舐められたら殺す=武士のデフォルト
2022年3月13日(日)NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第10話「根拠なき自信」が放送されました。
冒頭、奥州藤原氏の御館(当主)である藤原秀衡(演:田中泯)が義経と平家の両方から出兵の催促を受けて両方ともに答えるというシーンがありました。
義経の出兵催促は事実かどうかはわかりませんが、平家が秀衡をアテにしていたのは確かだと思います。
富士川の合戦の敗北により、相模および駿河の平氏勢力は瓦解しました。さらに武田信義が駿河、遠江の平氏勢力の排除を行っており、平家の実効支配は三河界隈まで後退したことになります。
そう考えた場合、源氏でも平氏でもない第三者的な独立勢力である奥州藤原氏の軍事力(公称:17万騎兵)は平家としては無視できません。また位置的にも頼朝の背後を衝ける位置にありました。
これ以降、平家は奥州藤原氏を味方に引き込むため、アノ手コノ手でエサをバラまいて籠絡を仕掛けてきます。
大庭景親の最期
前のエントリーで書いたとおり、大庭景親(演:國村隼)は平家の頼朝追討軍に参陣すべく軍勢を率いて西に向かっていましたが、頼朝と信義の軍勢の多さに圧倒され、軍勢を解散。自身は頼朝に捕縛されてしまいました。
『吾妻鏡』によれば、景親は上総広常(演:佐藤浩市)、そして山内首藤経俊(演:山口馬木也)は土肥実平(演:阿南健治)に預けられたことになっています。
ドラマでは経俊は無罪放免。そして広常はその場で景親の首を刎ねました。
このドラマには一切出てきませんが、景親には大庭景義という兄がいました。景義は平治の乱で足に矢を受け、歩行が困難となり、弟の景親に大庭家の家督を譲って隠居していました。
そして景親が平家に属したのに対し、兄・景義は袂をわかって頼朝に味方しました。鎌倉の仮御所の工事などの差配を行ったのは、景義と言われています。
頼朝は景親の処分を決める際に、景義に「弟を助けたいか」と訪ねたところ
「私は石橋山の戦いの時、三郎(景親)とは縁を切り申した。佐殿の存分になさっていただいて結構です」
と答えたと言われます。
ドラマの中で景親は言いました。
これはまさかのフラグですね。広常も頼朝に殺されてしまうので。
謎の多い人物:足立遠元
今回も新キャラが多く登場しています。まずトップバッターはこの方。
足立遠元は、武蔵国足立郡(埼玉県鴻巣市から東京都足立区あたりまでの一帯)を本拠地としている在地豪族で、彼が足立氏初代になります。
血統としては藤原北家に連なる者になり、彼の父親である藤原遠兼が京から武蔵国足立郡に移住したため、その子である遠元が足立氏を名乗りました。
ちなみに藤原遠兼の弟が安達盛長(演:野添義弘)と言われておりまして、そうであれば、盛長と遠元は叔父・甥の間柄になります。
武士でありながら軍功があまりなく、後世においてはむしろ文官としての評価しかない非常に謎な人物で、実衣曰く「あれが一番、得体のしれない」というのはあながち間違ってはいないかと(汗)。
武士から公家化?:牧 宗親
牧 宗親は、北条時政(演:中村彌十郎)の継室・りく(演:宮沢りえ)の父とも兄とも言われる人物です。ドラマ上では直衣姿で公家扱いされてますが、ちゃんとした武士です。
駿河国駿河郡大岡牧(静岡県沼津市一帯)を開発して荘園として成立させ、これを平頼盛(清盛弟)に寄進しました。なので、どちらかといえば平家に属する人間です。
歴史上において、この方が京の作法を知っていたはずも、指南できるわけもございませんので、前回の登場の内容はおそらく創作かと思われます。
しかし、なんで公家にしたかなーっと思います。
だってこの人、この数年後、政子のジェラシーで亀の住んでた家を破壊するんで(汗)
源氏の中の「良心」:源範頼
どちらかというと奇人変人の類が多い源氏の身内において、とりあえずまともそうな常識人がこの源範頼になります。
源義朝が遠江国池田宿(静岡県磐田市)の勢力を自分の味方に加えるため、池田宿の実力者の娘と結婚し、その間に生まれた子供と言われます。
義経は範頼を「遊女の子」と言っていました。
母親は宿場町の女性の子なので、広い意味では間違いないとは思います。
しかし、範頼は平治の乱の後、平家による源氏粛清の難を逃れて遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)で育ち、その後、受領(統治者/現代の首長)として赴任した藤原範季の保護を受けています
