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川柳試論-暮田真名を読む【柳論】

……人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。かえって経験そのものは反対のことを教えるように見える。というのは、人間はほとんど同一人であると言えぬほどの大きな変化を受けることがしばしば起こるからである。

スピノザ『エチカ』第四部定理三十九備考

句集『ふりょの星』刊行を記念して

印鑑の自壊 眠れば十二月

暮田真名『補遺』

 暮田真名の第一句集『補遺』(私家版)の最初のページにあるこの句に翻弄されながら、連想の限りを尽くす一句評。第一句集の最初の句、この特別な句に評を捧げよう。
 にしては長く、もはや一句評というのは仮面でしかなく、おそらく別の顔がある。暮田真名論か、あるいは一般の川柳に通ずる柳論か。果てしない注釈か。何はともあれ、川柳を愛するものとして、また応答する側も奇行に及びたい。-川柳はなぜ奇行に及ぶのか?

 大まかにいえば、この試論は表現と定型についての議論にわかれるはずである。しかし、私が把握しきれないほどにこれら二つは入り混じっているのだろう。夢と眠りと、両者の共犯関係のようなものである。

隠喩に関する短いイントロダクション

 まずは表現について。表現を考える上でまず何よりも大事なことは隠喩についてだろう。隠喩に関する短いイントロダクションから。

 語が二つ並ぶとき、仮にそこに繋辞があると認めてみる。繫辞とは、「AはBである」という表現が一例である。
 実際、繋辞という文法的機能は、並列に代補されうる。日本語においての「AはBである」は、英語で「A is B」などと表される。フランス語においてもほとんど同じように、êtreというbe動詞にあたるものがあり、これを活用して繫辞をつくることができる。
 では、他の言語ではどうか。等価関係を表現するこの文法的機能、繋辞は、例えばロシア語においてはABという並列表記に翻訳される。例えば、он лиса、he is a fox、彼は狐である。
 英語における同格のコンマは似た機能を有しているし、日本語においても、先の「文法的機能、繋辞」に見てとれる。すなわち、等価関係を表現するこの文法的機能である繋辞、という具合に。
 さて、隠喩についてだが、教科書らしく言えば隠喩は、直喩に対して「のような」を削った形で、たとえば「彼は狐のような人である」に対する「彼は狐である」というような形で一般に見受けられる表現の一つである。加えて、多くの例で繋辞が関係している。 

 ところで、隠喩とはそれ自体、肯定と否定を含んでいる。どういうことか。
 例に出した、彼は狐である、という隠喩から考えることにする。まずこの言述が言わんとすることは、彼は狡猾な人であるとか、彼はずる賢い人であるとか、そういった類のことである。具体的な意味はコンテクスト−このコンテクストも問題の多い概念のひとつであるが、あまり立ち入らずにするとして、言い換えれば文脈−によって決定される。ある場合、「彼はずる賢い人である」と言っても通じるところを、わざわざ狐と言ってみせるところが、修辞的であり、こう言ってよければ豊かな表現ということになる。

 では、彼は狐なのだろうか?
 もちろん――もちろん、と付け加えたくなるほどあからさまに――彼は狐でない。

詩人(ボードレール)がこう歌うとき、「自然は神の宮であり、そこでは生きた柱が……」、動詞〈である〉は、今しがた述べたような三重の緊張にしたがって、主語の〈自然〉を述語の〈神の宮〉に結びつけるだけに終わらない。繫辞は関係的なだけではない。繫辞はさらに、述語的関係によって、有るものが再記述されることを含意する。繫辞は、有るものはまさにそのようである、ということを言う。

ポール・リクール『生きた隠喩』久米博訳p326−327

この緊張について見事な分析を展開したのはリクールであった。大抵、肯定のなかに否定が隠れて﹅﹅﹅、そしてあからさま﹅﹅﹅﹅﹅に潜んでいる。
 隠喩とはそれ自体、肯定と否定を含んでいる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

言述の文彩である隠喩は、同一と差異の間の﹅﹅葛藤を用いて、同一の中に﹅﹅差異を融合させることにより意味論的領域を隠れた﹅﹅﹅﹅仕方でうみだす過程を、明らさま﹅﹅﹅﹅﹅に提示する。(p249-250)

