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コイン・チョコレート・トス_第1話

🪙 あらすじ

結婚3年目の冬、臼井幸子うすいさちこは優しい夫のさとるに浮気をされた。
男性が苦手な幸子が唯一、心を許せた男性。それが悟だった。

幸子は悟と同じ空気を吸うのも嫌になり、家出をする。飛び出した先は、親友のアパート。カメラマンとして世界を飛び回る理恵のアパートはただの倉庫と化していた。

仕事を辞めていた幸子は、生活感もない社会とのつながりもない状況は耐えられないと、新聞を取ることを決める。しかし配達される新聞はなぜかいつも誤配で過去の日付のものばかり。

その日付に何の意味があるのか。
幸子は悟との関係を修復するのか。
それとも一人で生きていくことを決意するのか。

#サレ妻 #飯テロ #ファンタジー


🪙 プロローグ


y=-3x²の放物線を描きながら、宙を舞うコインチョコ。

玄関の白い天井の少し下の位置を最高到達点とし、コインチョコは幸子の手の平に落ちてきた。幸子はそれを両手で優しくキャッチする。

幸子はコインチョコが左手に落ちてきた瞬間、上から右手をそっと添える。コインチョコがどちらかを向いているかが見えないように静かに隠す。

表か、裏か。

全ての決断は、コインチョコに委ねられた。
幸子の胸は早鐘を打つ。心臓が手にあるのではないかと思うほどに、幸子の手のひらは脈を打ち、そして震えていた。

ふぅっと小さく息を吐き、幸子はそっと右手を開く。

ーー表。

幸子は右手を使い、左手に乗っているコインチョコのアルミをゆっくりと剥がした。コインチョコの決断を確認するためには、コインチョコが割れているかどうかの確認をしなければならない。

開かれたコインチョコは形を綺麗に保ったまま、左手に乗り続けている。割れてはいない。そして、表。

コインチョコの決断は『進め』だ。

幸子は左手に乗っているコインチョコを右手でつまむと、口の中に一口で放り込んだ。バリバリと歯で砕きながら、シューズボックスから靴を出す。
シューズボックスには、幸子のお気に入りの靴がたくさん入っている。けれども幸子は大好きな真っ赤なパンプスには触らずに、白いスニーカーを手に取った。

幸子はスニーカーの靴紐をギュッと結ぶ。

ーー絶対に解けないように。いつでも走り出せるように。


🪙 1.0グラム


2月7日(土)

カタンと音がした。

新聞受けに、新聞が落ちる音。
幸子はその音で、現在時刻を予想する。その時刻、たぶん午前4時半。

布団から手を伸ばして、スマートフォンの時刻を確認することもできるが、幸子はそんなことをわざわざするつもりはなかった。そもそもスマートフォンには触れたくないからと、幸子は意図的に手の届かない場所にスマートフォンを置いている。布団から出て立ち上がらないと、スマートフォンで時刻を確認することは、まずもってできない。

そもそも、アラームが鳴る前に時刻を気にしてスマートフォンを開いたら、煌々と光る画面を見つめて、どうでもいいSNSを開いて、無駄に目が冴えてしまうことは安易に予想がつく。そうなってしまっては再び眠りにつくなんて、奇跡が起こらない限り難しい。そのため、幸子は絶対に、一度眠りについたらアラームが鳴るまでスマートフォンには触らないと決めていた。

そんな風に決めていたって、守れないことの方が多いけれど。
だけど、今日は眠るんだ。絶対に。だって、睡眠不足は美容の大敵だし。

31歳になっても維持し続けている二十代のころと変わらない体型も、艶々の髪も、しみやそばかすを作らないために日焼け対策が十分に取られた白い肌も、まつ毛美容液を欠かさずに塗り続けてふさふさと蓄えられている長いまつ毛も、うっすらと縦に入ったお腹の線も、全ては一朝一夕では作れないものだということを幸子は十二分に承知していた。ここ一週間、寝不足が続いている。心なしか肌も荒れているし、目の下のクマも気になってきた。

