を読んでくださっているあなた自身よりも、もっともっとあなたの可能性を信じていると思う。
だからこそ、人の可能性をひらけるような、一人ひとりの命がかがやくような、エネルギーが燃えるような本をつくりたいと思い、仕事を続けてきた。
でも、本質的な人の変容/成長のなかで、本が果たす役割って、ものすごく部分的なのだと思う。
本が役に立つのは、特にこの2つの場面。
・新たな世界をお見せること(入門書、導入書、ガイドブックなど)
・実際に体験したことを整理したり、体験時に感じたことを言語化すること(体験者の記録、理論書など)
でも、これだけ情報にあふれている今の時代、「体験」こそが本当に必要なのではないだろうか。
もっというと、知識・情報があふれすぎていることで、真の知恵を育むために欠かせない「体験」の機会を奪ってはいないだろうか。
本をつくり続けるなかで、私はこんな自己矛盾にぶつかってしまった。
(あとは、正直なところ、業界として、世の中の構造として「情報を生み出しすぎている」「本をつくりすぎている」という問題点もあるのだけど、ここまで書くと埒が開かないので、また別の機会に)
あともう一つ。
本というメディアの伝え方について。
私は「知的な営み」としての本が大好きだ。理性的に考えて整理する、認知の枠組みをアップデートさせていくって、人のものすごく尊い部分だと思っている。
私は、人の知性を信じていた(今でも、ものすごく信じている)。
でも、実際のところ、知的に、正しいことを伝えれば人が変わるのかといえば、そうではない。薄々わかってはいたことだけれど、多くの読者のみなさんと接するなかで心底思った。
「正論が、事実が、人を救うわけでも、
人の行動を変えるわけでもない」
文字にしてしまえば当たり前のことなんだけど、この事実を受け入れるのは、私にとってはなかなかしんどいことだった。
これを認めてしまうと、私のやってきたことの前提が覆ってしまう……
もうどうしたらいいのーーー!!!
という、そんな感じがしたのだ。
ものすごい大きな葛藤を抱えながら、
その葛藤に解を見出せないまま、
本のプロジェクトは続いていく。
……というのが、2018年頃からの2021年、休職するまでに起きていたことだった。
そんな日々を過ごすなかで、私を助けてくれた本たちの一部を挙げておく。
私がつくりたいのは「ムーブメント」だった
あともう一つ、ものすごくシンプルな気づきがある。
私が望んでいたのは、本というコンテンツ、ものをつくることではなかった。私は、ムーブメントをつくりたかったのだ。
正直なところ、売れるのは嬉しい。部数が伸びるのも嬉しい。
でも、部数が伸びるよりも、もっと嬉しいのは、具体的な「変化」が見られることだ。
たとえば、、、
・普段の会話やメディアなどで、語られる「言葉」の質が変わること
・モヤモヤを整理する「枠組み」が変わること
・ある出来事について、多くの方が無意識のうちに抱いている
「前提」や「文脈」に揺らぎを与えること(認識が変わること)
こんなことができたら「やったー!」と感じたりする。
100冊以上本をつくって、やっと納得したよ。
私がやりたいのは、社会にちょっとだけ揺らぎを与えることで、
「本」は、あくまでもその手段だった。
揺らぎを与えた先にあるのは、
次の世代に遺すべきものは、よりよい形で遺し、
ここで終わりにすべきものは、きれいに終わりにすること。
私が抱いていたのは、そんなシンプルな願い/祈りなのだと思う。
(本をつくるのは大好きだけど、目的のほうがもっと大事だ)
組織に所属して働くことって幸せだ
ここまで「本をつくること」について書いてきたけれど、
「組織に所属して働くこと」についても振り返ってみたい。
日本能率協会マネジメントセンターに入社して、
はじめて「ちゃんとした組織」というものに所属した。
たとえば、入社したら自分の座席が用意されていて、すぐに使えるPCがあり、PCの使い方から経費精算の仕方、はたまた就業規則や他部書の仕事のことまで、「研修」という名のサポートが行き届いていた。
これは、以前の職場(もっとベンチャー気質の強い会社だった)では経験したことのない安心感だった。
入社したら、すぐに「社員」として受け容れられる。
マズローの欲求段階でいうと、3つめの「社会的欲求」まで、しっかり下支えされた環境が整っている。
