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夏をほどく

 夏がやってきたと思うといつもすぐに、この夏が終わる頃に思いを馳せてしまう。夏の終わりに誕生日があるからかと思っていたが、揃いも揃って娘も同じ季節に生まれた。

 記録にも記憶にも残るような暑すぎた夏、娘が生まれた日を境にそれまでの暑さが嘘のようにすっと涼しくなっていった。立秋は秋のはじまりとされる日だが、本当にその通りで驚いてしまった。暑さの頂点を迎えてそこからは秋に向かっていく。そんな季節の変わり目に娘は生まれた。空気が少しだけ凛としはじめて、光が柔らかくなっていく。東の空が紫色に染まる時間がだんだんと遅くなっていくのを、授乳しながらぼんやりと眺めては噛みしめるように過ごした。新生児期があっという間に終わってしまったのと同じくして、どんどん秋が深まり、すぐに北国の長い冬がやってきた。待ちわびた春がくる頃には娘はハイハイができるようになり離乳食もよく食べるようになった。娘が立ち上がって歩き出すと夏が勢いを増して、もう間もなくあれから一年が経つのだと実感した。

 一歳になった娘は怪獣みたいな口の開け方をして食べる。小さな口をこれ以上絶対開かないだろうというところまで大きく開けて、真っ白なとがった歯をちらりと見せながら、目を細めて鼻にしわを寄せてガブっとかぶりつく。その姿は生命力に満ちあふれている。母が初孫である娘を評して言った言葉は「生きる意欲がある」だった。私が赤ちゃんだった頃とはそれが決定的に違うらしい。私は生きる意欲がなかったのだろうか。私がどうだったのかはわからないが、比較対象がなくても娘が生きる意欲が満々なのは明らかだった。特に好きな食べ物はみかんで、みかんを一房口に入れてやると、まだ飲み込んでもいないうちから次のみかんを欲しがる。あっという間に食べ終わってしまうともっと食べたいと怒るので、しぶしぶもう少しだけ冷蔵庫から出して食べさせる。娘には好きなものをとっておこうなんて小賢しさはない。なくなったらもっともっと欲しいとせがむ。甘いものは控えめにしなきゃなんて計算もない。ほしいものをほしいとまっすぐに示せる娘が私にはまぶしい。

 娘が最近気に入っている遊びは「いないいないばあ」だ。小さな両手をベタっとほっぺにくっつけて、目はまる見えのまま「いにゃいにゃいにゃいにゃい、ばあー」と叫んで両手を広げる。そうすると私や夫が大喜びで「すごいね」と拍手するので、娘もまねして拍手する。この一連の動作をとても気に入ったようで、何度もやっては喜んでいる。常に先のことを考え予測しながら過ごしている大人と違って、一瞬一瞬を受け止めて生きている娘にとっては「いないいないばあ」は数少ない予測できるものでおもしろかったのかもしれない。なんだか大人になればなるほど未来のことばかり考えて忙しくしている気がする。水曜日にあの商品がポイント二倍になるから買って、一週間後までにあの仕事を終わらせて…と頭の中はいつも先の予定でいっぱいだ。未来をコントロールしたいという思いばかりが募り、目の前にある肝心の今が手からこぼれ落ちていってしまう。いつだって過去を振り返って後悔することなんて、幸せ幸せと言って過ごせばよかったということだけなのに。目の前を一生懸命生きる娘を見ていると、未来はわからないけれど今ここで生きていることがすべてだと思わせてくれる。

 思えば妊娠・出産・育児は三つ揃って身体にとっては苦しいことばかりだった。妊娠中もつわりに苦しみ、出産も当然のように苦しみ、産後も乳腺炎に何度も苦しみ、どうしてこんなに辛いことばかりなんだろうと思った。けれど、そんな不自由で苦痛にまみれた身体に反して、娘が生まれてきてくれた日から心はどんどん解きほぐされていった気がする。娘を見ていると凝り固まった何かが揺さぶられる。いつから自分はこんなに固定観念やルールに縛られていたのだろうと思う。情報が簡単に手に入る時代になって便利なことも増えたけれど、頭でっかちになってしまうことも増えた。育児は自分がこれまでがんじがらめにしてきた絡まりをほどいて、子どもとともにまた新たに絡まり合っていくことなのかもしれないと思う。その作業は時に葛藤もあるけれど、今まで見ることができなかった景色を見せてくれた。これからきっと、娘が生まれたこの季節の空気を光を感じるたびに、狂おしいほど懐かしくこの日々を思い出すのだろう。

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