 隠喩はまさに隠れているにも関わらず、ただちに字義通りの解釈の困難さに直面させることで、いわばあからさまに提示するのである。この〈ようである〉という過程が生まれる秘密が、暗に/あからさまが現れる。リクールは執拗に隠喩は辞書にはない、と書物のなかで繰り返す。その意味で、隠喩は出来事なのだ。

壊喩

 ともかく、これはメタファー論ではなく、柳論である。ここまでで私の意識の片隅の置かれていたのは、柳本々々の「でも川柳だと信じている」という短いエッセイである(この紙面の多くが『補遺』に割かれ、また書影すら登場している。)

似ている/似ていないの隠喩(メタファー)でもなく、部分/全体の換喩(メトニミー)でもなく、壊喩(つなぎつつ離れながら・こわし、こわしながら・つなぎつつ離れる)、とでもいったようなもの。(p104)
川柳は認知にかかわっている。ただその認知はあらかじめ間違っていて、こわれてもいる。(p107)

柳本々々「でも川柳だと信じてる」『現代詩手帖2021年10月』

 川合大祐の句集『リバー・ワールド』に寄せられた千葉雅也の帯文に導かれながら、柳本は「とでもいったようなもの」と控えめに壊喩なる語を提示する。柳本にとって川柳とは、「認知の文芸」であって「ふだん絶対にくっつかないようなAをBとして認知してゆくこと(p103)」だという。このAとBの距離について、隠喩とも換喩とも異なる壊喩なる働きを見出している。「AはBである、といいつつも、そのAをBに、BをAに同化させることなく(p104)」、出来事をそのままにしておくこと。

 だが、どうだろう。隠喩ではないと言い張る壊喩、この語は適切だろうか。ある繫辞的言述が否定をも暗に/あからさまに含んでいること、このことが、その修辞に新しい名である壊喩を与えることを簡単には許してくれないのではないか。壊喩という名づけの承認について、われわれは簡単に首を縦に振ることはできないだろう。壊喩もまた隠喩の下位語ではないか。以上が隠喩に関する短いイントロダクションである。

 さしあたりの議論をもとに句を読み返す。

印鑑の自壊 眠れば十二月

 さて、ある語、とは言わずに、あえてある出来事と言おう。
 ある出来事が並べられているとき、やはり繫辞の代補的機能が蘇ってくる。印鑑の自壊と、眠れば十二月とが、言い換えれば二つの出来事が、肯定形で繋がり示され(印鑑の自壊=眠れば十二月)、同時に否定形で暗に、あからさまに示され(印鑑の自壊≠眠れば十二月)、そして印鑑の自壊(は)眠れば十二月(のようである)という隠喩的契機が生じる。
 そうしてわれわれははじめて、この短い詩に細かな解釈を施すための準備体操を終える。

a break, have a break.

 小休憩として、余談として、この句に寄り添おう、もう少し近くに行こう。 
 印鑑、われわれが署名するための印鑑、われわれが生まれたときに与えられた名前が刻まれた印鑑、われわれがわれわれであることを手続き上証明するための印鑑、の自壊、自ら壊れていくさま、いかなる外的危機にさらされるわけでもなく内的危機によって壊れていくこと。印鑑の同性は、私の名がまさに私のものであることを言っている。私の名とは、署名するためにあり、手続きのためにあり、与えられたものであり、自己同定するためのものであって、それがまさに私のものであるという確信のことであり……、その自壊だという。眠れば―自壊のイメージに引っ張られて、眠ることはそれ自体自壊のような気がしてくる。十二月、一年のこと、転じて一生のこと、というか一生の終わりのこと。暮れのこと。人生の暮れのこと。私、が不可避的に壊れていくこと、――不可避的に壊れた≒眠ったあとで――、生涯が終わること、が結ばれている。印鑑、自壊、眠れ、十二月、それがそれぞれに響きあい、われわれに解釈の余地を与える、隠喩はこの短い詩の全体を一つの単位としてもいるのだ。