ーー絶対に寝る。

強い決意を胸に、幸子は一度開いた瞳を再びゆっくりと閉じた。

薄っぺらいペラペラの敷布団の上で目を閉じたまま、幸子は寝返りを打つ。
あってもなくても、変わらないんじゃないかと思うくらいに薄い敷布団。畳に直接寝ているような感覚。
当座でいいからと一番安い布団セットを買ったのは自分なんだから文句は言えないんだけど、と幸子は後悔を飲み込んだ。

まさか31歳になって、こんなアパートで寝泊まりする日が来るなんて想像だにしていなかった。それなりうまくいっていると思っていた人生は、呆気なく終わりを迎えるのかもしれない。そんなことを薄闇で考えていると、薄い布団を買った後悔以上の後悔が、幸子に押し寄せてきた。ここ数日ため息ばかりを吐いている。

幸子は再び目を開けると、窓をぼんやりと眺めた。

まだ外はとばりを下ろしたままだ。
布団に負けず劣らずの薄いぺらぺらのカーテンの隙間からは、一筋の光さえ漏れてこない。

今日は満月ではないんだろうな、と幸子はぼんやりとカーテンを見つめながら想いを外に馳せる。ベクトルを内に向け、自分の気持ちばかりを捉えていては、どうにもこうにも不健全すぎていけない。外は幸子が悩んでいることなどお構いなしに、変わらずに日が上り、月が上る。最後に夜空を眺めたのはいつ頃だろうか。月の満ち欠けの状態も記憶にないが、満月でないことは間違いないだろう。満月の夜であれば、多少の月明かりぐらい入りそうなものだ。

どこからかバイクのエンジン音がして、そろそろ世界が動き出す音がする。
世界が動き出そうと準備をし、人々がうごめき出す頃、すでに目が覚めているはずの幸子はまだ動き出さない。

幸子は再び寝返りを打った。

畳と同化した布団の上にのっそりと体重を預け、そのうちに私も布団と畳と同化してしまいたいと、明らかにどうかした思考を張り巡らせながら、幸子は再び眠りにつこうと努力をした。

仰向けになり、天井を見つめる。古いアパートの天井にはシミがあった。
大きな大きな不気味なシミ。まるで、人の顔みたいだと幸子は思う。

木目がそう見えるのか、水漏れなのか、一体なんのシミなのかは目を凝らしてもわからないが、とにかく不気味で仕方がない。

大きな大きなシミの中には、三つほど小さなシミがあった。その小さな三つのシミが本当に顔のように見える。目が二つと、ニヤリと笑った気色の悪い口。

幸子がここに来た当初は、あまりの薄気味悪さに上をむいて眠ることができなかった。しかし、3日もすれば、人間、慣れてくるものだ。

どういうわけか、次第にそのシミに愛着が湧いてきたりもする。人恋しさがそうさせるのかもしれない。

幸子はやたらと不気味な天井のシミに「おやすみ」と声をかけた。
天井のシミが(おやすみ)と返事をしたような気がした。

🪙

スマートフォンのアラームが遠くで聞こえる。音は次第に大きくなっていく。

幸子は頭の中でツッコミを入れる。
別に音が大きくなっているわけではないんじゃないか。私が覚醒してきているというだけじゃないのか、と。

覚醒してきた幸子は薄い掛け布団から、イヤイヤ手を伸ばした。しかし、いくら手を伸ばしても幸子の手はスマートフォンには届かない。なぜならば、布団に入ったままスマートフォンを操作することがないようにと、自分で遠くに置いたからに他ならない。

『いい加減に起きなさい』と延々、朝を知らせ続けるスマートフォン。

幸子はずりずりと体を畳に擦り付けながら、ほふく前進で前に進む。体を地面に押し付けたまま、まるで蟻地獄から手を伸ばすように、目一杯伸ばした手でスマートフォンを探り当てた。そして、やっとのことで鳴り続けるアラームを止める。

掛け布団の上にかけた毛布は、気がつけばいつの間にかずり落ちていた。別にほふく前進をしたからずり落ちたわけではない。薄い薄い掛け布団の上にかけた、これまた薄い薄い毛布は、寝ている間に幸子を温めるという役目を放棄し、いつの間にやら逃亡して一人畳の上に転がっていた。

