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短編小説『Hurtful』 第1話 「没収の儀式」

あらすじ
【「今日から私のハピネス・ウィル・サンクチュエール精神科病院での日々がまた始まる。」
その歳の夏、私、相原さとみの入院ははじまった。
ちょっと変わった病院とその癖の強い住人たち。そして看護師たち。煙草をめぐる冒険。いくつもの事件。生きたり死んだりするこころ。なんと愛おしくもつらすぎる日々よ。】


今日からまた入院である。
バスを降りて大通りをひとつ曲がると、もの静かな道に出る。妙な陰気さが漂っている。
目につくものといえば小さな処方箋薬局と、時代がかった煙草屋兼酒屋ぐらいである。酒屋の硝子戸は開け放たれていたが、誰もいない様子、とおもうと店の横、瓦礫が積み上がっているところに小汚い身なりの人物がうずくまって座っていたりしてなんだか全体的に不気味な通りで、空き缶が風で転がっているさまもあいまってなんとも暗い。
歩いているだけで心が折れそうになる。

しばらく歩くとひときわ大きな建物が現れる。
ピンク色の看板に、丸みを帯びた緑の文字で『ハピネス・ウィル・サンクチュエール』と書いてある。

これがアパートやマンションの名称、或いは老人福祉施設の名称かなんかだとすれば特に気にも掛からないのだが、問題なのは緑の文字は更に『精神科病院』と続く点で、こういう、いったいなにが言いたいのかよく分からない、横文字の組み合わせを精神科病院の名称にされると実にインチキ臭く見えるばかりか、なぜか小馬鹿にされているような気分になり不愉快である。しかし馴れというものはおそろしいもので、これも十九の時から、かれこれ七年間もこの病院に定期的に通っているとそんなことはすっかりどうでもよくなってしまい、ここ最近めっきり気を病んで精も根も尽きた私はともかくこの、サンクチュエール、の自動ドアに吸い込まれたのだった。

こざっぱりとしたロビー。受付に「相原ですけど」と告げる。
しばらく待つように言われて、診察室を取り囲むように並んだオレンジ色のソファにどっかりと腰を下ろした。汗をかいた腕がビニールに張り付いた。

相原さん、とやって来た看護師に附いて一階の廊下を進んでいく。
診察室1、2、3、4、を通り越し、更に処置室1、2、を素通りし、本来ここを折れると診察室5、6、7、があるけれどもこれも曲がらずにまだ直進、していくと、もうこの辺りは外来患者は用のない通路であり、実にひっそりとしている。突き当りにあるエレベーターで五階へ行く。
「えっと、入院は2回目でしたっけ」
「いえ、4回目です」
そして背後でガシャンと大きな音がして扉が施錠された。

今日から私のハピネス・ウィル・サンクチュエール精神科病院での入院がまた始まる。


部屋に案内されると没収の儀式がある。
持ってきた荷物が細かく検診されていく。財布の中、ポーチの中、服のポケットもひっくり返され、パーカーの紐、ピアス、陶器のマグカップ、万年筆のインク瓶、その他諸々の個人的な品々が危険物と見なされ没収された。
看護師がそれらをビニール袋にまとめて入れていく。
その他の病棟ルール説明など長丁場の一連のごたごたも終わり、看護師も去り、一刻も早く煙草が吸いたかった私は部屋を出て喫煙所に向かった。

幾つかの部屋を通り過ぎると、左手にナースステーションがあり、中に五、六人の看護師の姿があった。ナースステーションの前は窓に面した共有スペースで、デイルームと呼ばれている。
長テーブル一つに対しパイプ椅子が四個、このテーブルセットが十二ばかり並べられており、ここでみんな朝・昼・夕の食事を取るようになっている。一番手前のテーブルには私よりも年の若い女の子が二人、向かい合って座り、ひそひそと楽しげに話をしていた。奥にテレビがあり、何人かの年配の人がその近くまで椅子を持ってきて、「ヒルナンデス!」を見ている最中だった。

テレビの横には自動販売機と、患者共用の小さな冷蔵庫が置いてある。
普通は、一個の冷蔵庫を皆で共有する場合、横にマジックのごときが置いてあり、自分の名前を飲み物に筆記してから冷蔵庫に入れれば誰も間違えない。ところが、この病院では名前を書いて入れておいたものがいつの間にかなくなっていることがよくある。
しかしこれは精神科ならではの現象として諦めるしかない。

 デイルームを見渡した限り、私が過去の入院で知った人は誰も居なかった。最後に入院してから五年近く経っていたが、病棟は何も変わっていなかった。

ハピネス・ウィルの喫煙所とは、このデイルームの一番隅っこに位置する。全体的に清潔で窓からの日差しも明るい病棟のなかで唯一、薄暗い蛍光灯の、壁もまた汚い黄色の部屋である。片引きのガラス戸をスライドして開けると、右に長細く続いているが、その広さは畳二枚もないほどである。
 入ると、体格のいい女性がひとり、床に座って煙草を吸っていた。私のことを見ると満面の笑みを浮かべた。

