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「何にもしない」から何かが生まれる ~静岡県裾野市の地域づくり~

先日のこと、「何にもしない合宿」へ行ってきました。

え?「何にもしない」って文字通り何もしないってこと?
私の頭のなかには坐禅を組む人たちの姿がうかんでいました。今流行りのリトリートかな?と思ったりしたのですが・・・

全然ちがったー(笑)

小学校の体育館に続々とやってくる子どもたち。受付を済ませるなり縦横無尽に走り出す。あふれんばかりのエネルギー。どうして子どもってこんなに元気なんでしょう。まぶしいぜ。

小学生があそんでると思ったら
あれ?中高生が混じっているぞ?
お、大人もいる!

気づいたら子どもも大人もごちゃまぜな遊び場になっていました。

みんながみんな走り回って遊んでいるわけじゃありません。おしゃべりしたり、お菓子たべたり、カードゲームしたり、ゴロゴロしたり、それぞれ好きなように過ごしています。

なんだこの空間は!?

ああ、「何にもしない」の意味は “特別なことは何にもしない” ってことなんだな。


何にもしない合宿とは

「何にもしない合宿」は、2012年9月に静岡県裾野市ではじまった月1回のお泊り会です(今回で76回目)。

体育館を開放して、遊んで、寝る。
夜6時に来て、朝7時半に帰る。

とってもシンプルなのですが、これが地域にとって大事な場になっているようなのです。

個のしあわせ × 日常のつながり = 地域づくりの土台

「何にもしない合宿」の根底には、日常のつながりをつくることが意識されています。

地域の子どもと大人の信頼関係、親や友だち以外の「第三の人間関係」が紡がれていくことで、個人のしあわせを大切にできるつながりが広まっていき、結果的に “この心地よい関係のなかで暮らしたい” と思える地域になっていく。

そういった願いがこめられた場です。
願いはこめられているけど、前面には押し出さないのがミソ!表面だけみれば、自由気ままに遊んでいるだけなんです。

スケジュールはこんな感じ

18:00 開場 → 受付 → 遊ぶ
19:30 集合 → 注意点の確認・写真撮影
20:45 片づけ → 寝る準備
21:00 消灯
06:00 起床 → 遊ぶ
07:00 掃除 → 順次帰宅
07:30 完全撤退

受付では、事前に登録してもらった参加フォーム(名前、連絡先、宿泊の希望)をチェックして、参加費100円を集金します。小学生以外は受付はなく出入りも自由です。

言わずとも中高生が受付係りをやっている


19時半ごろに1回だけ集合をかけて、下記4点ほど注意事項を確認します。
 ➀ ケンカしない
 ➁ ケガしない
 ➂ 21時消灯、夜は音に気をつける
 ➃ べたべたするジュースとぽろぽろするお菓子は食べない


泊まる子どもたちは、おうちから寝袋やパジャマ、お気に入りのぬいぐるみなどを持ってきていました。小学生が寝る場所は冷暖房が完備された会議室です(男女別)。中高生は体育館にマットを敷いて寝ます。大人も寝袋持参で雑魚寝できます。(体育館の設備が充実していてすごい)


翌朝6時すぎに体育館をのぞいたら、もうすでに子どもたちが走りまわっていました。元気だなあ。

写真を撮りながらふらふらしていると、いえーいとポーズしてくれる小2女子たちがいて、お菓子あげるー、トランプしよーって仲間にいれてくれました。なんて人懐っこい子たちなんだ…!


自由に遊べるといっても、なかなか輪に入れない子もいるのかなーなんて思っていたのですが、よそ者の私を仲間にいれてくれた女の子たちのように、いっしょ遊ぼうよ!と声をかけあう文化ができているようでした。



心地よい関係づくりの秘訣

子どもも大人もごちゃまぜで遊ぶ、このスーパーフラットな関係ってなんなんだろう?どうやって成り立っているんだ?