幸子は普段、毛布の上に掛け布団をかけている。しかし、この寒々しいアパートに来てからというもの、あえて掛け布団の上に毛布をかけていた。
どこかのネットニュースでみた朧げおぼろげな記憶に縋るすがるように、幸子が講じた寒さ対策だった。どういうニュースだったかといえば、毛布の上に掛け布団をかけるより、掛け布団の上に毛布をかけたほうが暖かいというニュースだった。どうも空気を含んだ掛け布団を、人と毛布の間に挟む方があたたかいらしいという理屈のようだ。

「空気ね……」
幸子は畳の上の毛布を一瞥し、独りごちた。

見えもしない読めもしないものに振り回され、空気の読めない毛布に逃亡される自分の滑稽さに呆れて、幸子は鼻で笑う。この寒々しい部屋の中で眠るには、いつ見たのかも覚えていないような、信ぴょう性のあまりない情報にすがるしかなかった。それなのに、信じた情報にも裏切られ、毛布は逃亡している。幸子は自分が信じたものは、ことごとく自分を裏切っていくのだと、予想もしていないタイミングで思わず卑屈になった。

こんなことならいつもどおり、毛布の上に掛け布団をかけたほうが良かったんじゃなかろうかとも思った。
しかし、起き抜けにこれだけ頭が回っているのであれば、寒くても昨日はしっかりと眠れたのかもしれないとも思う。

存外に頭がスッキリとしていて、幸子は少しだけ心が軽くなった気がした。ストレス解消にも睡眠は効果的だと実感する。

幸子はすくっと起き上がると、ペラペラの掛け布団を肩にかけ、玄関の新聞受けへと向かった。

幸子は肩を震わせながら、肩にかけた薄っぺらい布団をぎゅっと握りしめる。早く暖房器具を買わなければこのままでは凍え死んでしまうのではないか、と足から冷えてくるアパートの寒さを感じながら、寒さとは違う意味で身震いした。

あまりの寒さに、ダウンコートを着て眠ることも考えた。しかし、コートは一枚しか持ってこなかった。流石に一枚しかないダウンコートまで畳と同化してもらっては困る。
ペラペラになったダウンコートを着て歩くのはごめんだ。

まだ女としてのプライドは捨てたくない。夫に裏切られて、一人で生きていくにしたって、女として生きていかなくてはいけないのだ。
女なんて性別、煩わしいだけだと幸子は考えたりもした。こんなもの捨ててしまいたいとこれまでの人生で、何度思ったことだろう。
今回の夫の浮気で、ほとほと女という存在が疎ましくなってしまった。

幸子は大きくため息をついた。部屋にいるのにため息は白く凍り、そしてそのまま、しんと冷えた玄関の床に落ちていく。

さらにふっと幸子は息を吐き、猫背気味だった背をしゃんと伸ばした。

女でいることが疎ましくても、女性でいることが嫌いなわけじゃない。むしろ女性でいることを誇りに思っているし、女性としての自分は好きだと幸子は胸を張る。

オシャレもネイルもパンプスも。全部ぜんぶ、大好きなのだ。

女性として生きることに誇りを持っているのに、女の性が埃のようにまとわりついて鬱陶しい。幸子は女性でいるということは笑っているのに泣いているようなものだと、いつからかそんな風に考えるようになっていた。それでも悟と出会い、恋に落ち、結婚をし、やっとのことで女性として生きていく楽しさを覚えたところだったのに。

まさか、悟が浮気するなんて。
一番の理解者に裏切られてしまうなんて。

幸子はせっかく伸ばした背を、再び丸めた。

悟の顔を見るのも嫌で、同じベッドで眠るのも嫌で、必要最低限のものだけを手にダウンコートを羽織り、4日前に家を飛び出したことを反芻してしまう。思い出したくもないのに、繰り返し考えて、そして眠れなくなっていた。

「なんで、なんで、どうして」

そんな考えばかりが、幸子の思考を支配する。

2月1日(日)

