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『忘れもの』 【第12話】 「こころ」

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「だからあんたらメガバンクは信用ならんとよ!」
 岡崎勤が顔を真っ赤にしながら応接テーブルを叩いた。
「なんでもかんでも金利で解決できると思っとるとか?証書融資の金利下げてやるから、この岡崎産業の代わりを出せとはどういことや?わしをバカにしとるとか!」
 岡崎の怒りは益々大きくなった。
「社長、そういうつもりで申し上げたわけではありません!ただただ、岡崎産業様とのお取引を……」
 葉山ヒカルがはじようとした弁明を岡崎勤が遮った。
「結局、あんたらメガバンクにとって客はコマの一つなんよ。貸金の残高が減りゃ、別の客を見つけりゃいいって考えなんでしょうが!恩義とか御縁とか、義理とか人情とか、そういう心の付き合いはあんたらにはできんのよ。それもこれも、あんたらが自分たちの利益のことしか考えてないけんや!」
 岡崎の顔は、赤を通り越して赤黒く変わっている。
 怒りと興奮で、まるで秋田の“なまはげ”を彷彿とさせるような顔になっている。
 その威圧感たるや、許されるなら今すぐその場から逃げ出したいほどだ。
「うちが使えんと思うたら、すぐに別のところに乗り換える。それも薄っぺらな土産話を持ってきて、うちに紹介しろと迫るなんぞ、いったい何様なんや!」
「しかも、毎度毎度、金利の話を持ってくれば何とかなると思っとる姿勢も気に入らんとよ!あんたらには人間の心がわかっとらん!人情の欠片もないとよ」
 一気にまくし立てた岡崎が、少し冷静になろうとしているのか、湯呑を口に運んだ。
 ずるずるっというお茶をすする音が、緊迫して張り詰めた社長室の空気の波をかき乱すように間抜けに聞えた。

「葉山さん、あんたが悪いわけじゃないことはよくわかっとる。でもな、会社同士の関係は、すなわち人間同士の関係と一緒なんじゃないかとわしは思っとる。会社を生かすも殺すも、そこで働く人間の生き方、働き方次第なんじゃないやろか」
 岡崎勤は葉山ヒカルをまっすぐ見つめる。
 葉山ヒカルはその視線をそらすように下を向いた。
「葉山さん、あんた、いつまでこんな商売続けるつもりや?」
 岡崎勤の口調はゆっくりと諭すようなトーンに変わった。
「葉山さん、どんだけ大きな会社いうても、社会から見放されたら一瞬で終わるとよ。どんだけ過去の栄光があったとしても、進むべき道を間違ったら社会は、人は、ついてこんとよ」
 葉山ヒカルは下を向いたまま、小さく「はい」と応えるのが精一杯だった。
「世の中は、お互い持ちつ持たれつのバランスで保たれとるとわしは思っとる。社会全体のバランスの中で利益を得るところもあれば、倒産するところもあるんやと思う。つまりな、社会のニーズに対応できるところは繁栄し、そうでないところは淘汰されるわけや。だからこそ、わしらは一生懸命、社会のニーズに応えるサービスを生み出すためにがむしゃらに働くんや。わしの言うてること間違っとるやろか?」
 岡崎勤の表情は少し柔らかくなった。
「ただしや。その社会における自然のルールとは違う淘汰が起こることがある。それが、私利私欲やエゴが生み出すアンバランスな関係や。一時的な利益は得ても、必ず社会から突き放される。自分勝手な商売は、必ず顧客から見放される。わしはそう思っとるとよ」
 鋭い視線が再び葉山ヒカルに向けられた。
「あんたはまだ若い。そして頭も良い。根性もある。そんなことは、二、三回話せばすぐにわかる。この辺で一度、自分の生き方から見直してみたらどげんね?」
 岡崎勤が深く腰掛けた姿勢から身を起こした。
「あんたの人生はあんたのものなんやで!葉山さん、あんた誰のために働いとるとや?自分自身に嘘ついて生きたらもったいなかよ。自分の人生なんやで!自分で舵をきって進んでいかんと、いつか後悔することになるとよ」
 心の中の秘めていた部分まで見透かされているようだと葉山ヒカルは思いながら、遠くなりそうな意識を必死で押さえながら、岡崎の言葉に耳を傾けていた。
 何もかも、岡崎の言う通りだった。
 誰のことも信じることができないと思ってこれまで生きてきたが、実は、自分自身のことを最も信じていなかったのかもしれない。
 それがゆえに、虚勢の鎧をまとい、他人の評価ばかりを気にして、その評価だけを信じて生きてきたのかもしれない。
 そしてそこに「自分」は不在だった。