千葉雅也「それでも一個の出来事になるのだ。」

 ところで﹅﹅﹅﹅、しかし、と言いたい。
 とは言っても川柳が提示する出来事の距離はやはり遠い、その素朴な感想は拭えない。柳本が壊喩と名付けてしまいたくなるに至った、あえて言えば素朴とも思える経緯は何だったのだろうか?この試論の目的は、何も壊喩なる語に異議申し立てをするためではない。印鑑の自壊 眠れば十二月、を読むこと、これである。川柳の飛躍力への驚き、この素朴さから再び出航したい。
 壊喩という言い方に着目してみる。というよりも「壊」という語の選択に(なお、またこれも“印鑑の自壊”に導かれたにすぎない)。壊れているほどの喩え。壊れているといいたくなるほど遠くへ飛ぶ川柳。一体何故か。なぜ壊れていると思うのか。おそらく、いくつもの角度からその理由を指摘することが可能だろう。だが先を急ぐ。短いイントロダクションを目印にして旋回する。
 まず軽いジャブ打ち。Q.なぜ壊れていると思うのか。A.否定が強調されているから。要するに、否定形の繋がり(印鑑の自壊≠眠れば十二月)が前面に出てきて、隠喩的契機(ようである、という効果)の手前で躓いているのである。この否定の力、これが川柳の大きな特徴の一つのように思える。
 ところで﹅﹅﹅﹅ジャブ打ち、あるいはまた余談。私はこの川柳を七七として読んでいる。音数は、印鑑の/自壊眠れば/十二月と五七五の定型となっているが、字余りの七七として読む権利を、挿入されたスペースが与えてくれる。印鑑の自壊/眠れば十二月、と素直に区切って八と九、二つの要素をぶつけようとする、七七句に見られる一つの典型的な手法として読んでいるのだ。そもそも、この句に潜む隠喩の指摘は、この七七らしさ導かれている。私はどこまでも暮田の、この句の近くにいる。
 きっとあなたも。
 ほとんど誰もが、この二つの要素の取り合わせに対峙したら、まずは二要素の距離について考えるだろう。似ているのか、似ていないのか。繋がりは何か。
 私も同じく。きっとあなたも﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。そうだとすれば、今まで辿ってきた航路に立つ白波は、同じ軌跡を描いている。さて、もちろん、以下のような指摘もありうる。すなわち、もはや隠喩のイントロダクションを必要としないほどにその力は大きいのではないか、と。出来事同士をぶつけたときに働く否定は、むしろそのままの形でやってきているとも言えるだろう、と。そうとも言える。それが川合の『リバー・ワールド』に寄せられた千葉雅也の帯文に、あくまで素朴に言えばだが、近い。近いというか、この帯文が柳本に壊喩なる語を提出させるに至らせたものである。

ここで歌われているのは距離だ、と僕は思う。
異質なものを距離を超えてつなげるのではなく、距離そのものを結晶にし、つながらないものたちがそれでも一個の出来事になるのだ。

千葉雅也、川合大祐『リバー・ワールド』の帯文より

 なるほど、距離。距離そのものを結晶にするのであれば、壊喩という語を練り直さなければいけない。これ以上、隠喩に関する短いイントロダクションを使っていては、いくらか獲物を逃してしまうだろう。われわれは、異質なものの距離がそのままになっていることを見なければいけない。句の中に閉じ込められた(実際、川柳の空間は狭くできている)ものたちの遠さが、なぜそのままであると感じることが可能なのだろうか。われわれが何か言述を企てるそのたびごとに、肯定は否定を、否定は肯定を解釈の場に提示する。しかし、絶対的な否定をすることができないのだろうか。転じて肯定とならない否定を。「距離そのものを結晶にし、つながらないものたちがそれでも一個の出来事になる」ことは如何に可能か、あるいは如何にその行為に近づくのか。

いかなる言述も出来事として生じるが意味として理解される。

ポール・リクール『生きた隠喩』久米博訳p 156

 言述も出来事として生じるとは、言述が“その都度”であり、一過性であるということ。意味として理解されるとは、言述という行為の主体には言わんとすることがあり、出来事として過ぎ去っていく言わんとすることの意味作用が、また出来事として反復されうるということである。言述の受け手はそれ自体が自律するものとして、いわば解釈の場になげられた意味として理解できる。上の引用はこのことを言っている。もとより、リクールは解釈学の大家であり、この隠喩の意味論は、解釈学の補論とも読めるだろう。リクールにして、(隠喩的)言述は出来事でありつつ、新しい意味を現出させるのだ。ただし、として﹅﹅﹅で結ばれた言述は、なお意味でもあるのだ。出来事性の強調がいかにしてなされるのか。
 一旦、解釈から距離を取らなければ……。