「ねえ、今どこにいるの?」
幸子は電話の向こうにいる親友、理恵に声をかけた。
「今? モンゴル」
まさかのモンゴルか、と幸子は頭をもたげる。頼るにしても遠すぎる。

「モンゴル? また大変そうなところに」
泣きつきたい気持ちをグッと堪えて、幸子はいつものテンションで理恵に話しかけた。電話だと表情を読まれないので、こんな時は助かるな、と幸子は小さく息を吐く。

「え? 大変じゃないよ。楽しいよー。幸子も専業主婦なんてしてないでさ、子どももいないんだし、もっと自由に生きたらいいのに」
「そんな簡単に言わないでよ。それより……」
幸子が本題を切り出そうとしたところで、理恵は被せるように話しかけてきた。いつものことだから別に気にも留めない瑣末なことだが、今日はやめてほしいと幸子は思う。

「あ、そうそう、そういえばさ、こないだ優子から連絡があって、同窓会しようっていう話になってさ。幸子も聞いた? もしかして、その件?」
「聞いたけど……。その件じゃなくて……」
ここで切り出すべきだと思いつつ、幸子はうまく説明ができず言葉を飲み込んだ。

明るい理恵の声を聞き、自分のあまりの暗さと比較してしまい幸子は無駄に落ち込む。理恵はいいなぁ、と電話口の元気な理恵の声を幸子は羨ましく思った。本当に自由で、奔放で、と。

会話だけじゃない。理恵はいつでも自由だ。
バックパックを背負って、パスポートを握りしめ、世界を飛び回る。

理恵が撮る写真は解像度が高く、現地の雰囲気がそのまま熱を帯びている。現像された写真からは、いつも現地の湿度と匂いが漂ってくると幸子は感じていた。

そして同時に、理恵の写真を眺め、写真の奥の自由さと閉じこもってばかりの自分との温度差に目眩がしていたのも事実だ。憧れと嫉妬と焦燥が入り混じる。それでも幸子は理恵が好きだし、親友であることに違いない。

「あ、何の用だったっけ?」
電話口で口籠る幸子に理恵が声をかける。これがラジオだったら、完全なる放送事故だ。
「……あのね」
「どうした? 何かあった?」
言いにくそうな言葉を吐き出そうとしているのは、いくら電話口だと言っても親友であれば流石にわかるらしい。理恵の明るい口ぶりが、完全に幸子を心配するものへと変わったのが幸子にもわかった。

「ええっと、理恵の家って、どうしてる?」
遠くの親友を心配させまいと、幸子は可能な限り明るい声で切り出した。
「家? アパートのこと? まだ借りてるけど……。幸子、大丈夫?」
無理して明るく振る舞っても親友には誤魔化しが効かないのだと、幸子は救われたような気持ちになった。無理して明るく振る舞う必要なんてないんだと言われているような気がしたからだ。

理恵は何かを察したのか、言いたくないなら言わなくていいよ、とでも言うようにそれ以上理由を尋ねたりはしなかった。
「しばらく帰る予定もないしさ、幸子、いつでも使っていいよ。生活に必要なものは何もないけど」

電話口の向こう側で、理恵がガハハと大口を開けて笑った。
少しだけモンゴルの空気が電話口から流れてきた気がして、幸子もふっと笑う。笑ったのなんて何日ぶりだろうか。幸子はここ数日の緊張が少しだけ解けた気がした。

「鍵は実家に預けてあるから、すぐにお母さんに連絡しとくね。幸子に鍵を渡すように言っとくから」
理恵はそう言うと、それ以上は何も聞かずに電話を切った。

理恵のアパートには、本当に生活に必要なものは何もなかった。ただの荷物を置いてある倉庫に過ぎない。
大量の写真に、本棚に入りきれないほどの本。それにCDやDVD。

『実家に置いとくと、底が抜けるって文句言われるから仕方なく借りてるんだよね。まあレンタル倉庫より、部屋の体を生してる方が使いやすいかなと思って』と理恵が話していたのを思い出した。