 これまで虚像と虚勢で支えてきた葉山ヒカル自身のバランスが大きく崩れはじめた。
 呼吸が薄くなり、動悸が激しくなった。
 息が止まってしまうのでないかという恐怖が葉山ヒカルを襲う。
「しゃ、社長……。すみません……。お水を、お水を一杯いただけませんでしょうか……」
 顔面から血の気の引いた表情に、尋常でない勢いで汗が額に吹き出ていた。
 岡崎は慌てた。
 これまでうなだれているものとばかり思っていた葉山の様子が明らかにおかしい。
「葉山さん、大丈夫か!どうしたと?苦しいとか?水な!ちょっと待っとってや」
 岡崎はすぐ秘書を呼んで水を用意させた。
 葉山ヒカルは、冷たく硬直しそうな指を必死で動かし、鞄からニトログリセリンを出して舌の裏に入れ、水を口に含んだ。
 そして、じっと耐えた。
 全身から体温が逃げていくのがわかる。
 意識が遠のきそうになるのを必死で押さえるのがやっとだった。
 岡崎と秘書の女性が何か言葉をかけてくるが、遠くの方でつぶやいているようにしか聞こえず、何を言っているかわからない。
 
 目を開けると埋込式の空調機が収まっている天井が見えた。
 視界の左側に、心配そうに覗き込む岡崎勤と秘書の女性の顔があった。
「申し訳ありません……」
 葉山ヒカルがやっとの思いで口にできた言葉は謝罪だった。
 身体を起こそうとすると、岡崎が制止した。
「無理したらいかん。あんた、心臓が悪いとね?」
 少しの沈黙を置いて葉山が岡崎に訊いた。
「どのくらい横にならせていただいたのでしょうか……」
「1時間くらいじゃなかとかね。随分苦しそうやったとよ。ニトログリセリンば飲んどらしたけん、心臓に持病をお持ちなんかと心配しとったとよ。いつでも救急車ば呼べる準備はしとるけど、具体はどげんね?」
 1時間……。ニトログリセリンは効かなかったのだと葉山ヒカルは理解した。
 そして、自分の身に起きていることは、自分の肉体にではなく、心に起きていることなんだと、葉山ヒカルは悟った。

 呼吸が少し楽にできるようになったところで、身体を起こした。
「社長、このような姿をお見せして申し訳ありませんでした。それより、私の至らなさで当行の信頼を失いましたこと、お詫びいたします。融資の件については、もう一度、支店に戻って川辺とも相談させていただけませんでしょうか。どうか、もう一度、チャンスをいただけませんでしょうか……」
 声はとぎれとぎれだったが、何とかしゃべることができた。
 腕組みをした岡崎が眉間にシワを寄せて黙っている。
 葉山ヒカルはまだ肩で息をしているが、額の汗はひき、意識もはっきりしてきた。
 岡崎がため息をひとつして話し始めた。
「葉山さん、融資の件は、あんたの期待にはそえんかもしれん。でも、今日のところは結論にはせんけん、少し体調ば整えてからまたいらっしゃい」
「社長、ありがとうございます。本当にご迷惑ばかりかけて申し訳ありません」
 葉山ヒカルは深々と頭を下げた。
「それよりあんた、身体を大切にせんといけんよ。さっきも言うたけど、あんたを守れるのはあんたしかおらんのやけんね」
 社長室を後にしようとする葉山ヒカルの背中を、岡崎が擦りながら言った。