※範頼の「範」は範季からもらっています。
この時代、平家に付け狙われる源氏の血筋は、強力な保護者がいないと普通に死ぬ時代ですので、母親かその父親(祖父)が土地の有力者であったと考えるのが妥当ではないかと。
で、遠江で育ったのであれば、富士川の合戦の後に、駿河、遠江に軍勢を進めていた甲斐源氏と合流して、頼朝の元に参陣したと考えられるかなと思います。
謎の不法侵入者:義円
第10回の最後に頼朝が鳥籠に入れていた鳥を「つぐみ」と看破したのは、「義円」と名乗る不法侵入者僧侶でした。
義円は幼名を乙若と言い、全成(今若)の同母弟、義経(牛若)の同母兄にあたります。
義円は園城寺(三井寺)で出家して、明恵法親王(後白河法皇の子/初の皇族の園城寺長吏)に仕えていました。
ただ『吾妻鏡』には義円が頼朝の元に参陣した記述はありません。彼が『吾妻鏡』に姿を表すのは、ドラマの時間よりおよそ半年後の西暦1181年(治承五年)3月10日の「墨俣川の合戦」です。
墨俣川の合戦は源行家(頼朝に以仁王の令旨を持ってきた山伏/演:杉本哲太)が頼朝とは別の独自の勢力を築いて、平重衡(清盛六男)を相手に戦ったものです。しかしこの行家の陣に義円の姿がありました。
これが、義円が自発的に行家に加わっていたのか、あるいは、義円はすでに頼朝の元にあって、叔父・行家の牽制のために頼朝から名代として遣わされたのかはわかっていません。
が、自分は後者だと思います。
それにしても頼朝の居間に誰の制止も受けず、ずかずかと頼朝に近づけるのはあまりにも仮御所の警備が杜撰なのではないかと心配になります。
この時期の史料に存在が確認されない義円がどんな活躍をするのか。注目ですね。
実衣はやっぱり阿波局
第10回は全成と実衣の間に「え?ラブコメなのかこれ?」と思わせる一コマがありました。
最初の配役発表で、実衣の存在が「政子の妹」であることから、彼女が阿波局の役どころかと思っていました。しかしドラマが展開するにつれ、
「あれ?もしかして違う?」
と思うこともありました。
※政子には同母妹として「時子」(足利義兼正室)がいたので。
しかし、今回の全成とのラブコメチックな演出で、ああ、間違いなく阿波局のポジションだなと思う反面。この人の身に降りかかる今後の不幸を思うと、なんとも言えない気持ちになりました(汗)。
※Webサイトの人物紹介のURLみたら、きっちり「awanotsubone」って書いてありました(汗)
武士を舐めるのは命懸け
西暦1180年10月27日、頼朝は佐竹氏討伐のため、常陸(茨城県)に向けて出発し、11月4日、常陸国府(県庁?)に入ります。
ドラマではここで軍議の場面になります。
ここで「あれ?」と思いました。
確か、前回、広常はこう言っています。
前回と言ってることが違いまっせ(汗)
折り合いが悪いから、広常の領地にちょっかい出してきてるはずです。
ところが今回は「長年の付き合い」ときました。
折り合いが悪いのを「長年の付き合い」とは言わんでしょ。
さすがにここはちょっとないなーって思いました。
『吾妻鏡』では小四郎の言う通り、広常が佐竹義政(演:平田広明)への交渉を行なっています。その時、義政はすぐにでも参上すると恭順の姿勢を見せますが、弟の佐竹秀義は反対し金砂城(茨城県常陸太田市上宮河内町)に籠城してしまいました。
義政は大矢橋(茨城県石岡市と小美玉市の市境にかかる橋)で頼朝と対面しますが、頼朝は橋の真ん中にまで義政を一人でこさせ、頼朝からは広常一人を向かわせて義政を殺害しています。
ここでのポイントは「義政を殺害させたのは頼朝の命令」であることです。
ドラマでは、義政の「老けたなぁ〜」の一言にキレて
と惨殺してしまい、それに対して頼朝が「何をやっておるんだ」と嘆いていますが、『吾妻鏡』では義政の殺害の命令は頼朝が出しています。
これが大河ドラマ特有の「主人公級には手を汚させない」というルールなら、これから先、このドラマはどうなるのかとちょっと不安になりました。
金砂城の戦い
ドラマでは広常が義政を惨殺した後、佐竹勢は金砂城に籠城し、手も足も出ない状況を義経が策を披露することで打開したと思いきや、広常の策で城が開城したとなっています。
実際、この時の金砂城攻撃は
下河辺行平(下野小山氏庶流)
下河辺政義(行平弟)
土肥実平(演:阿南健治)
和田義盛(演:横田栄司)
土屋宗遠(実平弟)
佐々木定綱(佐々木四兄弟長兄/演:木全隆浩)
佐々木盛綱(定綱弟/演:増田和也)