理恵の母親から鍵を借りると、幸子はすぐに荷造りを始めた。
必要最低限の荷物だけをスーツケースに詰め込んで、理恵のアパートに一時的に避難することにしたのだ。

浮気した悟の顔も見たくないし、一緒の空気をこれ以上吸いたくなかった。
吸いたくないというより、一緒にいると息ができない、と言った方が正確かもしれない。


2月3日(火)

「ライフラインは生きてると思うよ。たぶん」

理恵が言っていたとおり、理恵のアパートは電気もガスも水道も問題なく使うことができた。部屋は綺麗に掃除もしてあった。

きっと理恵の母親が、いつ理恵が帰ってきてもいいようにと手入れしてくれているのだろう。

アパートはしんとした静けさはあったけれど、そこここに理恵や理恵の母親の体温が感じられた。
生活感は何もないけど、不思議と誰かに包まれているような安心感がある。

鍵を借りた時に久しぶりにあった理恵の母親も、特に理由を聞いてくることはなかった。理恵が事前に釘を刺してくれていたのかもしれないな、と幸子は感謝した。人の温かさが冷え切った幸子の胸にじんわりと広がる。

ちゃんと自分の中で整理ができたら、理恵に話を聞いてもらおう。今はまだ無理だけど、と幸子は一人寂しくアパートの中でため息をついた。

しかし、一人きりで生活感のないアパートの中にいるのはメンタルが弱っている幸子には堪えた。ほんの数時間にも関わらず、寂しさや虚しさが指数関数的に増殖してしまうようだった。家にいるのが息苦しいから逃げ出してきたれど、場所を変えたって大きく変化があるわけではないことに幸子は気づく。それでも、なんとか状況を打破したいとアパートにやってきたのだ、と幸子は気持ちを新たにした。

仕事もない、友人もいない、夫もいない。

一人きりでアパートの一室に閉じこもっていると、突然、社会と切り離されたような気持ちになった。幸子は思いついたように新聞販売店に電話をした。社会と自分とを繋ぎ止めてくれるのではないかと、夜月新聞と新聞の契約を交わす。
今時、新聞なんてと思いつつ、紙や人が運ぶその行程に人とのつながりを感じたのかもしれない。デジタルの世界で感じることのできないような、ぬくもりを。

毎日誰かが、家を訪ねて新聞を入れてくれる。
社会の現状を知ることだってできる。もちろん、スマートフォンでだってニュースは読めるけれども、幸子はスマートフォンをできるだけ使いたくなかった。

悟からの着信に、LINEの嵐。
それらを見ないように気を逸らそうと検索ページを開き、入力してしまう単語は、『浮気、離婚、不妊、離婚、就職』。

検索などしなければいいのにと自分で思いつつ、幸子は浮気や離婚に関する経験談を読み漁ってしまっていた。経験談を目にし、共感すると同時にその経験談をあたかも自分のことのようにすり替えてしまうような感覚を幸子は覚えた。

いつの間にやら人と自分との境界線が曖昧になっていく。どの出来事が自分の出来事だったのかすらわからなくなってきて、次第に幸子は自分の思考が信じられなくなっていった。

理恵のアパートではできるだけスマートフォンは使わないようにしよう。しっかり、今後のことを考えていこう。理恵のアパートにずっと居続けるつもりはない。長くなくていい。一ヶ月だけ。一ヶ月もすれば、考えをまとめることはできるはず。

一人でゆっくり新聞でも読んで、冷静に。

ここで結論を出すんだと、幸子は想いを口にした。
「離婚か、やり直すのか」


2月7日(土)

幸子は新聞受けから新聞を取り出した。手に取った新聞をガサガサと広げる。冷たく冷えた手に、冷え切った新聞が凍みる。

まずは一面に目を落とした。
幸子の目に飛び込んできたのは、『犬飼議員 汚職』という太字で大きく書かれた明朝体。

頭から疑問符が飛び出し、幸子は思わず独りごちる。「何これ、デジャブ? 昨日見た新聞の一面と同じじゃない?」

幸子はその場で振り返り、新聞を手に持ったまま台所へと向かう。右手に今日の新聞を持ち、台所の脇の床に放置した昨日の新聞を左手で手に取った。
台所のシンクに今日配達された新聞と、昨日の新聞を並べて置く。全く同じ。日付も同じ。

