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第8回 「氷川丸」を訪ねて/「新式日本図案の調味料入れ」をつくる

氷川丸が生まれた時代

 港町、横浜には重要文化財に指定された二つの船があります。

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 一つは「日本丸」。見た目は大航海時代さながらの帆船ですが進水は1930年、昭和に入ってからです。実はエンジンも備えており、動力航行も可能です。船を操作する操船技術の訓練を行うための船として生まれました。

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 そしてもう一つが「氷川丸」。こちらの進水は1929年、日本丸とほぼ同時期で、生まれた場所も同じ横浜船渠です。氷川丸は、当時最新鋭の商用船舶として生まれました。今でこそ、日本丸のバーク船のようなたたたずまいが目を引きますが、当時の人にとって、氷川丸の外観は未来を感じさせる頼もしい姿に見えたことでしょう。

 氷川丸は、貨客船です。貨客船というのは、「貨物」と「乗客」の両方を乗せて運ぶ船ですね。
 ここでの貨物の花形はなんといっても「生糸」です。以前こちらの記事でも紹介しましたが、生糸は近代日本の最重要貿易輸出品でした。氷川丸でも湿気に弱いシルクには専用の部屋が設けられ、取り扱いマニュアルが作成されています。

 現在の感覚では、もし貿易会社の社員が「コンテナ船に空きスペースがあるので旅行のお客さんも一緒に運びましょう」と提案したなら、上司からは「よし。今すぐ帰って休みなさい」といわれるでしょう。しかし当時、海上輸送のボリュームは現在よりずっと小さく、品目ごとに効率化されていませんでした。海を渡って移動するという手段はとにかく貴重だったのです。少ないスペースに乗客も貨物も詰め込んで海をわたるのが当時としては正解でした。

 また飛行機移動もない時代、外国人が最初の一歩を刻む「日本」は、氷川丸のような日本の客船でした。しかも海外旅行などできるのは、エリートの特権です。だからこそ、商船としての氷川丸は、貨物を運ぶ一方で、日本の顔として恥ずかしくない内装・サービスを求められていたのです。

装飾デザインから見る氷川丸

 氷川丸の時代は、日本の旅客船のインテリアの変革期でした。
 明治時代を通じて船舶のインテリアは、基本的にはお雇い外国人、主にイギリス人に丸投げでした。そもそも船体自体を国産で安定して作れるようになってきたのが明治も後半になってからですから、とても内装まで手が回らなかったというのが正直なところでしょう。また、洋装が一般に普及しはじめるのが関東大震災の後ごろと考えると、西洋風のライフスタイルを消化しきれていなかったという側面も多分にあると思います。

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 しかし先述の通り、客船はその国の顔。日本に洋風インテリアデザインの地力が備わってくれば、丸投げや物まねでは納得できなくなってくるのは時間の問題でした。その思いが噴出する時期が、氷川丸が就航した1930年前後になります。
 このころに就航した氷川丸と同じ日本郵船の船「浅間丸」のインテリアについて、工芸雑誌「帝国工芸」に「船内装飾に関する特別号」という特集が組まれています。当時一流の建築家が寄稿していて、「浅間丸の船内装飾がイギリス人建築家により、イギリス風に仕上げられているのは国辱だ。日本人建築家が日本の美意識を踏まえてデザインすべきだ」という趣旨の議論がされました。その後、日本の客船デザインは、1925年のアールデコ博から始まったアール・デコと日本の伝統的意匠が融合した、「現代日本様式」に進んでいくことになります。

 氷川丸の船室デザインは、まだ外国人建築家が中心のように見えます。それでも、船内で最も格式の高い客室、一等特別室は、日本人の三代川島甚兵衛が手がけているそうですね(松本充、遠藤あかね、「氷川丸ガイドブック」、日本郵船歴史博物館、2011)。京都の川島織物の川島甚兵衛だと思いますが、織物屋がインテリアデザインとは驚きの多才さです。発注側もなかなか根性が据わってますよね。「誰が作ったものだろうが、私はこれが正解だと思う」という断固たる意思がなければできないことだと思います。どこの洋館に置いても恥ずかしくない立派な部屋ですよ。どんな気持ちで「任せて・応えた」のか考えると胸が熱くなりますね。

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 さて、小難しい話はさておき、上級船室に泊まった乗客の気分で、豪華客船をミーハーに楽しむのも愉快なものです。食堂室で本場フランスのアール・デコを味わうのもいいですし、婦人室でアール・ヌーヴォーの残り香を愛でるのも楽しい。私のお気に入りは、これら社交の部屋の動線の中心にある、こちらの階段ですね。

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 この階段の形は、元々はイギリスのカントリーハウスのロビーの様式です。着飾った主人が客を迎えるために美しく演出された階段を降りてくるという趣向ですね。最高の格好のつけどころで、実際に格好いいのですが、これを船の中でもやりたがるのだから、微苦笑を含まずにはいられません。

 各部屋のカラースキーム(船室デザインのイメージ図)については、「日本郵船歴史博物館」で確認することができます。日本郵船歴史博物館は氷川丸とセットで楽しみたい博物館ですので、ぜひ訪ねてほしいですね。
 ステンドグラスなどディテールについても語り足りませんが、きりがないのでまた回を改めさせていただこうと思います。

