秋は彼女の眠りを醒まして
秋になると思い出すひとがいる。
まだ私が高円寺の住人だったころ、駅の改札を出て南口へ抜けようとした私に声をかけてきたのが彼女だった。
飲みに行きませんかと言う彼女は見知らぬ女性だったが、その日は部屋に帰っても特に予定がなかった私は誘いに乗ることにした。
彼女の名前はアキと言った。
商店街通りから1本奥に入った細道にある酒場で飲みながら、アキの話に耳を傾ける。
地方から昨年上京してきた彼女は、看護師見習いをしながらこの街のピンクサロンで働いているという。
病院でスケベなオヤジ達に胸元をジロジロ見られるよりもピンサロのほうがずっと楽しい、とアキは屈託のない笑顔で話す。
面白い子に捕まったな、と思いながら私もつい普段より飲み、喋り過ぎていたらしい。
翌朝自宅のベッドで隣に眠っている彼女を見て、昨夜の経緯はなんとか覚えているけど、酔っていたとはいえ部屋に入れたのは軽率だったかもしれないという後悔の念が先に立った。
仕事だった私はアキを起こし、急いで身支度をさせると一緒に部屋を出る。
JRの長い高架下を駅に向かって歩きながら、彼女は
「ケイ君、また電話してもいい?」
と尋ねてきた。
どうやら携帯番号まで教えてしまったらしい。
家の場所まで知られている以上、もはや嫌とは言えなかった。
でもアキは携帯の番号までは知らなかった。
その頃は今ほど携帯が普及してなくて、彼女も携帯を持っていなかった。
私は酔って自宅の番号を教えていたのだった。
それからは半月に1度くらいのペースで自宅の電話が鳴り、アキはピンサロの仕事が終わると私の部屋で過ごすようになった。
もともと人懐こい性格の彼女は、部屋にいる時べったりくっついて来て若干うっとうしい時もあった。
だがおそらくアキ自身が言うほど楽しく働いている訳ではなく、辛くて嫌なことは双方の仕事であるのだろうと思うとあまり邪険には出来なかった。
その日のアキは少し疲れているようだった。
眠りから醒めたあと、ハンドバッグから銀色の小さなアルミホイルの包みを取り出して私に「ケイ君もやる?」と訊いてきた。
「それアイス?」
「うん」
「やめとく」
「そっか」
アキはキッチンに行くと、アルミホイルを開きガスコンロの上でホイル越しに包んでいた粗い粒子の粉末を炙りはじめ、溶けた煙を鼻孔から吸った。
「こうすると元気が出るんだ」
アキの眼の下には青くクマができていた。
半年前には無かったクマだ。
「でも、オレの前ではやめてくれないか」
「うん、わかった。もうしない」
そう言って彼女は最後までその約束を守った。
雨の日の夜、アキが突然部屋にやって来た。
手には灰色の塊が乗っていて、よく見ると長毛の仔猫だった。
「ケイ君、前に猫飼ってたんだよね?」
道路脇にずぶ濡れで丸くなっていた仔猫を彼女は保護して来た。
だが明らかに弱り切って哭くことも出来ない仔猫は今晩もつかも怪しい状態だった。
とりあえず乾いたタオルで丁寧に水分と汚れを拭き取り、目ヤニと鼻水でグズグズになっていた顔を綺麗にしてやるとやっとひと声ミャアと哭いた。
チンチラの雑種のような可愛らしい顔立ちだったが、かなり衰弱していた。
「大丈夫かな」
「わからない」
アキは心配そうにくるんだタオルごと仔猫を抱えると、懐で暖めだした。
私はミルクを浸した綿棒を仔猫の鼻先に持っていったが反応しなかったので口元につけてやると、僅かに舌を出して舐めてくれた。
明日になれば病院に連れて行ける。
「ミーちゃん、頑張って」
アキは仔猫をそう呼んで軽く抱きしめた。
仔猫は翌朝も生きようとしていた。
病院に連れて行くと生後2ヶ月位でひどく風邪を拗らせているが栄養剤しか打てないと獣医師は首を振った。
出来る限りの処置をしてもらい部屋に戻ると、アキは付きっきりで看病を始めた。
その甲斐あってか夕方頃、仔猫は小皿に注いだミルクを少しだけ飲んだ。
アキは私に抱きついて
「ミーちゃんミルク飲んだ、もう大丈夫よね」
と涙ぐんだ。
けれどその翌朝、仔猫は白い毛布の中で冷たくなっていた。
その顔は眠っているようにしか見えなかった。
私とアキは仔猫を埋葬してもらうため、昨日の病院に連れて行った。
帰り道、彼女は俯いたまま、私に年内で仕事を辞めると呟いた。
「どっちの?」
私が訊くと
「どっちも」
彼女は答えた。
地元に帰って仕事を探すの、アキはそう言うと私のほうを向き「ごめんね」 と頭を下げた。
私はなぜ謝られるのか解らなかったが、問い返したりはしなかった。
「あのね、ひとつお願いがあるの」
数日後、アキはクリスマスイブに時間があったら会って欲しいと言った。
その翌日に地元へ帰るとも。
私はすぐにいいよ、とは言えなかった。
仕事があったし、ほかに大事な予定が入るかもしれない。
「じゃあイブの日電話する。夜、ケイ君が早く帰れてたら遊びに行くよ」
アキは、イブに会えなかったら今日が最後の日だね、と私の顔を見た。
まだ何日もあるんだからまた来ればいいさ、私はそう言ったが、彼女は最初会った時に行ったお店で飲みたい、と私を酒場へ連れて行った。
翌朝目が覚めるとアキはもう部屋に居なくて、いつのまにか増えていた彼女の荷物もきれいに片付いていた。
イブの日は思ったより早く仕事が終わった。
九段下の駅へ歩きながら、私はアキではなく他の女友達に電話して会う約束をする。
部屋に帰るつもりはない。
アキの東京最後のイブを、私なんかと一緒に過ごすのは可哀想だと思った。
でもそれは、無責任な私の言い訳に過ぎないのを私自身がよく解っていた。
翌日の夜、部屋に戻ると留守番電話のランプが赤く点滅していた。
伝言は昨日の夜に10件ほども入っていたが、その全てが録音する前に切られていた。
最後に入っていた伝言は、昨日ではなくほんの数分前のものだった。
風の音が大きかった。公衆電話からのようだ。
しばらく風の音だけが続いたあと、小さな声で囁くアキの声が聴こえた。
「ケイ君、ありがとう。わたし・・・」
彼女の言葉は続きそうだったが、そこで録音は切れた。
私はアキからもう一度電話が来るような気がして、しばらく待った。
だが、それきり彼女からの電話がかかってくることはなかった。
アキが去り、もう冬が来ているのを私は今更になって感じていた。
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