 支店に戻った葉山ヒカルは、岡崎との交渉の顛末を川辺と飯塚に報告した。
 体調を崩したことはひとまず伏せた。
「ふんっ。あの社長、調子のいいことばかりいいやがって。何が商売の心得だ。今までもそうやって金利を下げさせてきたんじゃねーか」
 支店長の川辺は貧乏ゆすりをしながらみるみる表情が曇っていった。
「それで葉山はどうするんだ?まさか、このまま引き下がるとでも言うんじゃねーだろな?」
 川辺の独特な威圧感が伝わってくる。
「支店長、岡崎社長は小手先の駆け引きをしてかなう相手じゃないと思います。お互いがパートナーとしての信頼関係を一から築くように、やり直していくべきじゃないかと……」
 葉山ヒカルの声には力はなかった。
 自分でも驚くほど声が出ないことを感じた。
 一生懸命に絞り出しているが、力がうまく入っていかない。
 自らの心身がこれまでとは違っていることを感じながらも言葉が続かない。
「おい、葉山。お前、どっちの会社の人間なんだ?え?うちの支店の数字が大幅に落ち込むことになってもいいっていうのか?」
 何か言おうとする葉山の口の動きを制止するように川辺が続けた。
「なに格好つけたこと言っちゃってんだ、お前!それでもかがやきの渉外係長か!まったく、これだから都会の坊っちゃんは使えないんだよ!」
 川辺は小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべながらも、ドスの効いた口調で攻めたてた。
「お前が言い出したことだろ?おい、葉山よ、いいところ見せてくれよ。な!お前が優秀な行員だって評判だったからわざわざ引っ張ってやったんだ。俺の顔潰さんでくれよ」
 表情の一切変化しない川辺の口から並べるように出てくる言葉には、信頼を置ける要素はどこにも感じられなかった。

 葉山ヒカルは八方塞がりになった自分を、少し遠くから眺めているような気持ちになった。
 目の前にいる自分自身は、叱責する川辺の前でうなだれ、身体も一回り小さくなったように見えた。
 萎縮し、恐怖で怯えている様子が伝わってくる。
 他人事のように自分を客観視している間も、心がどんどん疲弊していくのがわかった。
 自分の心を守ろうと、見えないバリアを必死に張り続けている。
 きっとこうして幽体離脱のような感覚になっているのも、自分の心を守る術なのかもしれないと葉山ヒカルは考えていた。

 そして、倒れた……。

 救急車に揺られているのがわかったが、目を閉じた。
 もう、なるようになれと思うしかなかった。
 きっと、支店では大騒ぎになっているだろうと思ったが、今更どうしようもないと葉山ヒカルは思いながら、救急車が路面を跳ねるのを全身で感じていた。

 折尾記念病院の1階にある救急患者用処置室では、心拍を図る機械の音が規則正しく信号音を発している。
 点滴も一定のリズムで上から下に雫を落とし続けている。
 時間は確実に進んでいるが、葉山ヒカルの心は完全に停止していた。
 一通りの検査が終わったようで、看護師たちが処置室の片付けを手際よくやっている。
 ひとりの医師が葉山ヒカルのベッドまで近づいてきた。
「葉山さん、少しお話よろしいですか」
 昨晩の長髪の若い医師とは違い、物腰の柔らかな紳士的な中年の男性だった。
「はい。よろしくお願いします」
 葉山ヒカルの返事に、その男性医師はにっこりと微笑みを返してきた。
「葉山さん、昨晩もこちらに運ばれていらっしゃったようですね。ニトログリセリンを処方させていただいた記録も確認しました。今日も一通りの検査を行いましたが、お身体には特段の異常は認められません。心臓の機能も正常です。十中八九、心筋梗塞でも狭心症でもありません。おそらく、心労がたたっておられるのではないでしょうか?」
 医師はゆっくりとした口調で、葉山ヒカルの顔を見ながら丁寧に説明した。
「そうですか……。実は、昼間もお客様先で苦しくなってニトログリセリンを口に含んだんですが、すぐには効かなかったので、もしかすると……、とは思ってはいました。先生、私はメンタル疾患の可能性があるということなのでしょうか……」
 葉山ヒカルは全てを受け止めようと思い、医師をまっすぐ見て訊いた。
「私はその領域の専門医ではありませんのではっきりとはわかりませんが、一度、専門機関を受診なさることをお勧めします。よろしければ、簡単な紹介状を書くことはやぶさかではありませんが、どうなさいますか?」
 葉山ヒカルは一瞬戸惑った。
 しかし、今は自分の心身がどういう状態になっているのか知りたいと思った。
 知ることでその先に待ち受ける未来がどうなるのか全く想像はできないが、今は知らなければならいような気がした。
「先生、紹介状、よろしくお願いします」
 葉山ヒカルは丁寧に頭を下げた。
「わかりました。葉山さん、今は身体を一番に考えて、労ってあげてくださいね」
 医師の言葉は少なかったが、その言葉に込められた意味を、葉山ヒカルは痛いほど感じることができた。