これって、当たり前のようですごいことだと思う。
(もちろん、まだまだ整備が必要なところもある。
どんな組織も完成形はないから)
ちなみに、私は、在籍していた10年弱の間に
3回ほど、ながい休みをとっている。
一度目は、子宮筋腫の手術。このときは3週間ほど休んだ。
事前にスケジュールを調整する必要はあったけれど、おかげさまで何の心配もなく手術に向き合うことができた。
二度目は、母の急逝。
突然のことだったけれど2週間ほど休みをとることができた。
このときは、とてもじゃないけれど仕事ができる状況ではなく、、、本当にありがたかった。
そして三度目の長い休みは、昨年7月以来の1年間の休職。
これを書くと長くなるので、また別の機会に譲るけれど、この休みがなかったら、こうして「退職エントリ」を悠々と書くことはできなかったと思う。
こうした人生のアップダウンを経験するなかで、しみじみと感じ入ってしまうのが、このシーン。
おかざき真里さんのマンガ「サプリ」のこのセリフ、大好きだ。
抗えない「生老病死」を分かち合うために連帯する。
生きることの「悲しみ」「苦しみ」を分かち合う。
そうした共同体としての「会社」「組織」。
こうやって書くと、すごくドライな利害関係に思えるかもしれない。
でも、そんなに簡単なことじゃないと思うよ。
制度が揃っていることと、実際に分かち合って、連帯できるかどうかは、また別の問題だから。
私にとって、日本能率協会マネジメントセンターは”背”を預けられる場所だった。そういう仲間がいる場所だった。
生きることに対する安心感があるからこそ、やりたい仕事に集中することができた。
背を預けられる信頼感があるからこそ、お互いの仕事を応援しあえた。
それぞれの成功を自分事としてよろこびあえた。
少なくとも、私が一緒に働いていたみなさんには、そう感じていた。
ただ、真実を書いておくと、最初から、そうだったわけでない。
一つひとつの関係性を丁寧に紡ぎ、コミュニケーションをとっていくなかで、徐々にそれぞれが安心しあえる場所になっていったと思っている。
なので「伏線の回収」がひと段落し、「そろそろ離れる時だ」という季節の移ろいを察知しながらも、その事実を”見てみぬふりしたい私”もいた。
「どうしてこんなにいい仲間たちのもとを離れなければならないのだろう」
「どうして私は、これだけよくしてくれる組織を離れなければならないのだろう」
正直なところ、今でも「別の選択もできたのではないか」と思うことがある。関係性のなかに、「we」のなかに安住できる貴重な「居場所」ができたというのに、どうして私は、それをわざわざ自分から手放そうとしているのだろうか。
そう思わせるくらい、大切な居場所だったことを、少し恥ずかしいけれど、ここに残しておく。
(一緒に働いてくれた同僚のみなさん、本当にありがとうございました!)
「つなぐ人」としての"unfinished work"
”unfinished work”を意識するようになったのは、たぶん、母を亡くしてからだと思う。
”unfinished work”とは「未完成作品」のこと。
神様という存在がいるのかもわからないけれど、
今死んだとしても、神様は怒らないだろうか。
ちゃんと命を燃やし切れているだろうか。
不完全燃焼していないだろうか。
私の”unfinished work”は、他の人に手渡せるものになっているだろうか。
……なんてことを、5年前、
母が61歳で急逝してから、よく考えるようになった。
亡くなる直前の母は、なんだかすごかった。
母が亡くなったのは8月15日。
8月13日に祖母の新盆のお見舞いの手伝いをし、お世話になった親戚や近所のみなさんほとんどと顔をあわせ、挨拶をしていた。
8月14日の朝には、お世辞にも仲が良いとはいえない父のリクエストに応えて「じゃがいもとワカメの味噌汁」をつくり(父に料理をつくったのは久しぶりのことだったらしい)、8月14日の午後には、私や妹を見送った(どこか「最期」だと感じさせるような感覚をのせて)。
そして、翌日に脳出血で倒れ、そのまま息を引き取った。
まるで、自分自身の”unfinished work”を終わらせようとしているかのように、彼女はなすべきことをやって、旅立っていった。
どれもこれも、少し前の母からは想像できない行動だった。
自分にとっての”unfinished work”とは何なのだろう?