否定、否認、別人

印鑑の自壊 眠れば十二月

 私がこれから控えめに展開しようとしているものは、暮田の「川柳は人の話を聞かない」(文學界2021年5月号)、「あなたが誰でもかまわない川柳入門」(ゆにここカルチャースクール主催の講座)が念頭に置かれている。短詩、特に短歌の現場で頻繁に用いられる語を使えば、私性に関わる。ともかく、壊れることについて、これにこだわる。

過去の痕跡が爆破され、私は別人になる。
ストレスとダメージの時代に、徹底的に変身するとはどういうことか?
フランス現代思想の根本テーマ「差異」「他者」をいちど爆破し、そして新たに造形する衝撃の書だ。

千葉雅也、カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者』の帯文より

 私は別人になる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。柳本に倣い、千葉雅也の帯文に導かれることにしよう。二つの帯文に注釈をつけるように。まずはこの『新たなる傷つきし者』とともに川面を行くのだが、その際に『偶発事の存在論』という上等なオールを使うべきだろう。

「ノー」を言うことは可能だろうか。決して「イエス」へと覆ることのない、きっぱりとした「ノー」を言うこと。

カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』鈴木訳p137

 マラブーのこの書物の最後の章は、このような印象的な文から始まる。ここで念頭におかれているのはフロイトの短かな「否認」というテクストである。
 「否認は、否定的可能態を指し示すのに最も適した言葉だろうか。(p142)」。邦題では単に「否定」と訳されることが多いがしかし、肯定の対義語としての否定と、そうでないような意味を含んだ否定とを明確にわけるために否認としよう。

「あなたはこの夢に出てきたこの人は誰なのかとお尋ねですね。私の母ではありませんよ﹅﹅﹅﹅﹅﹅」。私たちは[この発言を]次のように訂正する、だからそれは母なのだ、と。私たちは、解釈する際、否認(注ササキリ、ここはタイトルに合わせてverneinungが否定と訳されている)は度外視して、思い付きの中身だけは取り出す。それはちょうど、次のように患者が言ったに等しい、「確かに私はこの人物が母ではないかと思い付いたが、この思い付きの通りだと考えたくない」と。

フロイト「否定」石田雄一訳.『フロイト全集19』p3
強調ササキリ、verneinungは否定と訳されているが否認とした

 「否認」で説明される例はこうである。精神分析家が、夢を分析するにあたって、患者の夢に出てきた話を聞くと、患者は自ら「でもそれは決して私の母親ではないのです」という。むしろそのことが、それが「母親」であったことを決定付ける。要するに、精神的な外傷を負わせるに至った原因が母親にありそうだということを判断できる。否定すること。無意識にも否定すること。患者の積極的な否定は、否認として受け取ることができる。
 否定をすることでむしろ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、それが母親であったことを肯定する﹅﹅﹅﹅のである。

証拠が証拠としての力を失い、私たちはここで、いかなる真実や現実を突きつけても屈することのない抵抗の壁に出会うことになる。(マラブー『偶発事の存在論』p146)

 確たる証拠(例えば母親からの虐待があったことが、複数の証言によって明らかになったなど)があったとして、それを当人につきつけたとしても、当人が違うと言えば違うのだ。判断は永遠に留保され続けることになる。精神分析は、この留保の態度をとる。留保、また別の可能性がありうるかもしれないと信じ続けること。

まったく別の出自に対する執拗で揺らぐことのない信仰は、未来をもたらすものの一切に対する約束や信念や象徴的構成を拒絶する破壊的可塑性のもとでの可能態とは異なる。約束の構造は解体不能であるというのは、真実ではない。(マラブー『偶発事の存在論』p163)

 まったく別の出自とは、「AはBである」なる肯定形において提示される「AはBでない」という解釈の、その可能態のことである。マラブーはこれを揺らぐことのない信仰と呼び、メシア的であるとさえ言う。だが、絶対的な「ノー」について考えたいのだ。

