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「エッセイを書く理由」はあってもなくてもいい

当時は強烈な出来事で「なぜこんな思いをしないといけないのか」「絶対に忘れるもんか」と思った決意や感情、衝動でさえ、半年、1年、5年そして10年と経つと、どうしても記憶があいまいになる。

「あれ?あのとき、結局どうしたんだっけ?どんなことを感じていたんだろうか」

そんなことがこの頃、増えてきた。

あんなに大切だったのに。

忘れたくないし、きっと忘れることはないだろうと思ったのに。容赦なくやってくる膨大なタスクと忙しい日常に埋もれて忘却の彼方に消えていくのだ。

それでいいのか、自分?

大切だったのではないか?

何だかもどかしくもなる。

それがつらい記憶なら自分を救ったりラクにしたりしてくれるけど、一方で貴重な学びや二度とない経験を忘れることにもなるのは、少し寂しい。

だから、わたしはエッセイでそのとき感じていたことを、なるべくリアルタイムで書き綴っていきたいなと思う。

これが今、わたしなりのエッセイを書く理由だ。

このようなことを、時間が空くと考えていた。

何かしら個人的な文章をもう少し多く発信したい、しないと後悔しそうだということ。最近は不思議と少しずつ強くなっている気がする。

なぜかはわからない。

だから今月から「仕事の書く」を減らして「自分の文章を書く」を増やすことに決めた。次男(1歳)の急病や発熱が多い、という現実的な事情もあるが。

正直「何を?なぜ?どうやって?」と思う。とにかく、自分でもよくわかっていない。

仕事ではない、一銭にもならない文章で「自分は何を書きたいんだ?」って。

すると、どうにも自分は仕事ではないにも関わらず、つい書くための「理由」や「目的」などをちゃんと明確にしなければいけない、という思い込みにギューっと縛られていることに気づいた。

でも、本当に伝えたいこと、人にスッと響く言葉って、考えて考えて考えて熟考してやっと出てくるもの……じゃないような気がする。

実際、過去に執筆したnoteをさかのぼってみても、リラックスしながら、そのときに強く思い浮かんだことをnote記事の方が、不思議と反応や閲覧数が多いことに気づいた。

「これは新たな気づきだ。そうだ、同じように悩んだり感じたりしている人いるかも」「このように考えたら、少しラクになる人もいるかもしれない」と、なんとなく頭に浮かび、感じたものをただ書くほうが自分も楽しい。

すると、思わぬ感謝や気づき、ときには励ましのエールなどの言葉をいただける。深く感謝だ。涙が出そうになる。

自分のエッセイを、普段の仕事と同じように、構成を考えて、検索意図やニーズを捉えて、読みやすさ、わかりやすさを重視して、バランスを考えて……ってちゃんとした文章書こうとかするほど「なんかだかイマイチだなぁ」と思い、そっと下書き保存した記事が溜まっている。

もちろん、一般的に伝わりやすい・わかりやすい文章は読まれやすいし、有益な文章は素晴らしい。ビジネス的な目的がハッキリしてるのなら、施策を講じるのもが欠かせないだろう。

ただ、それ以外に、文章からも不思議と伝わるエネルギーというか、パワーや臨場感が伝わる文章に遭遇することが、たまにある。執筆者の情熱や高いエネルギーが伝わり心が動かされて、気づくと自分も行動してしまうような文章。

「この文章は、すごく考えて頭で考えて出てくるもんじゃないな」と感覚的にわかる。そんな文章を見るたびに、ほんとに伝えたいことや人に響く言葉って、知識や思考で出てくるものじゃないような気がしていた。

そんな矢先、先日とあるステキなエッセイを仕事で書く文筆家の方とお話する機会をいただいた。くわしく言えば、個別に話す機会があるセミナーに参加した。何となく気になり、気がつくと申し込んでいた。

何事も、知りたいことや理想的な生き方を既に叶えている人に直接ヒントを聞くのが最適だと思うからだ。

その方が、わたし心境や状況をふまえてアドバイスとして言われたのが「今は頭で考えて『書こう』『何をすべきか?』ではなく、日常で素直に感じることを大切にして、フッと『書きたいときに書く』がいい」とのことだった。