 折尾に来てもうすぐ1ヶ月になろうとしている。
 週末の土曜日には引っ越しを控えていた。
 葉山ヒカルは金曜日に有給休暇をとることを川辺に申し出た。
 昨日の救急車騒ぎもあってか、腫れ物にでも触るかのような表情で川辺は有給休暇の取得を認めた。
 どことなく、葉山を見る周囲の目も、支店長の川辺と同じく、触れてはならないものを見るような目に変わっていることを、葉山ヒカルは感じた。

 水曜日の晩、妻の沙也加に電話をかけた。
「金曜日に有休とれたから、木曜日の最終便で横浜に帰るよ。引っ越しの準備、いろいろすまなかった。助かったよ」
 これまで自分や家族のことで有給休暇などとったことのないヒカルからの電話に沙也加は驚いた。
「何かあったの?有休なんて珍しいじゃない」
「いや、支店長がいい人でさ、有休とれって言ってくれるもんだから……」
 嘘をついた。
 とっさに、ありもしない、思いもしない嘘が口をついて出た。
 折尾支店での一ヶ月、自分の身に起きていることを沙也加に話すことはできなかった。
 このまま嘘を突き通せればいいのにとさえ、葉山ヒカルは思った。
 心配をかけたくない気持ちと、妻にさえ自分の心の鎧を脱いで見せることのできないどうしようもない気持ちとが入り混じっていた。
「そしたら、せっかくだから八王子の実家にも挨拶に行きましょうよ。転勤が決まってからろくに連絡もしてないでしょ?たまにはお義父さんに顔見せてあげたら?」
 何気ない沙也加の提案だった。
 しかしそれは、葉山ヒカルの心を揺らした。

 これまで実家にはできるだけ近づかないようにしてきた。
 いや、近づきたくもなかったと言ったほうが正しいのかもしれない。
 家族の冷たい思い出しか蘇ってこない八王子の実家での暮らしは、葉山ヒカルにとって蓋をしておきたい黒歴史そのものだった。
 母の温もりも知らず、家族の団らんも知らない。
 自分の居場所は近所にあった森だけだった。
 アシナガの森と呼ばれるその森に入って一人で遊んだ記憶だけが、唯一、今でも葉山ヒカルの心に残っている。
 そんな幼少期を過ごしたことが、自分の人格形成に大きな影を落としていると思っているし、誰も信用することができないこの性格も、そういう家庭環境が成したことだと思っている。
 家族という最小単位でただ共同生活をしているのだと、気持ちに折り合いをつけたのは、中学生になった頃からだったと思う。
 思春期特有の反抗期も重なり、父親とも祖母とも距離を置き、自分の部屋に閉じこもる時間ばかりが増えた。
 どうすることもできない複雑な気持ちを、何にもぶつけることもできず、ひたすら自分自身で叩き潰した。
 こうしたいという願望や、あれが欲しいこれが欲しいという欲望さえ、自分自身で殺してきた。
 そうやって、自分自身の亡骸を、自分の心の中に埋没させてきたのだと思う。
 
「行ってみるか……」
 沙也加との電話を切った後、葉山ヒカルはつぶやいた。

 自分自身の原点と向き合う時がやってきたのかもしれない。
 そして、これまで蓋をして生きてきた自分に目を向け、心に閉じ込めてきた自分自身の亡骸を、自分の力で弔ってやらなくてはならない。
 母の背中を見送ったあの場所にも、無言で囲む食卓が嫌だったあの家にも、アシナガの森にある切り株にも、その時の、そのままの自分がきっとまだ残っている。
 あの時のあの場所から一歩も前に進めずにもがき苦しんでいる自分を、自分自身で迎えに行かなければ、本当の人生は動き出さないような気がする。
 岡崎に言われた「あんたを守れるのは、あんたしかおらん」という言葉が蘇ってくる。

「自分しか守れない……、か……」

 横たわったホテルのベッドは、今日も綺麗にメイキングされていた。
 ドライクリーニングの臭いがかすかに残るシーツは、汚れを弾くためなのかツルツルと滑る。
 筋肉の一時的な硬直が原因で痛む身体にとってはありがたかった。

 ベッドの上で、何度か寝返りを打ってみた。

 薄暗い部屋の天井に、小さな蜘蛛が這っているのが見えた。
 
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<まとめ>
 第1話から第11話まではこちらのリンクからご覧いただけます。
 どうぞ、お楽しみください!


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