フロイトにおいて、セクシュアリテ(「経験的」と「超越諭的」の二つの意味といってもよい)が登場するのは、外因性と内因性が遭遇し、結合される特権的場としてなのである。正確を期すなら、これは事故と意味が出会い、結びつけられる場である。リクールが正しく指摘しているように、精神分析的言説の固有性は、各出来事において「エネルギー」と「解釈」とが交叉する場を、そして各出来事における「非-意味」と「意味」との連結の場を明らかにするところにある。

マラブー『新たなる傷つきし者』平野訳p26

 事故とは出来事のひとつである。とりわけ、外傷を被るような出来事について事故と言っている。交通事故や建設現場での事故、くも膜下出血等の物理的な損傷のみならず、戦争からの帰還兵のPTSDや、児童虐待による精神の崩壊、あるいは認知症のような神経症の類もまた含まれている(実際、これらの症例は似通っている)。そしてリクールが『解釈学試論:フロイトを読む』という書物で、まさに解釈学の試論をフロイト読解に捧げたのは、精神分析が出来事の解釈を扱っていたからではないだろうか。(自己言及、私がこのような形の川柳試論を暮田読解に捧げるのは、暮田が「あなたが誰でもかまわない」として川柳をつくることを奨励したからではないだろうか。)

破壊的可塑性―出来事として生じるが意味として理解されない。

 マラブーは特に外傷という出来事、(である)事故について考えようとするのである。「脳の事故は、遭遇した事故の意味が不在のままでも主体が生存する可能性があることを、露呈させる。」(p27)

肯定の原則には回収することのできない、ある種の可能態。ほかでもない、破壊的可塑性は可能だろうか。(p138)
破壊的可塑性はまさに、たとえそれがあとから見たア・ポステオリな可能性であったとしても、他の可能性﹅﹅﹅﹅﹅を考えることを禁じる。(p164)

マラブー『偶発事の存在論』

この絶対的な「ノー」とは破壊的可塑性と呼ばれる。この可塑性について、本論で深く追いかけることはしないが、短い紹介がいるだろう。「この「可塑性」という語について、主たる三つの意味を想起していただかねばならない。まず、粘土などのようにかたちをうけとることのできる物質のもつ能力である。二つ目は、最初の意味とは逆に、かたちを与える能力で、彫刻家や整形外科医などがそなえている能力である。そして三つ目は、「プラスチック爆弾」や「プラスチック爆弾による攻撃」という語が証言するように、あらゆるかたちを爆発させ破砕する可能性の示唆している。」(『新たなる傷つきし者』p42-43)可塑性とは、マラブーが主にヘーゲル研究を通して練り上げた概念であり、三つの意味を含ませている。特に今回は三つ目の破壊の意味が強調されていて、破壊的可塑性とはそのようなものだと考えてもらっていい。この破壊的可塑性のひとつの概念が練り上げられたのは『新たなる傷つきし者』においてであった。精神分析と神経学の橋渡しのために、脳それ自体が外傷を負ったときに生じる人格の変容について考えを深めていく書物である。
 絶対的な否定の一様態、その可能性としての偶発事。アクシデントは破壊的可塑性につながっていくわけで、われわれはもはやそのアクシデントを前にして同一性を保つことはできず、決定的に別の存在形態へと形を変えてしまうのだ。その問題を先鋭化させるためにマラブーは精神病理の外傷の一般論の構築を企てた。

 あらゆる外傷性の出来事は、意図を中立ニュートラル化し、偶発事故、解釈不能の事故であり何らかの意図はないという装いをまとう傾向をもつ。こんにち﹅﹅﹅﹅解釈学は敵なのである﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

マラブー『新たなる傷つきし者』p237-238

 傍点強調とともに、解釈学は敵認定されている。外傷性の出来事は、意図はないと装う。リクールの出来事と意味のことばを反転して言えば、こうなるだろうか。すなわち外傷は、出来事として生じるが意味として理解されない、と。

定型、外傷、主体

 ところで﹅﹅﹅﹅マラブーにおける外傷の理論において、この外傷を現代川柳の定型として﹅﹅﹅読み替えてやること。これがこの試論の賭け金である。法外な読みではないか、という疑念を持ちながら、霧深い川を下る。この適法さを主張する意見書の草案はまた、マラブーが書いている。