「誤配?」

幸子はふぅと鼻から息を吐き、ポケットにしまい込んでいたスマートフォンを取り出した。着信やLINEの通知は見ないようにして、連絡先を開く。

「はい、夜月新聞です」
2コールで相手が応答した。
「〇〇3丁目の竹下ですけど」
「ああ、先日ご契約いただいた! お世話になっております。今日はどうされました?」
明るい声の販売員。幸子の家で契約手続きを行なった販売員だと幸子は気づく。確か月俣つきまたとかいう名前の、好青年風の。

「今日配達いただいた新聞、昨日のだったんですけど」
幸子は若干、苛立ちを含ませて冷たく伝える。特に苛立ってはいないのに、クレームを入れている気分になり、苛立ちを演出してしまう自分に辟易するな、と幸子は眉間に皺を寄せた。
「え?! 本当ですか? 大変申し訳ありません! すぐに新しいものを配達いたしますので」

月俣はそう言うと、本当にすぐに新しい新聞を届けにきた。
正真正銘の今日の新聞を。

「竹下さん、申し訳ありませんでした」
月俣は家に来るなり、腰を45度に折ると深々と謝罪した。そして、謝るとすぐに幸子に今日の新聞を手渡す。

「いえいえ」と幸子が手を顔の前でひらひらさせると、月俣は眉間に皺を寄せ、さっきまで新聞を持っていた右手を頭に持ってきた。
そして、ポリポリと頭を掻きながら、不思議そうな顔をした。

「他のお宅からはそんな苦情なかったんですけどねぇ。申し訳ありませんでした。しかし、一体どうしたら昨日の新聞が混入するのかなぁ。わからないんですよねぇ……。いや、言い訳するつもりじゃないんです。確かに竹下様は同じ日付の新聞を2部お持ちですしね。でもなぁ。混入するわけないんだけどなぁ。いやぁ、しかし、フッシギだなー」
誤配に関して納得がいっていない月俣は、眉をひそめて頭を掻いた。

「申し訳ありませんでした。今後ともよろしくお願いします」
月俣はそう言い残すと、アパートの前に止めておいた新聞配達用のバイクの上に置いていたヘルメットをすっぽりと被った。
バイクに跨り、少しだけ幸子の方を見て会釈するとブロロロロと走り去る。

幸子は月俣が走り去るのを確認し、古くて重たい玄関のドアをバタンと閉めた。

月俣が持ってきた今日の新聞には、「犬飼議員 汚職」の文字はなく、「トルコでM7.8」と太字の明朝体で書かれてあった。

誤配に関しては苛立ちを覚えていなかった幸子だったが、昨日の新聞というのがどうにも幸子を不快な気分にさせた。
「なんでよりにもよって昨日の新聞なんか」
幸子はため息をつく。

できれば、昨日のことは思い出したくなかった。
とるつもりのかなった悟からの電話をとってしまったことなんて。


2月6日(金)

「幸子、今、どこにいるの?」

ショルダーバックにしまいこんでいたスマートフォンを取り出した時に、幸子は思わず通話ボタンを触ってしまった。スマートフォンの電話口からは心配げな悟の声が聞こえてくる。

家を出てからというもの、鳴り止まない悟からの着信の嵐にうんざりした幸子は、スマートフォンを鞄にしまいこんでいた。たまたまショルダーバックから取り出した瞬間に通話ボタンを押してしまう確率はどのくらいのものだろうか、と幸子は考える。多分、確率の問題ではないだろう。きっと悟は延々と電話をかけてきているに違いない。

(一人で考えたいので、連絡しないでください)

幸子は悟にメッセージを送っていた。
それでも悟が幸子に連絡をしてくるのは、幸子の行方がわからないことがとにかく心配だからということのようだ。チラリと一瞥したメッセージにそのようなことが書かれてあったのを幸子は知っていた。

