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ロボットを通して学ぶ「人らしさ」とは? "ほぐす学び_2022" session4は、岡田美智男さん「ロボット-共生に向けたインタラクション」、「ロボットの悲しみ」

"ほぐす学び_2022"に参加しています。
10月1日にスタートして先日4回目を迎えました。

session4は、「共生の先端を考える」


今回は私自身が岡田美智男さんの「ロボットー共生に向けたインタラクションー」について資料をまとめて12分で発表しました。発表資料を作る中で、自分の中で生まれた問いは、「ロボットは恋人や家族、友人になりうるのか?」でした。発表後のグループ対話では、「人らしさってなんだろうね?」の問いがでてきました。

ロボットー共生に向けたインタラクションー

著者:岡田美智男

1960年生まれ、日本の情報科学、認知科学の研究者。豊橋技術科学大学情報・知能工学系教授。専門分野は、コミュニケーションの認知科学、社会的ロボティクス、ヒューマンロボットインタラクションなど。
ゴミ箱ロボット、アイ・ボーンズ、トーキング・ボーンズなど、他力本願な〈弱いロボット〉を開発しており、ロボットを通し、人と物、人と人の関係や、社会のあり方を探求している方です。

第1章 周りを味方にしてしまうロボットたち

〈お掃除ロボット〉のふるまい


ルンバなど〈お掃除ロボット〉を使っている人も多いのではないでしょうか。そのふるまいを、「風のふくまま、気の向くまま」と岡田さんは表現しています。
〈お掃除ロボット〉は、壁やソファー、椅子に当たりながら、方向を柔軟に変えながら掃除をします。つまり、壁やソファーなどの「障害物」との連携により掃除をしているのです。「じぶんの判断で何とかしなければ・・・」という拘りを捨てて、その一部を周りに委ねてみる。自らの(不完全なところ)を自覚しつつ、それを適度にさらしてみる。そんな姿勢が周りの手助けや(強み)を引き出し、まわりを味方にして、〈ひとつのシステム〉を作り上げています。

ひとつのシステム:
ジェームズ・J・ギブソンの創始した整体心理学では、行為主体と環境との相補的な関係を一つの「生態系(eco-sysytem)」のアナロジーで捉えており、行為主体と環境とが〈ひとつのシステム〉を作り上げているという感覚を大切にしてきた。

引用:ロボットー共生に向けたインタラクションーP.3

ロボットの〈生き物らしさ〉はどこから?


ルンバに名前をつけて呼んでいませんか?うちは一時期名前で呼んでいました。なぜロボットを生き物のように感じるのでしょうか?〈生き物らしさ〉ってなんでしょうか?ダニエル・デネットさんは、それは人の「思考的な構え」からくると言っています。ポイントは、「人」の、というところだと思いました。ロボットの動きの意味をどう解釈するかは人の構え次第でもあるのです。〈生き物らしさ〉や〈ひとらしさ〉は、個体に固有なものとして備わった属性だけでなく、周りとの多様なインタラクションの様式から立ち現れてくるそうなんです。

例)親はどのようにして赤ちゃんを一人の人間にするか?
子どもはその周囲から人として扱われることで、人になっていくのだ。

引用:ロボットー共生に向けたインタラクションーP.13

「狼少年」の話しを思い出しました。オオカミに育てられた子どもは四本足で生活をして、昼間は休んで夜に行動していた…という話しです。周囲がどう関わるか、周囲との関係性がロボットにも人にも現れてくるのだと感じました。


〈ゴミ箱ロボット〉の誕生

sessionの中では、〈ゴミ箱ロボット〉がヨタヨタと歩く様子について、ぜひ動画を見て欲しいと南先生より。このロボットがヨタヨタと歩く姿を見たときの、自分の感情を観察してほしいと。

わたしは、動画を見て「協力したい」と純粋に思いました。ドラえもんみたいなロボットなら自分の困っていることを助けてほしいとお願いしたいところですが、このロボットはそうではない。自分でゴミを拾えない。拾ってアピールしているように感じます。

岡田さんは、赤ん坊からアイデアを得て〈ゴミ箱ロボット〉を開発したそうです。これまでのロボット研究の「人の手を借りることなど考えてはいけない」という固定観念から解放され、周りとの関係性に目を向けたのです。「全部自分の力でできなくても、周囲の助けを引き出すようなコミュニケーションがとれれば、目的を達成することができる」ことを、ロボットが教えてくれます。

session4を終えての感想

人らしさとは?