「作者とは何か?」と題された名高いテキストでフーコーは、現代の作家という形象を、消えゆく形象として分析している。彼はベケットの次の言葉に注意をうながす。「誰が話そうとかまわないではないか、誰かが話したのだ、誰が話そうとかまわないではないか」。フーコーは注釈する。「この無関心のなかに今日のエクリチュールの根本的原則のひとつを認めねばならないと思います」。ならば、エクリチュールの主体の無関心は、苦しむ主体ないし外傷をこうむった主体が、快原則の彼岸に去ってしまおうとすることを示す、あの無関心から、それほど遠いものだろうか。フーコーはこうつけ加える。「いまやエクリチュールは、供犠に、生の供犠そのものに結びつく。エクリチュールをとおして、いわば意思的な消滅が行なわれ、それが作家の生存そのもののなかでなしとげられてしまう以上、書物のなかで裁象-代行される必要はない」。「私が書くとき、そこには誰もいない」。この言葉は、〈新たなる傷つきし者〉については、「私が生きるとき、そこには誰もいない」とならないだろうか。となると、いっそう興味深く緊急度が高いのは、解釈学的あるいは系譜学的視点から脳事象を批判することよりも、脳の破壊という主題を主体の不在ないし主体の脱構築という主題に関連づけることではないだろうか。哲学は、脳としての心/姿見を哲学の主体として発見するときではないか。脳事象の主体は、哲学的主体の供犠的な証人ではないだろうか。

マラブー『新たなる傷つきし者』p305-306

 緻密にフロイトを読解し、また神経学における事例と蓄積を詳細に検討すること。これらの仕事が紙面のほとんどを占めるのだが、書物の終わりのほうでこの破壊的可塑性をもとにした主体論への野望が短く記されている。「脳の破壊という主題を主体の不在ないし主体の脱構築という主題に関連づけること」の緊急度と興味深さをアピールするための具体例、いわば論敵の候補として選ばれたのが、フーコーの作者ないし主体論であったことは、私が川柳の私性を考えるうえでマラブーを参照しようとすることに一つの筋を与えてくれはしないだろうか。
 柳本の論のように素朴に、川柳には隠喩ではなく、壊喩とでもいったようなものがあるとは言えない。なぜなら、そもそも川柳的言述においても、たった二つのAとBの要素が含まれているだけだとしても、それがどれだけ遠くにあったとしても、肯定〈である〉/否定〈でない〉⇒〈ようである〉の隠喩的契機が発生し、解釈の場にさらされてしまうからである。あるいは、否認として受け取られるようなものと言ってもいい。その否認が、ただの否定または肯定であるような証拠や事実を揃えたとしても、そうではなかったような可能性がつきまとってくることになる。
 外傷を現代川柳の定型﹅﹅として読み替えてやること。表現ではなく、定型に注目しているのはこのためである。破壊的可塑性における偶発事アクシデント、事故、外傷、これらに特別な意味はなく生じたうえで、主体の同一性を脅かしておきながら、主体を死なせたりはしない。現代川柳の定型、五七五、七七句、これらに特別な意味はなく音韻数を制限したうえで、作者がそれ以上言うことを防いでおきながら、作者を聾唖にさせたりはしない。「脳疾患者も、神経症者を模倣する能力をもつのである」(『新たなる傷つきし者』p232)のだとすれば、定型に黙らされた川柳の作者は、同一性の喪失を模倣する=遊ぶ能力をもつのである。ここでマラブーがいうより模倣とは異なる、より弱い意味においての模倣。こう言ってよければ、遊びのことだが。