しかし場所を教えてしまっては、連れ戻される可能性がある。
幸子はこのメッセージに返信する義理はないのだから、と無視を決め込んでいた。

それに、幸子としては放っておいてほしいという理由で出ていったのに、幸子の希望を無視してしつこく連絡をしてくるなんとも空気が読めない浮気夫に辟易していた。

そんなことを考えつつも、幸子は心配してくれているという状況については、正直、悪い気はしていないのも事実だった。幸子のリクエストどおり放置されてしまっては、それはそれで間違いなく苛立つだろう。

そのため電源は切らずに、一応LINEを確認したフリをして、中身は読まずに既読スルーするというのは、生存確認くらいはさせてあげようという、幸子の最大限の浮気夫への優しさであり、まだ悟が幸子を気にかけていることを確認するバロメーターでもあった。

しかし、まだ今の時点で悟と話すつもりは幸子にはなかった。
今回は意図して電話に出たわけではないし、そのまま電話を切ることも考えた。

けれども家出をして4日目の幸子は、少しばかり落ち着きを取り戻しつつあった。そのため、悟への同情を感じ、幸子は悟の電話に応じることにした。

「何?!」
幸子はまだ怒っていることをアピールすべく、出せる限りの不機嫌さを醸し出そうと、わざとヒステリックな声を出した。

「幸子、ごめん。戻ってきて欲しい」
電話口の悟の声色からは、反省の色が伺える。

「悟、あなた自分が何をしたのかわかってるの?!」
「申し訳ない」
責める口ぶりの幸子に悟は小さく呟いた。

「いや、でも、幸子を裏切るつもりなんてなかったんだよ。本当に。不可抗力って言うか……」
不愉快な弁明。この言い訳をほとほと聞き飽きていた幸子の演技だった苛立ちは、徐々に本当の苛立ちへと変貌を遂げていく。

「不可抗力って何? 浮気したのは事実なんでしょ?」
金切り声をあげて幸子は悟を問い詰めた。
「それは……、でも……」
悟が言い淀んだのが幸子にはわかった。

幸子は『でも』に苛立った。
この後に及んで、まだ言い訳をしようというのか。これ以上、悟と話をする気にはなれず、幸子はすぐに通話を終了しスマートフォンの電源を切った。


2月7日(土)

憂鬱な苛立った金曜日。
ひとりぼっちの金曜日。
週末の予定もなく、ただただ現実逃避をするだけの金曜日。

今日の新聞を眺めながら、幸子は昨日の悟との電話を反芻した。
悟は「それは……、でも……」の後になんと言うつもりだったんだろう。「でも」がとにかく余計だと幸子は思う。家に戻ってきて欲しいのなら、言い訳なんかしなければいい。

浮気が発覚してから幸子が家を出るまでの3日間、悟は言い訳を繰り返した。
全てを浮気相手の女のせいにして。

実際に浮気をしたのであれば、悟にもその意思があったということではないのか。理由はどうであれ、妻がありながらも他の女を抱いたことが、とにかく幸子は気に食わなかった。

それにたとえ言い訳するような事情があったとしても、それがどんな事情であれ、悟がやったことを幸子は許せないと思ったし、あれだけ好きだった悟のことを気持ちが悪いとも感じていた。

幸子がさらに腹を立てていたのは、幸子が子どもを望んでいたことを悟が理解していたこと。そして悟も幸子と同様に、子どもを欲しがっていたという状況での浮気だったことだ。

子どもを欲しがる妻を差し置いて、ほかの女とセックスするなんてありえない。子を望む夫婦間であれば、わざわざ避妊する必要もないし、相手を妊娠させる心配や性病などのことも心配しなくていい。

幸子にとっては貴重な1回だったのに、悟はその大事な1回を外で他の女と済ませてしまったのだ。1回だったのか、複数回だったのかは知らないけれど。

正直なところ、幸子はあまりセックスが好きではなかった。そもそも、男性そのものがあまり得意ではない。
その中で悟は、男らしさが強調されているようなタイプではなかったし、中性的で、そして物腰も柔らかで、とにかく優しい。
幸子はそんな悟に惹かれて好きになったのだ。

