見出し画像

あまりに雑駁な

私はいわゆる「ゆとり第一世代」に当たるらしいから、「ゆとり世代は円周率を三と教わった」とかいうデマ(ゆとり神話)がいまだに一部で通用しているらしいことにすっかり呆れている。「ゆとり世代」という括りが文脈上蔑称として機能しうることも最近まで知らなかった。つまり「ゆとり世代は打たれ弱い」という種類の物言いを好む人間が一定数あることを知らなかった。だいたいにおいて私は日本の粗雑で底の浅い世代論的言説の大部分に食傷して久しい。訳知り顔の若者論も、もうたくさんだ。そこからは「知性の怠慢」以外のなにものも感取できない。どうしても「もういいよ、その話は」となってしまう。「団塊の世代」の御仁はこの手の言説の垂れ流しにウンザリしないのかな。「金の卵」だとか「マイルドヤンキー」だとか「新人類」だとか聞いただけで、私などは、「すみません、もう結構です」とソッコーで立ち去りたくなるのだけど。だって面倒くさそうじゃありませんか。批判的で説教じみたトーンもめっちゃ不快だし。ほぼ同じような理由で私は、「インテリ」によるあの傲岸不遜な「キラキラネーム叩き」も大嫌いだ。

二二歳の秋のころ、こんどこそ本当に自死を「成功」させようと、抗鬱薬を何錠も一気に日本酒で流し込み、フラフラの千鳥足のまま、首を吊りやすそうな適当の場所を探していた。いま思うとその何もかもがずいぶん芝居がかってはいた(だいたい首を吊りたいなら自室でこっそり吊ればいいのだ)。彷徨の途中誰かから「携帯メール」が来た。「次の火曜日が休みなんですが、会えますか?」というふうな文面だったはずだ。自死はとりあえず中止することにした(そもそも携帯端末を部屋に置いていかなかった私には、どっちみち死ぬ気などなかったのだろうけど。自殺は生易しい企図ではない。これだけは本当だ。私はそのことを身に染みて知ったのだ)。そのメールの送り主は出会い系サイトで知り合ってまだ間もない年上の男で、隣県の港町に両親と同居していた。その濃厚な母子密着関係に異様な感を抱いたのを覚えている。彼は突然発症した極度の「対人恐怖」とそれに伴う「鬱病」の為に、ある大手の警備会社を離職し一年間ほど「自宅警備員」をしていたのだけど、その間に私と知り合い何度かドライブするうちに少しずつ復調し、やがて親のツテでバス会社に就職した。しばしば彼は変に極右ぶった「政治的言動」によって私を閉口させはしたものの、「根はそれなりに純朴」であり、知的教養には乏しいが苦労人的な枯れた風情があり、日本ハムファイターズの熱烈なるファンでもあった。それからいろいろあって、もう長いあいだ会ってはいないのだけど、もし生存しているならいまごろ四〇歳の「おっさん」になっているはずだ。ゲイだからたぶん結婚はしていないだろう。水割りのジャックダニエルを片手に独りでファイターズを応援しているのだろうか。天皇陛下万歳とか叫んだり、朝鮮人は日本から出ていけとか毒づいたりしているのだろうか。空気のよどんだかつての「子供部屋」には精液の臭いや寝汗の臭いが立ち込めているのだろうか。重度のアルコール依存症になって再度引きこもりに戻って親に暴力を振るったりしている可能性も大きい。人間の生というのはいったいどこまで悲しくてグロテスクなんだ、と嘆いてみても始まらない。ああもうやりきれない。いつか私小説めいたものでも書かないと、救われない気がする。喪失と抑鬱の煉獄を一生出られない予感がする。

