見出し画像

鹿島槍天狗尾根遭難の報告書から学び取ったこと(原文)⑯

学習院大学山岳部 昭和34年卒 右川清夫

⑧ 結語

 この小谷氏の発言からして、星野さんの云うところの地こすりという表現に近い乾き底雪崩(面発生乾雪全層雪崩)にやられたと云った方が、正確な遭難原因の表現かもしれない。 31年(1956)1月14日の東京タイムズに大見出しで、“高温異変、判断誤る”北アの犠牲すでに11名とあり、記事は山渓の川崎隆章氏から引き出したと思われる以下のような記事が、この遭難の総括をしているように思われる。 いわく、また相次ぐこの冬の北アの遭難の場合はほとんど新雪表層雪崩によってやられている。 これは例年より3~4度くらい高い温度異変で誘発されたものが多く、湿り気を含んで重い新雪が容易に雪崩を起こしたわけだ。 関西登高会員が前穂高で雪にのまれた4日夜は、気温零下3~5度で平年より5~10度も高く、冬山の経験を比較的持っていたこれらの人たちも、特殊な気象条件に対応する判断を欠いていたのが主な原因のようだ。 と書かれている。

 また山と渓谷223号(昭和33年1月発行)に冬山の気象と遭難という題で藤原美幸氏(気象庁山岳部)が大井さんの報告を受けて、次のように戒めている。

 「昭和30年の暮れに学習院大山岳部の4名が鹿島槍天狗の鼻付近で猛吹雪の最中に行動してまかり本谷に流された事件がある。 遭難の模様は目撃者がいないので推測するほかないのだが、当時の状況から新雪の表層雪崩に一瞬に流されたことは間違いない。 現地の人々は近年まれにみる大雪と語っていたそうだが、赤倉の積雪記録は平年並みで十分考えられる積雪であったように思われる。」

 大井正一氏の調査の結果、遭難前後の5日間で3000mの上層風が一番強くなったときで、輪島で当時毎秒45メートルも吹いており視界が悪く新雪の成層も不安定で遭難しやすかったと言える。 風の強い時は雪庇も発達し視界の悪いことから不用意に其の上を歩いたのかも知れないし、強い風によって強制的に表層雪崩を引き起こしたのかも知れない。 前後の報告や気象データから推察すると、最悪化した時に行動してやられたらしい。 故人に鞭打つつもりはないが、豪雪中の行動がまずかったというほかなかろう。

 これと対照的に、2日遅れて東尾根から登ったアルムクラブ一行はやはり深い雪の中の極地法でキャンプをすすめ、巧みに晴れ間を利用して1月3日登頂に成功した。

 その時はモンスーンの吹き出しが止まり、日本海の低気圧によって晴れたのが3日で、次いで台湾坊主(原文のまま)の発生によって幸いにも5日まで好天が続いている。 当時パーテーの気象係を務めた大井氏の適切な判断でこれらの天候の好転を100パーセント利用し行動した。
前掲天気図 354、358, 366参照

「鹿島槍天狗尾根遭難の報告書から学び取ったこと(原文)⑮」から

「鹿島槍天狗尾根遭難の報告書から学び取ったこと(原文)⑰」へ

#学習院大学 #学習院大学山岳部 #学習院山岳部 #学習院山桜会 #山桜会 #大学山岳部 #高校山岳部 #登山 #アウトドアでたのしむ #アウトドア #山であそぶ #山岳部 #山 #鹿島槍ヶ岳 #鹿島槍ヶ岳天狗尾根 #遭難 #事故 #追悼

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?