そして、

「本当の自分を出していくこと」
「その『書きたい』は、きっと頭ではなく、もっと深い部分、たとえば魂からの声なのでは」

という言葉がすごく印象に残った。

そして、話しているうちにメディアの編集やディレクションの仕事をもう少し集中するために、ライターの仕事を減らすのに抵抗があった理由もわかった。

「書かない自分、ライターでない自分には価値がない」という思い込みがあるというのにも気づいた。せっかくいままで頑張ってきたのに、ムダになるような感覚がして、手放すという選択肢を除外していたのだ。そしてライターの仕事は嫌いではなく、楽しい。だからこそ、抵抗がある。

そんなわたしに、

「その、これまで『大切なもの』を手放したとき、新しい扉や可能性が開くんですよ」

とも、エールをいただいた。

うまく言えないけど、自分でもぼんやり感じていたことなので、すごく納得した。感謝だ。

やっぱり、熱量や情熱が伝わる発信や文章ってやっぱりいいなぁって思う。読んでいると不思議と楽しさやワクワク、勇気がわいてくるあの感じ。

そのときの自由な感情や気づきを、自分はもっと表現していきたい。

その先に、何か書きたいものがわかり、少しずつピンポイントになって出てくるかもしれない。

なんとなく、自分の文章で書きたいことは

整った上手い文章でもなく、

キレイな表現がたくさんのエモい文章でもなく、

ノウハウが充実した有益な文章でもなく……

と考えて行き着いて、まぁまぁしっくりきたのが「人を元気づける文章」だった。

とはいえ、日々の仕事や育児に追われてしまい、noteに向かう時間の確保が課題でもある。

実際、この記事も何日かに分けてスキマ時間で細切れに書いている。(ちなみに今は、次男の小児科までの待ち時間にポチポチ書いている)

どんな文章を書くにも、やはり一定のエネルギーは必要だ。あわただしい日常のなか、わざわざ時間をつくる。適当では書けない。

やや矛盾しているようだけど、リラックスして書くこの文章も、画面の向こうの誰かを頭に浮かべながらも真剣に書いている。

こういう、まさにこの「今の心境」。

大変だ、しんどいなー、楽しかったな、うれしかった……をなるべくリアルに書き綴っていきたい。

「誰が読むのやら?」みたいな文章。

でも、それがそのうち誰かの道しるべになったり、何かしらのヒントになったりすると、わたしは本気で思っているからだ。

わたしが顔も住まいも知らない、誰から発信に日々救われるように。自分も、もっと日々の気づきを書いていきたいなぁと思う。

誰のために?何のために?とまだ目的はフワフワしている。

一応、パッと思い浮んだ自分の体験で「書けそうなこと」は、

・心療内科に通ったけど、違和感を感じて辞めてうつ状態から克服した方法
・副業ライターの経験を活かし、事務職からWebディレクション業務の仕事に転職できた不思議な流れと縁
・試行錯誤してフリーランスになった経緯
・編集者やディレクター業務の仕事のこと
・オウンドメディアの編集長になった奮闘記
・自己理解を深めて力を発揮できる働き方を見つけた経緯
・発達障害と分類される我が子を持った母の心境や葛藤

などだろうか。書き出すと、割とネタはありそうなことに気づく。

とはいえ、現時点ではまとまらない。今はジャンルを縛らず、これらをそのときに書きたいこと、忘れたくない学びや気づきを書いていきたい。

それが、きっと自分を信頼することだからだ。

もしも、あなたも何かしら結論が出せない、決まらないことがあるとしたら、一旦考えるのをやめて「感じることや素直な気持ち」にフォーカスしてみるといいかもしれない。シンプルな気持ちに立ち返ってみる。

そしてそれらを、何らか表現してみること。文章でも、会話でも、絵や画像でも、何らかのアウトプットで。

すると、ぼんやりしていた「本当の想いや願い、祈り」が、可視化されてくっきりしてくる。自分が本当に人生で大切にしたいものや、世に伝えたいものを自覚する。

そこから何かが動き出して、スタートするのかもしれない。退屈で停滞していた日常から抜け出せる。

とはいえ、直感というか、裏づけるデータもなく、感覚的に何かしらを選ぶのは、実はすごく難しいし怖いことだ。

でも、後悔しないだろうし、他人ではなく自分を尊重できたうれしさはその後の人生にきっと良い影響を与える。日々が楽しくなり、人生の満足度が上がるのではないか、と思う。

頭で考えすぎる、まじめなあなたにシェアすること。普段なにかと考えすぎる人は、そのくらいがちょうどいいのかもしれないと思うのだ。

わたしも、まさにこうして人体実験をして得たことや気づきをどんどん書き綴っていく予定だ。

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