村上春樹という人の書く小説は都会風の洗練が鼻についてどうしても好きになれなかった。人間であることへの呪詛や泥臭い狂気が乏しすぎる印象だった。形而上的思索性も薄い。閉塞的な日常のなかで徐々に奇形化していく心の有り様も見当たらない。たとえばシャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』のなかにあるような、あの薄気味の悪いイビツな群像描写を、私は好む。その救いの無い筆致の為に却って私はある種の倒錯した小気味の良さ、あるいは解脱的とでも形容するほかない不可思議奇妙な法悦的気分に浸食されるのだ。それにそもそもこのごろの私は、「僕」という一人称に特有のあの甘ったれた語感に我慢ならなくなってきた。春樹作品にはそんな「僕」がよく出て来るように思う。そのうえ彼らはやたらパスタを茹でたりしていないか。だからいい加減つい、「だまれ小僧!」(美輪明宏)と一喝してやりたくなってしまうのだ。ただそんなのは全てささやかな理由づけに過ぎない。文学の嗜好などはもっと直截というか、生理的な段階で瞬時に決定されているような気がする。「この人の書き物はなんとなく自分のために書かれている感じがしない。俺はたぶん読者としてこの人に選ばれてない」みたいに。好き嫌いなんてのはおおむねそんなものではないのですか。たしかに村上春樹はまごうかたなき「一流作家」だ。しかし一流作家だからといって全ての人間の地肌に合うとは限らない。もちろんその一流作家を好きになれないからといって、その人の「文学的感性」が劣っているわけではない。当たり前だ。でも意外とそういうことに鈍感な人がいるのです。困りますね。

ところで、ファラオ・サンダースの音楽は素晴らしいものだと思う。このごろ一人で飯を食っているあいだは彼のライブ音源をもっぱら聞いている。むかし学生時代はCDを大量に所有していて、気分次第でその都度好きな曲をミニコンポで流していたものだけれど、このごろではユーチューブという無尽蔵的なジュークボックスがあるから、そんなふうな物的所有も必要でなくなった。古い名曲名演奏も検索を掛ければ結構見つかる。相当に気持ちよくなれる音楽なら、私は何でもいい。芸術が爆発なら音楽は快楽だと心得ている。気持ちよくなれない音楽は音楽ではない。心地よくなれるなら、さだまさしでもエルヴィス・プレスリーでもボブ・ディランでもガムラン音楽でも鳥のさえずりでも何でもいい。私はこれまで何でも好んで聞いてきた。たかが「ジャンル」などに拘泥しているうちはいまだ音楽的差別主義者のそしりを免れ得ないのだ。

音楽と同じく、お酒も酔えれば何でもいい、という境地に私はある。流行りのうたなんかなくていい。ときどき霧笛が鳴ればいい。ほんとうはもっと通人ぶってうんちくを傾けたりしたほうがサマになるし奥行きも出るし、それゆえ自己愛などもよほど要領よく充足できそうなのだけど、やはりそんな野暮な振る舞いに私の真面目で潔癖な自意識はとても耐えられそうにない。世のいかにも酒に一家言ありげな連中も、目隠しされたらたぶんほとんどろくにその銘柄を当てられないに決まっている。白ゴマと黒ゴマの区別もきっと出来ない(そんなロクでもないゲームを何時間も繰り返すお正月番組がたしかあったね)。

たいがいの人は酒の銘柄を視覚的に確認したうえで酒を飲み、それから「ああやっぱり上質の酒は違うな」と「正しく賞味した身振り」をするのだ。庶民はいったいに微妙な味覚的差異には極めて寛容だから、みずからすすんでラベルに幻惑されようとする。そこが庶民の強みでありまた下品なところでもある。新しいというだけで、あるいは古いと言うだけでやたらとありがたがる例の習性も、ラベルへの盲信の一種なのだ。