 遊ぶように創作をすること。やかましい、降りやまぬ横槍を華麗に避けてみせること。川柳は「人の話を聞かない」と言うこと。川柳という遊びのなかで、絶対的なNoを言ってみることにする。十二月を遠くへ置いたように、限りなく遠いばしょを提示してみせようか。いや、それはちがう。それはあくまでようにの話、中身の表現の話であった。精神分析家の前で、彼に聞こえないようにひそひそと否定してみせる。担任の先生に気づかれないように、紙切れの手紙を席から席へ運んでいくように、否認してみることにする。ひそひそと、彼に否認だとすら悟られないように。定型におさめることによって。
 マラブーは、神経科学の見地を利用して、例えば脳神経の損傷により、人間はまさにまったく別様になってしまう事態を言っていた。要するにこのことは、われわれの身体の必然的要求からきているものだ、と解すればわかりやすいだろう。外傷とその影響は、身体の(脳神経の)必然的要求(神経科学によってわかった損傷とその影響)である。そしてまた、定型も身体的な制限である。変更できるうえに、やや逸脱することもある。変更できるし=外傷の理論の対象はヒトではなくサルでもよいし=川柳ではなく短歌でも都々逸でもよいし、やや逸脱することもある=身長が妙に高いこともある=字余りや字足らずもある。
 隠喩に回収されてしまう言述を救い出すこと。否定/肯定に回収されてしまう肯定/否定を救い出すこと。私性に回収されてしまう作者を救い出すこと。主体という強力なコンテクストをはく奪してやること。こうして、川柳は読み筋を潰していき、出来事性を前面に出す。この詩は、このゲームは、――そう、この遊びは――留保なき〈でない〉である――留保なき〈でない〉でない――留保なき〈でない〉の〈ようである〉。

「ぼくたちは心理テストの中の樹だ(なかはられいこ)」そして川柳は宣言する。心理テストの中の樹「ではない」という強力な制止を振り切って。…(中略)…人の話を聞いて唯々諾々と従うことに倦んだとき、川柳はあなたに接近するだろう。

暮田真名「川柳は人の話を聞かない」『文學界2021年5月号』p293

 暮田は句の鑑賞をしながら、「ではない」という制止を振り切ることをいう。留保なき〈である〉のことだ。川柳はあなたに接近するだろう。人の話を聞くのが嫌になったときに。「自分を切り売りするのとは違うやり方で川柳は作れるということがわかって、私は心が楽になりました。」(あなたが誰でもかまわない川柳入門の授業概要より。)と暮田はいう。川柳はあなたが一体何かということを開示しなくても良いのである。

〈壊喩〉の快癒

 こうして、〈壊喩〉という語に治療を施すことになった。快癒、というわけにはいかないだろうが、いくらかよくなっただろう。これからさらなる臨床試験が必要になるはずだが。川柳定型に潜む破壊的契機を見出すことで、柳本があくまで控えめに提出した〈壊喩〉の練り上げに役立っただろうか。その提出の動機を露呈させる動機は、印鑑の自壊によるものだ。この試論の間、私はずっとこの句と暮田の近くにいるつもりだった。きっとあなたも﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。 

 「それでも一個の出来事になるのだ。」と千葉雅也は書く。それでも﹅﹅﹅﹅。つながらないものたちが、意味としてつながらないままに、それでも出来事にはなるのだ。〈現代川柳〉は出来事として生じるが意味として理解されない。これにて粗方の注釈を終えることができただろう。
(ここまで扱われた意味なる語は、ドゥルーズ『意味の論理学』における「意味、結果=効果」を理念的な構造と見なし、無意味をこの構造を変動させる骰子一擲の運動(反復)としていくような文脈にある「意味」とははやや隔たったところにあるが、無関係ではない。)

七七句、a break

 川柳は長いと言う人がいる、私も作句をしながらそう思うときがある。五七五では往々にして三つの要素が含まれてしまう。だから二つの要素で済むことの多い七七句を多く作ってしまうのだ、と暮田が言うのを聞いたことがある。私も同じく。要素が増えれば増えるほど、より限定的なコンテクストが生じる。現代川柳が、以上議論してきたような〈壊喩〉的言述への傾向をもっているとすれば、「印鑑の自壊 眠れば十二月」は五七五ではなく〈七七句〉として読まれるべきだろう。そして、これは直観でしかないが、〈七七句〉はより大きなプレゼンスを持っていくことになるだろう。

印鑑 出来事 余白

この一般的な(署名の)今性は署名形式の現前的点性-つねに自明で単独な点在-のなかいわば記載されピンで留められている。これこそがあらゆる花押の謎めいた独自性である。つまり源泉への紐帯が生産されるためには、署名の出来事および署名の形式の絶対的な単独性が保たれている必要があり、すなわち純粋な出来事の純粋な再生産可能性がなくてはならないのだ。

ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」、『哲学の余白・下』藤本一勇訳p252

  ところで﹅﹅﹅﹅、印鑑、と聞いてデリダの「署名 出来事 コンテクスト」を連想をしないわけがない。印鑑、花押、署名、この出来事性はデリダが述べる通りである。これらについて余白に書き添える程度で、言及をしておく。

署名が機能するためには、言い換えればそれが読解可能であるためには、反復可能な、繰り返し可能な、模倣可能な形式をもつのでなければならない。すなわち署名はそれが産出される際の現前的かつ単独的な意図から解き放たれうるのでなければならない。署名の同一性と単独性を変質させることによって署名の封印を破り割るのは、ほかでもない署名の同じものという性質〔=同性〕なのである。(p266)

 「署名の封印を破り割るのは、ほかでもない署名の同じものという性質」なのである、という見事な書きぶりに「印鑑の自壊」を読み込まずにはいられない。印鑑のこの同性の側面によって、その「現前的かつ単独的な意図」が解放されるのである。まさに自壊のようだ。私であるということを言いつつ、偽装すること。印鑑の自壊、それ自体がまさに今まで追ってきたような現代川柳の特徴を体現している。

余白。頻繁に登場した出来事という語について、
リクールもデリダもたとえば、
バンヴェニストという言語学者を経由しているはずだが、
マラブーと千葉はどうだろうか。
この点、もう少し診察が必要だろう……。]

請求の範囲

 ともかく、まとめてしまえばこの試論は、現代川柳のある一つの潮流についての整理の仕方の発明を目的としてもいる。この発明の請求の範囲は以下の通りである。要するに、「眠れば十二月」についてはまだ遠くにおいておくことになりそうだ、ということだ。

 【請求項1】現代川柳の潮流を理解する仕方であって、前記現代川柳の定型は、大きな否定の力を有するとする、ことを特徴とする理解する仕方。
 【請求項2】前記大きな否定の力とは、小さな否定の力のような肯定を含意しないとする、ことを特徴とする請求項1に記載の理解する仕方。

あとがき

 ササキリユウイチ(98年生まれ)
 2021年度のどこかで文芸の創作をはじめました。
 暮田真名を知ったのは21年の秋頃で、それから私は川柳に没入していくことになりました。川柳句会ビー面主催。

 本記事は、22年5月29日の文フリ東京の「句会こんとん」ブースに置く予定のフリーペーパーに掲載予定の試論です。また5月下旬の都内某書店の川柳フェアでも置かれる予定です。ここ先月の三月末に書き始めて一か月、まだまだ書き足したいことはありますが、4月28日刊行、暮田真名句集『ふりょの星』(左右社)の繁盛を記念して、発売日の二日前に公開としました。
 『ふりょの星』刊行後では困るとも思っていました。暮田さんの活動にいくつも言及しながら、「暮田真名を読む」と表明しているわけですから、たとえば『ふりょの星』に新要素が含まれていたら手一杯になるだろう、と。ともかく、「印鑑の自壊 眠れば十二月」に最大限寄り添いながら、なお奇行に及ぼうとのらりくらり、論を進めたわけです。川柳界隈で評が書ける人は大事らしいです。ただ、私は作句もたくさんしますよ。
 ところで、千葉雅也に負うところが多かったのはまちがいないでしょう。マラブーを一番の味方として迎え入れる動機は、千葉氏にあった。川合『リバー・ワールド』(というもはや伝説級の句集)に寄せられた帯文の注釈が、この試論の企てであると読んでもらってもかまわないでしょう。それから、数少ない暮田さんの文學界への登場と、千葉氏の登場が重なっているのも、私の連想を助けてくれました。もちろん、柳本氏が現代詩手帖の定型詩特集で、結局ほとんどが短歌、あとは俳句ばかりだったあの特集で、川柳の人として非常に存在感のある文章を書かれ、千葉氏と暮田氏にも多く言及したことも、また。
 荒れた川、濁流に飲まれるように、それでもなお語と語を暗に接続させるように書きました。川柳に関心がある人のみならず、短歌(だと特に私性)、散文詩、小説などの文芸や、あるいは主体、他者、精神分析、隠喩などの哲学的な主題に興味がある人にも読んでいただきたいと考えています。
 最後に請求の範囲を記載しました。いかなる拒絶理由通知が私のもとに届くでしょうか。

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