「こんにちは」
 と、その女性のほうが早かった。

「こんにちは」

「よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします。相原さとみといいます」

私が先に挨拶をしようと思っていたので慌てて名前を言った。

彼女はショートヘアで、ピンクのポロシャツがよく似合っていた。
サンダルをつっかけている。かなり太っているが、こういう病気になれば太ること自体は珍しくなかった。
彼女の風情はわんぱくな少年を連想させたが、名前は可愛らしく杏奈ちゃんといった。
私は杏ちゃん、と呼ぶことにした。二十六歳の自分の少し歳下ぐらいだとおもっていたが、話してみると杏ちゃんはもう三十歳だということだった。

「まだ二十九だけどね。今月三十になるの」

三十歳とは信じがたい、無垢な、全くの子どもみたいな表情をしている。ただ、不思議にも目だけが暗いというか、眼元全体が落ちくぼんでいて黒ずんでいた。
「美容師?」
杏ちゃんが私に訊いた。
「美容師じゃないよ」
「髪の色すごいきれいだからさぁ」
「そう?」
「うん。個性的っていうか、そういうのが似合うのってすごいね」
 その時期私は、髪の一部分を紫とピンクと金色で染めていた。
「美大に行ってるんだけどね。もっとすごい人いるよ。全部ピンクとか全部白とか」
「へぇー。美大に行ってるんだ?」

杏ちゃんは感心するように言った。
私の声がだいたい小声なのに対して、杏ちゃんははっきりとした明るい声で喋り、そしてよく笑った。

「さとみー、こっちのテーブルの席空いてるから、こっちで食べなよ」
入院二日目、朝、デイルームに行くと杏ちゃんが声をかけてくれた。テーブルには杏ちゃんともう一人女性が居た。
「由美子さんっていうの」
 杏ちゃんが紹介してくれた。

大きな目とポニーテールが印象的な人だった。私は杏ちゃんの隣、由美子さんの目の前の席に腰を下ろした。この人とは昨日の入院初日も、喫煙所で何度か居合わせたのだが、挨拶するのを逃していた。拙い自己紹介をしている間、由美子さんの大きな目は少しも逸れることなく私の顔を見ているので、それが非常に気になり、一体自分は何を喋っているのか途中から不明瞭になった。
まるで、希少な美しい獣に出くわしてしまって、それにじっと見られているような気分になり、落ち着かなかった。

自然と会話が途切れ、由美子さんの目線が手元の食事のほうに移ると私もパンをかじり牛乳を飲んだが、またちら、と前を見ると今度は目を伏せている由美子さんの異様なほど長いまつ毛が私を緊張させた。


その日以降、私は杏ちゃんと由美子さんが居るテーブルでご飯を食べることになった。
だいたいの人の食事が済む頃になると、看護師は患者を一列に並ばせて、食後の薬の配給を始める。看護師が、薬の袋に記されている患者の名前と本人の顔を見比べて間違いがないか確認し、中身を渡す。患者はその場で薬を飲まなければならない。
そして、ちゃんと飲みましたという証として、口を大きく開けてみせる。
はい、いいですよー、と言われると待ちきれなかったかのように、自販機で食後の飲み物を買うなどして、何人もの人が我先にと喫煙所に押し寄せた。

私が行った時には喫煙所は既に七人ほどが鮨詰め状態になっていた。
それも空いてくると、杏ちゃんと床に座り込んだ。

杏ちゃんは煙草とイチゴオレをいったりきたりしている。

「あー、さとみはうつか。私も、うつなんだ。でも、統合もある。おばさんの家で暮らしてて。あのね、高校の頃ね、お父さんに無理矢理ヤラれちゃって。うん。私のこの体でもね、お父さんのほうが体大きいから、全然抵抗できないの。全然、太刀打ちできないの。だからそういうの無理だった。でも或る時おばさんがそれに気付いたんだ」

「お母さんは?」
「あ、お母さんはねー、酷い母親だった。私がちっちゃかった時にね、私をお風呂に沈めようとした。だから離婚してる」
「そっか」

「でね、おばさんが或る日、お父さんがしたことを知って。周りの大人とかは、どうする?警察に訴えてもいいんだよ?って言ったんだけど、そうしなかったの。
だってさぁ、一応さぁ、父親な訳じゃん。だから、訴えませんって言った。それから、おばさんの家に住んでるんだ。おばさんは、結婚はしてないんだけど、一緒に暮らしてるおじさんがいる。おばさんのこと私は好きなんだけど、おばさんはそうでもないんだよ。よく機嫌悪くなるんだよね。おじさんのことでうまく行かないと、私に結構当たってくる」

 普通なら、こういう話は、喋るほうも聞くほうもつらい。杏ちゃんは、私なら大丈夫だろうと判断したのかもしれない。
 杏ちゃんは途中途中顔をしかめたり、目を大きくさせながら表情豊かに喋った。


第2話へ続く



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