「ロボットの悲しみ」の本の中で、ロボットに話しかけるおばあちゃんに痛々しさを感じるのはなぜだろう、という問いが出てきます。そこに人間の一方通行な感情を見るからではないか。ドラえもんとのび太くんの関係には痛々しさを感じない。それはドラえもんがのび太くんを怒るし、二人の関係性が対等に見えるから。共生とは双方向であり対等であることで成り立つのではないか。グループ対話の中でそんな話が出てきた。

ほぐす学びのシェルパである南先生が、弱いロボットの開発者である岡田さんと話された際、「人間っぽさ、人らしさとは、意外性なんです」との話しを聞かれたそうだ。人間とロボットが対等であるには、人間の機能的ではない特徴(=意外性)をロボットに備える必要があると。意外性や、たまに抜けてしまうということは、ランダムとも違う。人らしさというのは、難しいんですと。意外性をプログラムに組み込むことが難しいのだ。それは機械でいうバグが起こることなんだと思う。
人が人たる所以が、意外性…「なんでやねん!」って突っ込んでしまうような所だとすると、その「なんでやねん!」なところは、その人の「らしさ」でもあるのかもしれない。

昔、陶芸体験で作った茶碗を思い出した。ろくろをゆっくり回して、きれいな形のお茶碗ができた。陶芸家の先生がやってきて「きれいにできたね〜。こうするともっといいよ〜」、突然、親指を茶碗にフニャっとねじ込んだ。茶碗の一箇所がフニャっとゆがんだ。え!なに?ビックリしたが、「こっちの方が味があってええやろ」先生がニヤリ。確かに、一気に味が出た。きれいな形の茶碗は大量生産の器と変わらなかった。このフニャっとした茶碗のゆがみは、ある意味「人らしさ」なのかもしれない。ロボットはわざわざこんなことしないだろう。忘れられない先生とのエピソードも一緒に、お気に入りの茶碗をずっと使っている。

初めてろくろをまわして作った茶碗、先生のひとフニャ効いてます。整った形じゃないところに愛着が湧く。

このゆがんだ茶碗のどこがわたしは好きなのか?整っていない、均等でない、バランスの取れていない、いびつな形をしているところが好きなのだ。

人らしさを愛し愛されたい


人のこともそんな風に愛せたらいいな…ふと思う。
「人」を愛するということは、「なんでやねん」や「そうきたか」の部分を愛するということなのではないか。そんなことを考える。
わたし自身も自分の「なんでやねん」な部分を愛してほしい。自分も愛してあげたいと思った。

家族、友人、恋人、上司も後輩も人間同士の関係において、相手の「人らしさ」である部分を知り、それはその人がロボットではなく、人だからこそ備えている部分なのだと思えたら、うまくやっていける気がする。逆も然りだ。

結婚13年目を迎えた夫と、9月から別々に暮らしてきた。互いの「何でやねん!」の部分が許せなくなり、「そうきたか!」の部分にお互いかみつき、一旦離れて暮らしてみようとなった。離れて暮らし、”ほぐまな”で学ぶ中、いろんなことが自分の中でつながってきた。

・レヴィンの「場の理論」では、人の行動には、その人の特性と周囲の環境が関係していることを学んだ。一緒に暮らす「人」もその人にとっては環境なのだ。
・ユクスキュルの「環世界」では、家族とは?を考えた。ひとつ屋根の下に暮らす家族もそれぞれ違う物語を生きている。同じものを見て、同じ出来事を体験していても違う世界を生きている。分かり合えなくて当然。その上で一緒にいる。一緒にいることの意味。
・今西さんは、「競争」ではなく「共存」について語っていた。棲み分けることで多様な種が生き残る。

今回のsession4では、人とロボットとの共生を通して「人間とは?」について考えた。
人であるとは?
人と人とが共に生きるとは?
「なんでやねん!」「そうきたか!」な部分があることが人であることの証。
人と人とが共に生きるとは、それがその人の「人らしさ」だと知っていること。
人を愛するということは、その人の「何でやねん!そうきたか!」の「人らしさ」を愛するということではないか。

自分が想像しうる従順なロボットと暮らすことを想像したら、にくたらしい所もあってこその人なのだと思えてきた。そこが時に愛おしく、一線を超えると怒りを覚えるような。
人が人たる所以、「人らしさ」について考えたとき、もう一度「人」と一緒に暮らしてみたいと思った。(娘はずっと一緒に暮らしている)

新しく手に入れたメガネをかけて暮らしを送ってみる。見える世界は変わるだろうか。人生はいつだって実験だ。離れて暮らしてどうなるか、戻って暮らしてどうなるか、何ごとも経験してみる。

「何でやねん!そうきたか!」が「人らしさ」であると知ったわたしは、それを面白がることができるだろうか。自分のマヌケなところ、狂気的なところをわたしの「人らしさ」だと主張して、面白がってもらえるだろうか。
やってみよう。

ロボットと人との共生についての学びは、わたしに人と人との共生について考えるヒントをくれた。

”ほぐす学び_2022”は、わたしが人生をより良く生きるための知恵を学ぶ”私の学び直し”の時間。

本を通して先人たちの知恵に触れ、心強いシェルパに導かれ、仲間たちとの対話で大海原を泳いで、深く潜る。session初日に旅立ちの感覚を覚えたがまさに今、旅の途中。これからわたしは何を感じ、何を選んでいくのか。
一人では歩けない旅路を、仲間と一緒に歩いていきたい。
いつからか身につけていたセーターをほどいて、自分の体に合うように編み直していきたい。

哲学者鶴見俊輔さんがヘレンケラーにインタビュー時に、“Unlearning”の意味を尋ねました。 既製品のセーターを一度ほどき、自分の体に合うように編み直す”が答えだったような。

引用:https://books-argentina.com/about-un
本屋アルゼンチン/2022_“ほぐす学び” 〜Unlearning Experience〜


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