いろいろと疑問はつきません。現地で見聞きした情報をもとに「何にもしない合宿」の特徴をまとめてみました。比較対象として、私の地元の子ども会と並べています。

まとめるなかで、そもそも子ども会ってなんだ?と、こちらも疑問が湧いてきまして…子ども会の役員をやっていた母にもいろいろ聞いてみました。

母いわく、子ども会は「神社に子どもをおびき寄せる会」だそうです(笑)

地域ごとに子ども会の位置づけが違うので、うちの地元に限った話になりますが、神社のお祭りが一大イベントだったこともあり、夏は子ども神輿と盆踊り、冬はどんど焼きといった神社関係の活動が活発だったなと思います。

お神輿の練り歩きルートは、地主さんの家の前を必ず通るようになっていたとか。(だから、わざわざ坂をのぼってくだる謎のルートだったのか!興味深い)

おっと、地元の話はこのへんにして、本題へ戻りましょう…!


①運営方式:言い出しっぺ実行委員方式

「何にもしない合宿」の最も重要にして大前提となるのが「言い出しっぺ実行委員方式」!なんじゃそりゃー!

言い出しっぺ  ― それは、旗振り役あるいは “この指とまれ” の指を高々とあげる者のことをいう。

つまり、やりたい人が全部やる、やらない人・やりたくない人は邪魔しないという方式なのです。

なんと清々しい。やらされ感が生まれにくい仕組みになっているんですね。


②運営費:?(共催金等)

お金の話、ちゃんと聞いてくるの忘れてた、、

補助金は使っていないそうです。マンネリ気味な地域団体と連携することで共催金をいただくなど工夫されているのだとか。

自治会や市のお金をつかわないことで、意思決定がすばやくできるようにしているのだと思います。

一方、子ども会の方は自治会費から予算が配分されていました。基本的に単年度で使い切りだったそうですが、自治会とのつながりは強くなく、お金の使い方をとやかく言われることはなかったみたいです。

地域によっては会費制のところもあるようですね。会員と非会員を区別しはじめたら、めんどくさいことになりそうです。みなさんの地域はどうでしたか?

---追記 2023.09.29---
運営費はないとのことです!体育館の利用料もタダで小学校の方では学校行事扱いになっているそうです。


③役員:裾野市東地区おやじの会

何にもしない合宿の運営母体は「裾野市東地区おやじの会」という有志団体です。

「おやじ」といっても、50人ほどのメンバーのうち3分の1は女性で、独身でもメンバーになれます。

一方、子ども会の場合は、小学5年生のお母さんと決められていました。なので、4年生でフェードアウトする子も多かったですね。(親が役員やりたくないからね)


④負担:軽い

企画なし、準備なし、負担なし

「何にもしない合宿」がここまで続けられているのは、負担がほとんどないから。

合宿を見守る大人は、言い出しっぺの小田さんと奥さまの最低2人いれば、どうにかなるとのこと。おやじの会の誰が来てるかといった出欠もとりません。

当日伺う際に「もし準備があればお手伝いしたいです」とお伝えしたところ、「何にもしない合宿には準備がないのよ笑」と返信いただいたのも印象的でした。

視察に来られていた方々に対しては「せっかくだから、あれもこれもやろう、にならないように」との助言もされていました。

一方、子ども会の方は、夏休みが特に忙しくて、毎朝のラジオ体操に加えて、夏祭りの準備がたんまりあったようです。

てっきりお祭りは神社の氏子が主催していると思っていたのですが、子ども会のお母さんたちが中心になって準備していたらしい。知らなかった。。

基本的に役員は総動員でしたし、負担は大きかったと思います。


⑤頻度:日常

日常のつながりをつくるには、とにかく子どもと大人が関わる機会をたくさんつくる必要がある

とのことで、「何にもしない合宿」は月1回の開催になっています。

単発のイベントだと、街中でみかけたときに気軽に声をかけられるほどのつながりにはなりづらいですし、

主催側もちゃんと企画して準備しようとすると疲れる、参加する側もお客さんになってしまいます。

たしかに、子ども会の活動を振り返ってみても、非日常のイベントという感じで、私含め子どもたちは完全にお客さん気分で参加していました。

参加したからといって、友だちの輪が広がるということもなく、結局いつもと同じメンバーで遊んでいた気がします。


⑥子どもと大人の関係:ナナメ

「何にもしない合宿」でおどろいたのが、子どもも大人も名前で呼びあっていることでした。

言い出しっぺの小田さんは、みんなから「おだっち」と呼ばれていて、ねぇねぇ何してるのーと声かけられたり、すれ違いざまにじゃんけんを挑まれたり、すごく慕われているのが伝わってきます。