「冗談いうな、みんなをお前と一緒にするな、自分こそは違いが分かる男である」という大沢たかお風の人も中にはいるかもしれないが、私としては、だからどうしたんだ、と反感を向けずにはいられない。それはむしろ「不幸なこと」ではないのか、と声を大にしながら言いたいのだ。すくなくとも「不便なこと」ではないのか、と意地でも伝えたいのだ。ミシュランガイドに掲載されている特定の寿司屋の職人のにぎった寿司でないと「美味」を感じ取れない味覚と、百円均一の回る寿司でも「美味」を感じ取れる味覚とでは、どちらが「上等」なのだろう。じっくり考えてみてくれ、どちらがより「幸福」だろう。どちらがより「安上がり」だろう。そもそもこの両者を「客観的」に比べることは哲学的に可能なことなのだろうか。有意義なことなのだろうか。このように、各消費者が財から受ける主観的な満足の度合いを経済学では「効用」と呼ぶ。「効用」はあくまで「主観的」な感覚だから、他者のそれと比較することはできない。一瓶一億円のロマネ・コンティを飲んで「ああやはり美味い」と感じるビル・ゲイツの「効用」と、一リットル一〇〇〇円もしない業務用のペットボトルワインをがぶ飲みして「ああやっぱり美味い」と感動する私の「効用」とを、誰が比較できるのか。ビル・ゲイツの受けた「効用」は私の受けた「効用」の何千倍などと、いったいどこの誰がどんな基準を以て判断し得るのだろうか。

ところで話はまた唐突に路線変更するが、エッセイとは「試論」にほかならないと私はつねづね考えているのだ。エッセイの基本的作法として私は、「快楽」をことのほか重んじる。それは新しく何かを開拓している者にしか分からない快楽であり、この種の快楽に乏しいエッセイはおしなべて「不毛」であると信じています。途中射精しそうなほどの興奮を以て文を綴りたい。的確の言葉をいちいち選び出すのが気持ちよくて仕様がないという、そんなふうにものを書いて行きたい。あらゆる「鬱屈」、あらゆる「劣情」、あらゆる「失望」、あらゆる「嫌悪」、あらゆる「欲望」、あらゆる「不安」、あらゆる「憤怒」、そしてあらゆる「歓喜」を全て言語化して、「私」をいつも暴力的に規定し限定するあらゆる〈既成事実〉から解き放たれたい。浄化され救済されたい。人は得てして何かから逃亡するためにものを書く。文学に耽溺する。えたいの知れない不吉な塊(梶井基次郎)の圧迫を逃れるために書く。自殺しないために書く。殺したいほど憎い人間を殺さないために書く。「永遠の女性的なもの」を追求めて書く。宇宙の永遠なる真理を浮き彫りにせんとして書く。こんなチンカス臭いことを、世界中の「文学青年」どもは、いつも飽きずに主張してきたのだ。私はそんな陳腐でしなびた系譜に出来れば連なりたくはない。あらゆる青年臭さに私はとほうもなくウンザリしているのだけど、このとほうもないウンザリ感さえきっと、絶望的に陳腐な感情に過ぎないのだ。「ああ、いかにもあのくらいの年ごろの人間がいいそうなことだ」「いい年していつまで君は悩める高等遊民を演じているのかね」「もう文学ごっこはやめなさい、見ているこっちが恥ずかしくてたまらない」。

それにしても、阪神タイガースは今年優勝できるかしら。先発陣の防御率が今のところやたらといいし打線もそれなりに繋がるので例年以上に期待できそうだけど、ペナントレースは過酷で長い道だ。とちゅう大型連敗が重なるとBクラス転落の可能性もじゅうぶんにありうる。阪神タイガースよ、君たちが優勝することは巷では竹に花が咲くことよりも珍しい現象と思われているのだ。そのことをいつも肝に銘じておきたまえ。スタートダッシュに成功しただけで調子に乗るなよ。周りもそう優勝優勝ともてはやすな。あと私はさしあたり佐藤輝明の打順は三番が適当と信じる。

もうそろそろ寝ないといけない。オナニーでもして眠れば大概の鬱屈は晴れるものだ。それでも晴れぬ鬱屈こそ真の鬱屈であり、そうした鬱屈こそ文学的欲望の発出点なのだ。

また会えたらいいですね。どうもありがとう。どうか生きていてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?