工業技術から見る氷川丸

 貨客船としての氷川丸は、太平洋航路に就航しています。横浜を発した乗客も生糸も、最終目的地はアメリカ東海岸のニューヨークです。なので旅程としては、「日本・横浜から、西海岸・シアトルへの、船旅」と「西海岸・シアトルから、東海岸・ニューヨークへの、鉄道旅」がセットの輸送網と理解されるべきだと思います。
 アメリカの東西を結ぶ北米大陸横断鉄道は一足先に19世紀末に完成しています。ここで技術的な困難を克服して、安定した太平洋航路を確立することができれば、発展目覚ましいアメリカと日本をつなぐことができる、というのが氷川丸が投入されたタイミングであったわけです。

 「言うは易く行うは難い」ですが、このころ船舶関連技術は、一大変革期にありました。まず19世紀の半ば頃、「外輪船」(ペリー提督の黒船、サスケハナ号のような船です)が「スクリュープロペラ船」に置き換わります。つづいて19世紀末から20世紀初め頃、「蒸気エンジン」が「ディーゼルエンジン」に置き換わります。これにより、太平洋を股にかけるような航路が現実味を帯びてきたわけです(ペリーは、太平洋航路ではなく、ヨーロッパ・インド洋航路で来日しています)。このタイミングを見ても、明治維新が欧州の技術革新に「ギリギリ間に合った」絶好のタイミングであったことがわかりますね。

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 技術の移り変わりは時代によって分野によって大きく違うので、氷川丸が起工された1928年時点で船舶用ディーゼルエンジンがどの程度こなれた技術だったか正確なところは分かりませんが、氷川丸のディーゼルエンジン、URMEISTER&WAIN社・4サイクル直列8気筒エンジンは、通常のものとは異なる攻めた機構を採用しています。ピストンの上下両方を燃焼室とする珍しい機構です。これによりピストンは1サイクルで2回の付勢を受けられ効率が向上します。この記事のもととなる2018年の見学では、機関室に入室できたのでエンジンを隅から隅まで見られてホクホクでした。

 自動車・飛行機用エンジンが高速駆動を要求されるのにたいして、船舶用エンジンは低速でよいものの熱効率が厳しく追及される分野です。だからこそ、ガソリンではなく軽油を燃やすディーゼルエンジンが採用されています。
 ごく乱暴に解説するならば、原油から精製された燃料のうち、ガソリンなどの軽い燃料は燃やしやすいものの、熱効率は上がりません。一方、軽油や灯油などの重い燃料は、余熱や加圧などの予備工程が必要で燃やしにくいものの、ひとたび燃えれば熱効率は高くなります。

 現在の船舶では、ピストンの上下両方を燃焼室とする氷川丸方式は、残念ながら採用されていません。エンジン単体での効率はともかく、生産やメンテなどのトータルで見ると競争に負けてしまうのかもしれませんね。

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 余談ですが、もう一つの技術革新、「スクリュープロペラ」は高いポテンシャルを持つ一方、当初は懐疑的な意見も多かったため、普及に尽力した人たちの逸話があふれていて楽しい分野です。
 英国海軍は外輪船とスクリュー船の推進力を比較するために船舶で綱引きをやっていますし、スクリュー船の発明者は売り込みのためにボートレースに飛び入りで乗り込んで一位をかっさらっています。おおらかな時代を感じさせるエピソードで私は大好きです。

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 氷川丸は、1929から1960までの約30年間就航しています。この間には戦争もあり、氷川丸も徴用されて人々の思いをのせて激動の運命をたどることになります。その歴史は氷川丸について考えるうえで欠かすことはできません。この記事では、技術と意匠にフォーカスするためにあえて省略していますが、ぜひ日本郵船歴史博物館と併せて訪ねて、歴史に触れてみるのもよいのではと思います。

これがほしくなった

 今回ほしくなったのは、下の写真の画面中央「現代日本様式」の客船用洋食器です。

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 接写できなかったのが残念ですが、日本郵船歴史博物館で時々展示されているのでディテールにご興味のある方は折を見てそちらを訪ねてもよいかと思います。船内用の食器は、当時の船旅のこと、ひとたび嵐にあえば割れることも多いので、豪華に見えつつも省コストで生産されて余剰を見込んでストックされているそうです。

 これをふまえて、今回はこちらを作りました。

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 無印良品の白磁調味料入れに、新漆で図案を描いています。金色のドットは金泥ではなく、真鍮粉を透き漆に混ぜ込んだものです。

 図案は、安田禄造、「新式日本図案の応用」、同文館、大正2、Page 54、を参考に適当にアレンジしました。

 本当はお皿にしたかったのですが、新漆が食器に対応していないため、調味料入れにしています。塗膜は意外と丈夫で、手で触るくらいでは剥げてくることはなさそうですね。

 明治・大正期には、「図案をどんどん公に供して、工業の振興に貢献する」という考えをもった人が一定数存在しました(ちなみに、明治初期は工芸と工業の境界はあいまいでした。この話もいずれ書きたいですね)。
 一方で現在は、一見無料のものにも経済的な損得を見込んだ意図が絡みついているのが常です。それを一概に非難するつもりはありませんが、損得とは別のベクトルをもつ人が一定数いる社会を考えることは何か意味のある事のような気がしてなりません。

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