小田さんもほとんどの子の名前とどこの誰なのかを把握しているようでした。街中でもよく声をかけたりかけられたりするそうです。

こうした子どもと大人の関係を「ナナメの関係」といったりするのですが、ナナメって絶妙ですよね。気軽にしゃべれるといっても友達じゃないし。あまり密になるのもね、見られているようで窮屈に感じることもあるかもしれません。

このあたりの絶妙なライン(小田さんいわく敬語を使いはじめたら注意)を、どうやって心地よい関係につなげているのか、また小田さんには聞いてみたいなと思います。


⑦参加者:小学生から社会人

参加者の多様性は最初から狙っていたわけではなく、気づいたらこうなっていた結果なのだとか。

もともとは小学生限定の場にしていたそうなのですが、次第に卒業した子たちも参加したいと言いはじめたそうで。じゃあ、何かお手伝いでもしてもらうおうか…ということで、サポーター制度ができました。

しかーし!役割をあたえたら、よくない方向へ傾きはじめたといいます。何が起きたかというと、やってる・やってないをジャッジする人がでてきてしまったということです。「あの子たちサポーターで来てるのに、なんで遊んでんの?」という具合に。さらに「やることがなくてつまらなくなってきた」という大人もでてきてしまったそうです。

てなわけで、サポーター制度は廃止されました。今では中高生も好きなときに来て、好きなように過ごしています。サポーターという枠組みがない方がむしろ主体的に動く人が増えるような気もしますね。

ルールや役割をつくると管理したがる人がでてくる
これはあらゆるコミュニティにいえることなので、教訓にしたいと思います。



地域の変化 担い手不足はつながり不足だった

「何にもしない合宿」を10年つづけてきた裾野市東地区(2020年4月から休止、2023年5月再開)。地域にはどんな変化がうまれているのでしょうか?


▶日常のつながりが増えた!

大人からすると「うちの子みたいな子」が、子どもからすると「お兄ちゃんお姉ちゃんみたいな人」が地域にたくさんいる状態になってきているとのこと。

親や先生に話しづらいことでも、「ナナメの関係」である地域のお兄さんお姉さんに相談できるのは、とてもよいなあと思います。小学生のうちから地元で就職したお兄さんや東京の大学へ進んだお姉さんと関われるので、進路相談とかも気軽にできそうです。

あと、これって防犯や防災にもつながるだろうなと思いました。「何にもしない合宿」の会場である裾野東小学校は広域避難場所にも指定されています。事件や災害はないのが一番なのですが、何かあったときの頼み綱は地域のつながりです。


▶言い出しっぺが増えた!

「言い出しっぺ実行委員方式」は子どもたちにも浸透しています。多い年だと30活動くらいイベント等が立ち上がるそうです。

私が遊びに行った回の次の日は水鉄砲大会をしてました!超たのしそうだった~

同調圧力が強かったり、出る杭が打たれるような旧態依然とした雰囲気がまだまだ蔓延っている日本社会ですが、小さな地域からじわじわと変化が起きているのを感じます。この子たちが大人になったら、どんな地域に、日本になっていくのだろう。


▶コミュニケーション力がアップした!

子どもたちの成長にも影響はありそうです。これだけ多世代で遊んでいると、いろんな人と関わることへの抵抗はあまり感じなくなりますし、仲間になる力というのでしょうか、話し合ってやることを決めるチームビルディング能力が高まっていくとのこと。

準備や片づけも含めて、子どもたちは何をすべきかわかっていて、自分で考えて行動している様子がみられました。やってみたいことがあれば、手をあげて声をかけて仲間をあつめる。自分が言い出しっぺにならなくても、それいいね~と乗っかっていくフォロワーシップも育っているようでした。

きっと、子どもたち自身、どういう状態が心地よいのか、信頼関係とか心理的安全性とか、いわれなくても体感としてもう知っているのだと思います。

こうしたコミュニケーション力は、地域の外に出たとしても、それぞれの場所で心地よい人間関係をつくるのに役立つはずです。


▶地域の次世代が育っている!

小学生だけの場だったところから、中高生や社会人も集まる場になっていったのは、なんでだろう?