幸子と悟は趣味も似ていて、よく二人で買い物にも出かけた。好きなブランドも一緒で、好きになる映画もテレビドラマも一緒だった。
味覚も合い、気の置けない女友達のような心地よさがあった。

悟もそこまで性欲が強い方ではなかったのも幸子を安心させた。
二人はゆっくりと距離を縮め、そして梅雨になれば雨が降るように、それはとてもとても自然に結婚をした。

幸子は結婚するまでは子どもを欲しいと考えたこともなかった。男性が苦手な幸子にとって、自分がセックスをし、子どもをもうけることは人生のプランには入っていなかったのだ。しかし、悟と生活していると次第に悟との子どもが欲しいと願うようになった。

子どもを望んでいるけれどもセックスが苦手な幸子にとって、結婚後のセックスは少しばかり義務的なものだったかもしれない。しかし、そこに愛がないわけではなかった。

幸子はセックス自体に興味はなかったけど、悟と手を繋いだり触れあったりすることは好きだった。
ただ、女性として扱われることに、少しだけ嫌悪感を覚えてしまうことがある。悟にはそのことを話していたし、悟も理解はしていた、と幸子は信じていた。

それなのに、悟は浮気をした。


悟の浮気相手は、今年、悟の職場に配属された新入社員だった。

悟は小綺麗にしてはいるしオシャレだけれど、中性的だし人畜無害。モテるというよりかはお友達止まりタイプの男性だと幸子は考えていた。そもそも幸子が悟を好きになったのは、そういう部分だった。

だから正直なところ、幸子は悟が浮気をするなんてことは全く心配していなかった。悟本人も女の人が大好きというタイプでもなかった。それに結婚しているのも公言してたし、指輪だってつけて生活をしていた。
しかし、最近の子には左手の薬指の指輪なんて、何の牽制にもならないんだろうか。

そもそも、年齢や世代なんてものは関係ないかもしれない。その彼女がそういうタイプだっただけなのかもしれない、と幸子は鈍色のため息を吐いた。

浮気を知った後、幸子の頭の中は真っ白になった。
その空白を埋めるようにフル回転した脳は、スマートフォンで検索したどこかの誰かの経験談や、『サレ妻』的な情報を、雪崩のように幸子の頭の中に流し続けた。

気がつけば、幸子の頭の中は悟への疑念で埋め尽くされていた。

悟の言うことが正しいのか。
幸子の想像が当たっているのか。
何が現実で、何が真実で、何が想像で、何が予想なのか。全てがないまぜになっていく。

混乱し始めた幸子は、何が許せなくて、何に怒っているのかさえもわからなくなり始めていた。

現実か妄想かの区別もつかなくなった幸子の脳内は、これ以上何も考えられないくらいに満杯になると、少しずつ少しずつ、その思考を喉の奥へと垂れ流し始めた。

喉の奥が、苦くて、酸っぱい。

飲み込めない思考は、吐き出すこともできず、ただただ幸子は息ができなくなっていった。

そして、家を飛び出したのだ。
悟と距離を置き、せっかく息ができるようになったはずだった。しかし、昨日電話を取ったせいで、幸子は再び息苦しさを感じてしまっていた。

その後、スマートフォンの電源を切り、なんとか落ち着きを取り戻したというのに。薄いけれども布団に入りゆっくり眠って、再び息ができそうだと思ったのに。

今朝の新聞の誤配のせいで、幸子は昨日に引き戻されてしまったのだ。


今日はもう何もしたくない。
でも、この狭い部屋にいたら息が詰まる。

幸子は気を紛らわすように綺麗に着飾って、丁寧にメイクをして家を出た。

綺麗な洋服に、綺麗なメイク、整えられた爪に少しだけシャンプーの匂いが香る指通りの良い髪。

街を歩きながら幸子は思う。

これは、男性を喜ばせるためにしていることではない。
私が私を好きでいるために、していることなんだ。





↓ 第2話予告|アルミ鍋うどん

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