熊谷直実(武蔵国熊谷郷の武士)
平山季重(多西郡舟木田荘平山郷の武士)
らが率いた数千の兵で攻撃しました。
しかし、ドラマの中の畠山義忠(演:中川大志)の分析通り、城から飛んでくる矢石が沢山味方に命中し、味方から打ち放つ矢は、全く山上へは届きません。さらに城に至るまでの岩石が道をふさいで進軍を阻止しており、難攻不落の状態でした。
やがて陽が落ち、月が出て、日が変わった夜明け前未明。これ以上の攻撃は味方の士気に影響すると考えた土肥実平と土屋宗遠は、頼朝にこのような報告をあげています。
これを聞いて頼朝は再度軍議を招集しました。その場で上総広常はこう言いました。
頼朝は広常の案を採用し、広常を佐竹義季の元に派遣しました。
この時、義季は喜んで応対したと言われます。
広常は義季にこう言いました。
これを聞いた義季は広常に味方して、金砂城の後に回りました。城の内部構造を知っている人間を案内人とし、攻撃を開始したのです。
想定もしていないところからの攻撃に佐竹軍は混乱に陥り、11月5日ついに金砂城を捨てて、奥州方面に逃亡してしまいました
これらのことをドラマでは時政のひとり喋りで済ませてしまっています(苦笑)。
翌6日、広常は金砂城を焼き討ちにし、その翌日7日、広常等は頼朝の元に戻っています。
そして間違ってはいけないのは、これで佐竹氏が滅んだわけでも秀義が頼朝に臣従したわけでもないということです。秀義が頼朝の御家人の列に加わったのはこれより8年後の1189年のことです。
一方、勝利のキッカケとなった佐竹義季はもちろん御家人に加わっています(後から追放されてますけどw)
金砂城の戦いの知られざるエピソード
金砂城の戦いにおいて、岩瀬義正(通称:与一)の話に触れないわけにはいきません。
頼朝に騙し討ちにされた佐竹義政の近習に岩瀬義正という者がいました。
この者は金砂城が落ちた後、頼朝軍に捕縛され、頼朝の前に引き出されました。
その後のやりとりを『吾妻鏡』を元に再現してみます。
義正は紺の直垂を着て泣いており、なぜそんなに泣くのかを頼朝が尋ねたところ
「太郎(義政)様が亡くなられていては、生きていても仕方がない」
と答えたので、頼朝は
「ならば何故、義政が殺された時、戦って死ななかったのか」
と重ねて問いました。
すると
「佐殿(頼朝)はあの時、家来たちを遠ざけ、太郎様に一人で橋の中央に来るように言いました。あの時、家来達に何ができたでしょうか?。太郎様が橋の中央で殺された時、後日の事を考えて逃げました。しかしながら、今ここに引き出されたのは、武士としては不本意ではありますが、心して佐殿に申し上げたい事があったからです」
と答えました。
「わかった。申してみよ」
頼朝が言上を許可すると、義正は言いました。
「佐殿は坂東の武士を集めて平家を討つために兵を挙げられた。その思いを棚に上げ、あろうことか、同族(佐竹氏は河内源氏庶流)を滅ぼすなんてとんでもないこととは思いませぬか?。
国の敵に向かう時、武士は力を合わせてその敵に向かうべきです。それなのに、佐殿に対して害を成したわけでない罪無き同族を殺すとは。
味方となる同族を滅ぼしておいて、佐殿の本当の敵は、誰に言いつけて攻撃させるおつもりですか。誰が佐殿や佐殿の子供たちを守るのですか。この事を良くお考えになるべきです。
坂東の武士は、貴方の権威を利用しようとしているだけです。皆その権威を恐れているだけで心底服従している訳ではありません。このままでは、源氏の子孫に問題を残すだけです!」
頼朝は義正の言上を黙って聞いていました。
そして義正の発言が終わると何も言わずに奥の間に入ったそうです。
上総広常は
「あの男(義正)は武衛に対して謀叛を考えている事は疑いありません。早く斬罪に処すにすべきです」
と言うと
「いや、そうではない」
と答えました。
「え、しかし武衛を罵った男ですぞ?」
と広常がもう一度問いかけると
「確かに罵った。見事にな。だがあの者の申すことは道理だ。わしは道理に反することはしたくない。道理に反することは自分の身に跳ね返ってくるのでな」
と言い、のちに義正を御家人の列に加えました。
現在の鎌倉市には「岩瀬」という場所があり、そこが義正の邸跡であると言われています。
さて、ドラマもまもなく第1クールの終わりが見えてきました。
そしてそろそろ平家の屋台骨であるあの方が亡くなられる時ですかね。
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