大事な居場所だと思ってるから。愛着があるから来るんだと思うよ。」と小田さん。

実際に、社会人になっても参加している方や、帰省ついでに遊びに来ている学生たちに聞いてみると、
 「この場が続いているのがうれしい」
 「地域の外にでてはじめて、これが当たり前じゃないことを知った」
 「なにかしら関わりたいし、おだっちたちに会いに来てる面もある」
 「おだっちがやめても誰かしら引き継いで続いていくと思う」
そんな話をしていました。

こうして、恩送りというのか、つながりの連鎖が生まれていくのは、地域の底力(レジリエンス)としてとても心強いものになっているだろうなと思います。「何にもしない合宿」に限らず、消防団など地域の自治組織にも入団する若者が増えているそうです。



ちょっとした考察

「何にもしない合宿」で起きていることをちょっと俯瞰したところから捉えなおしてみたいと思います。


▶「共」の再構築

父母世代が子どもだった頃、1980年代くらいまででしょうか、隣近所のお兄さんお姉さんと道端であそんだり、川であそんだり、商店街で寄り道したり、日常的に地域の多世代がまざる風景は今よりもたくさんあったと聞いています。

ゲームやネットが発達して、塾や習い事が当たり前になったりと、子どもの日常も変わりました。共働きの家庭も増えて、地域の活動に参加する余裕がない親も増えたと思います。

さらに、少子高齢化や混住化などの影響も受けて、このまま何もしなければ地域のつながりは弱まるいっぽうです。

日本の社会的孤立(家族以外の人とのつながり)は先進国のなかでも深刻で、それが自殺率の高さや生きづらさ・閉塞感にも繋がっているといわれています。

こうしたなか、“コモンズ” や “結い” といわれるような、公・共・私の「共」をつくりなおそうとするムーブメントとして、地域づくりや地域活性化といわれる活動が盛んになってきた側面もあるのではないかと思います。

ただ昔に戻ればいいというわけでもなく、戻れるわけもなく、時代によって求められるコミュニティのあり方も変わってきているのではないでしょうか。

「新しいコミュニティ」(《共》)は、伝統的な共同体(「共」)に対し、それがあくまでも自立的な個人をベースとする、自発的かつ開かれた性格の共同体であるという点において異なる性格をもつものである。

今後は従来のような単純な「大きな政府」としての福祉国家は相対的に縮減していき、それに代わって“共”的な領域―コミュニティや、NPO等の組織、(土地所有や環境などの面での)「コモンズ」等―が重要性を増していく

広井良典(2009)『コミュニティを問いなおすーつながり・都市・日本社会の未来』p.159


広井先生は、コミュニティの形成原理を「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」の2つのタイプにわけているのですが、日本社会において圧倒的に強いのが「農村型コミュニティ」(情緒的なつながり、同質性、ウチ向き)であり、「都市型コミュニティ」(独立した個人と個人のつながり、異質性、外向き)との補完関係をいかにつくっていけるかが大事になってくると論じています。

「何にもしない合宿」はそのひとつの現われではないかなと思います。「情緒的つながり」と「独立した個人と個人のつながり」の絶妙なバランスをとることで、心地よい日常のつながりを生み出しているようにみえました。


▶正統的周辺参加

担い手不足は人材不足ではなく、つながり不足」だと小田さんがいっておりましたが、つながりをつくれば担い手が増えるわけでもないよなぁと思います。どうつながるか・つなげるかが大事ではないか、と思うのです。

いろいろな地域で “人と人がつながる場づくり” とか “交流を大事にしている” という話は聞くのですが、10年経ってもやってるメンバーが変わっていなかったりします。世代交代できる若い世代がいない、じゃなくて、なぜ仲間が増えないのか、を考えた方がいいかもしれないなと思います。

「何にもしない合宿」では、小学生だった子たちが卒業しても関わり続けていて、自分なりに役割をみつけて、自然と大人に近い動き方ができるようになっていく様子がみられました。これってなんなんでしょう。

説明できそうな考え方としては「正統的周辺参加」が思い浮かびました。「正統的周辺参加」とは、“初心者だったのに、いつの間にか教える側の立場になっていた” みたいな状況をあらわします。