そう考えるとき、自分が今までに受け継いできたもの、渡されたものが思い出される。
このまま私が死んだら、ここでストップしてしまうバトンはないだろうか。
もしくは、こう考えることもできるかもしれない。
私のところで葬り去ったほうがいいものを、ちゃんと自分の持ち物(管理可能な所有物)にできているだろうか。
* * * *
”unfinished work”として考えると、大学時代に、期せずして受け取った「インテグラル理論」のバトンを、どうにかこうにか次に手渡せたことは幸運なことだったと思う。
2021年夏までにインテグラル理論の一連のシリーズを世に出し、電子書籍化までできた(これで当面は絶版の危機を免れた)とき、私の一つの大きな”unfinished work”が「完了」した感覚があった。
でも、ありがたいことに、私の手元には、ワケもわからずに受け取った「すばらしいプレゼント」が、まだまだたくさんある。
なかには、受け取ったはいいものの、どう生かすか、まだ決めあぐねているプレゼントもいくつかある。
いろんな方から受け取ったたくさんの智慧、すばらしい体験、叡智。
先祖から受け継がれてきたもの。
授かったけれど、まだ生かし切れていないスキル。
大切な大切な仲間たちとの関係性。
意図せずに垣間見ることになったシステムの歪み。
そのなかで味わってきた痛み、悲しみ、怒り、よろこびなど……。
これもまた「布置」されたものであり、私がこれから回収していくことが望まれる「伏線」なのだろう。
こうした伏線は、たぶんこのままの生き方では回収しきれない。
もし、この伏線を回収したいのであれば、生き方を変えるしかない。
だとしたら、私は「生き方を変える」ことを選ぶ。
というか、そうするのが、今の自分にとっては自然だった。
だって、布置されたものから目を背けると、どうにもこうにも「生きた心地」がしなくなるのだよ。
少なくとも、身体はもう知っている。
身体の声を聞くならば、もう何を選ぶかはわかりきっているのかもしれない。
T :次やること
はぁ。。。やっとここまで書けた!
長かったーーーーーーーー!!!(苦笑)
もっと端的にまとめるはずが、既に1万字。
ここまで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございます。
さいごに「今後」について。
「生き方」を変えるとはいったものの、
私の感覚としては、何か特別なことをするつもりはない。
受け取ったものを私なりにたっぷりと味わい、
つなぐべきところへ手渡していく。
そうやって丁寧に「つなぐこと」をしていこうと思っている。
とはいえ、それは私の内面的な真実の話で、
外面的な活動を表面的にみると、
「えーーーこんなこと始めるの!?」
と感じる方もいるかもしれない。
ひとまず、今決まっていることをまとめておきます。
それぞれの活動についての詳細は、また折をみて綴りますね
(次はもっと短く、端的に!)
おわりに 「終わること」への祝福と、心からの感謝を込めて
さて、いよいよ終わりだ。
今は退職日の前日の22:00手前。
なんとかなんとか、ギリギリで書き切ることができて安心している。
でも、どこかで、この文章を仕上げて「公開」することに躊躇いもある。
「ああ本当に終わってしまうのだな」という寂しさもある。
やっぱり、この期に及んでも「終わらせること」は、しんどい。
割り切れない想いもまだまだたくさんあるし、
はたして今後の私の生活がどうなるか不安もある。
(余談だけど、パートナーには「近ごろの里美ちゃんはMTG poorだね(MTGばかりで売上があがらないね)」と言われている。苦笑)
色々あるはあるけれど、やっぱり「終わり」は祝福だ。
「退職のご挨拶」を、可能な限りお送りしたけれど、
多くの方から、とてもありがたいお返事をいただいた。
どれも私の歩いてきた道を照らしてくれる、
あたたかな光のような言葉だった。
多くの方の、やさしい言葉、美しい言葉、そこに込められた想いに支えられて、私という現象は成り立っている。
言葉は脆いけれど、やっぱり私は言葉の力を信じている。
だからこそ、さいごにあらためて、心からの感謝を込めて。
10年という長きにわたり、
さまざまな形で支援いただいたみなさま、
叱咤激励をいただいたみなさま、
ともに歩んでくださったみなさま、
直接の関わりはないものの、間接的にご支援いただいたみなさま、
本当にありがとうございました。
今後も、またどこかで道が交わることを祈りながら。
2022年6月29日
柏原 里美
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