師弟関係に近いですね。そこには師匠・年長者・先輩へのあこがれがあり、だんだんと立ち振る舞いやスキルを身につけていって、中心的な役割を担うようになっていきます。

「何にもしない合宿」の場合は好奇心も求心力になっているかもしれません。

師匠にあこがれ、師匠のようになろうと「周辺」の軽い仕事から参加し、次第に「中心」の重要な仕事を任されるという形ではなく、好奇心がだんだんと目覚め、仕事のプロセス自体を面白がるようになり、ともに表現し、作品をつくりだすためにコラボレーションする「好奇心誘発参加」という形ができる。こうして、相互の関係が対等でありながら、創造に真剣に向かう場がジェネレートする。

市川力・井庭崇 編著(2022) 『ジェネレーター 学びと活動の生成』p.181

地域づくりの担い手が育つ過程には、あこがれや好奇心以外にも、地域への愛着や感謝、貢献意識などが影響しているのではないかなと思います。このあたり、個人的に研究を深めていきたいところです。


▶寄せ鍋理論

誰か気になる人と話したいな~と思うときって、だいたい何かと理由をつけて「ご飯いきましょう」と誘いますよね(笑) それを「寄せ鍋理論」とよぶそうです。

私が冗談で「寄せ鍋理論」と名付けている理論がある。たとえば、ひとりの友人に、いまから私と話をしましょう、そのための時間をください、と言ったら、不安になって警戒されるだろう。でも、いまからおいしい鍋を食べませんか、といえば、ああいいですね、行きましょう、ということになるだろう。

人と話をしたいなと思ったら、話をしましょうとお願いせずに、何か別のことを誘ったほうがよいのだ。考えてみれば奇妙なことである。けっきょく何が目的で鍋を囲むかというと、お互い話をするためである。だったら話だけすればよいではないか。

しかし、人は、お互いの存在をむき出しにすることが、ほんとうに苦手だ。私たちは、相手の目を見たくないし、自分の目も見られたくない。
私たちは、お互いの目を見ずにすますために、私たちの間に小さな鍋を置いて、そこを見るのである。鍋が間にあるから、私たちは鍋がだけを見ていればよく、お互いの目を見ずにすんでいる。鍋がなかったら、お互いに目を見るしかなくなってしまうだろう。私たちはお互いの目を見てしまうと、もう喋ることができなくなって、沈黙するしかない。そして怯えや緊張は、沈黙から生まれるのだ。

岸政彦(2015)『断片的なものの社会学』pp.49-50

「何にもしない合宿」は寄せ鍋だな~と思いました。“いまから体育館で遊びませんか、といえば、ああいいですね、行きましょう” になるでしょう。

さらに、子どもたちとの遊びもまた、“小さな鍋” になることもあるそうで、若者同士“お互いの存在をむき出しにすること” なく出会う場にもなっているのではないか、と考えることもできます。

目的をずらすのは、最近の地域づくりでよくみかけるような気がします。“地域のため” を前面にださずに、楽しさや面白さで人が集まるようにする。そして、その副産物が地域づくりの種となり育っていくような関係や場や仕組みをつくっていくことが大切なのかもしれません。



まとめ

何にもなくても
特別なことは何にもしなくても
人と人がつながれば何かが生まれる

「何にもしない合宿」には、さまざまな場づくり・地域づくりに応用できるエッセンスがたくさんつまっていました。

個のしあわせ × 日常のつながり = 地域づくりの土台

心地よい人間関係や次世代につなぎたい風景が日常にあること
それが地域づくりの土台であり本質なんだなぁと感じています。

私もこれからどこで何をして生きていくのか未知数ですが、「何にもしない合宿」のような、日常のつながりが生まれる場を、地域の風景を、育てていく一員になりたいと強く思ったのでした。


参考

「何にもしない合宿」の見学は常にOKだそうです。寝袋の貸出も可。次回は9月9-10日、その次は10月14-15日。11月以降も月1で開催予定。気になる方は「裾野市東地区おやじの会」Facebookページをチェックしてみてください!


最後までお読みいただきありがとうございました!新しい里づくり研究室では、都会と田舎、山と海、自然と人間のあいだにある「里」に光をあてた研究や実践を紹介しています。記事の感想、里づくりのお悩み、気になるテーマなど、お気軽にコメントお待ちしております😊


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