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私が愛する「失敗」したゲームたち。

一般的には「失敗作」と分類されていたり、あるいはそう呼ばざるを得ない、しかし独特の魅力を輝き放つ作品があります。

映画で言うと、『地獄の黙示録』、『天国の門』、『アギーレ 神の怒り』、『ポンヌフの恋人』といった作品たちです。『ブエノスアイレス』なんかもそうかもしれません。例えが古い。

殺し合い寸前。地獄と化した撮影現場。『アギーレ / 神の怒り』


これらは製作費オーバー、関係者の確執などなどのトラブルから現場が崩壊し、周囲に多大な迷惑をかけながら、会社の1つや2つ吹っ飛ばしながら、それでも何かに取り憑かれたように突き進み、常人が及ばない域に到達した映画作品たちです。

一般常識的には「失敗したプロジェクト」と呼ぶべきなのでしょうが、作品としては「駄作」ではない。

むしろ異様な魅力で人を惹きつける「傑作」として、これからも記憶されていくでしょう。

名門United Artists社を吹っ飛ばした『天国の門』。亡きチミノの再評価はあるのか


そしてゲームにも、輝かしき、愛すべき大小の「失敗作」たち。
作りたいこと、やりたいこと、見せたいことに、それ以外のファクターがついてこなかった作品たち。

私がプレイしたゲームの中から、記憶に新しい2010年以降の作品を中心にそれらを並べてみます。
時代が違うので、映画と比べると大人しめだし、それただの「ダメなゲーム」じゃないの、と言われても特に反論はありません。

いまにも壊れそうなレオス・カラックス、その才気。『ポンヌフの恋人』


「トライ」ではなく「チャレンジ」は常に失敗と背中合わせ。
だから「意余って力足らず」な作品にこそ、創作の輝きが詰まっていると思いたい。

どうか私のお気に入りの「失敗作」たちに、拍手を。




維新の嵐(1988)

今とは比べ物にならないくらい技術的制限がキツかった80年代なんて、ほぼすべてのゲームが「意余って力足らず」と言っていいはずで、クリエイターたちは自分のアイデアを形にすることに苦心していました。

ゴリゴリの光栄信者の私としては、その中でも天才シブサワコウの野心作、『維新の嵐』をこの栄光のリストの先頭に加えたい。

夜明けぜよ!


坂本龍馬や西郷隆盛などの幕末志士となり、幕末日本の思想統一を目指すのがゲームの目的です。

個人で歴史を動かすというコンセプト。しかもその手段は、説得による思想統一という、今現在やろうとしてもスーパー激ムズ難易度なウルトラC級の演目に挑んでいます。
つい2年前には『信長の野望 全国版』で、普通に武力で全国統一していたのに。生き急ぎすぎです。


なので、当時においても色々と無理があるゲームプレイになっていて、説得がスペースキーの連打というのは、信者の思い出補正をもってしても苦しい。苦しいです。

キーボードなんか壊しても、直して使えばいいぜよ!


今のようにゲーム制作のノウハウが共有されず、未整備だった時代。だからこその、ゲームで何ができるかという想像力の羽ばたき。
子供心に、なにかすごい未来が待っていると予感させる眺め。

私が「日本最強のゲームクリエイターはシブサワコウだ」というカルト思想に染まっていく上で、この作品の存在は大きかったです。

ちなみに「光栄信者の僕。シブサワ・コウ(襟川陽一)こそ日本最強のゲームクリエイターと呼びたい。」という頭のおかしい怪文書はこちら。

買う人はいないはずだけど、steamはこちら。



ゼノギアス(1998)

今回のテーマにもっとも相応しい作品。

目標には届かなかったものの、売上本数90万本と、当時としても商売的にまずまずの結果。緻密な世界設定と壮大なストーリーで、時代に爪痕を残した忘れがたきJRPGです。

そして多くのプレイヤーが衝撃と戸惑いの波にのまれる、みんな大好き、DISC2

唐突に始まるビジュアルノベル。それまでの思わせぶりな展開から一転して、プレイヤーを置き去りにして爆走、あっという間に背中が見えなくなるストーリー。
いやいやカレルレン、お前がなに言ってんのか、全然わかんないよ。

素人でも容易に想像がつきます。
明らかに未完成。


未完成であることはしかし、その作品に想像の余地を与え、観る者の心に強烈な印象を残すことがあります。

江戸時代の絵師、土佐光起は、次のような言葉を遺しました。
「白紙も模様のうちなれば 心にてふさぐべし」


安土桃山時代の絵師、長谷川等伯の『松林図屏風』は、そこにあるはずの松林を霧に覆うことによって、無限の宙の広がりを感じさせます。


盆栽は木が生きて育ち続ける限り、完成することはありません。だから日々、手を入れて作品を作り続けます。永遠に訪れることのない完成。

その未完成な余白こそが観る者、作る者の想像力を掻き立てます。


あるいは『スターウォーズ』。エピソード4~6だけを作り、残りを未完成としたことでそれは神話となり、そして余白を埋めることで、数多ある商業コンテンツたちの列に加わることになりました。

神話の終わり


その未完と余白が「未完の美」を生むのか、それともただ説明不足のポンコツに堕ちるのか。両者を分かつ線が何なのか誰も分からないし、つまるところ結果論なのかもしれません。

多くの場合は、ただの力不足や不手際から生まれる消化不良、正真正銘の「失敗」に収まることがほとんどです。

しかし『ゼノギアス』にはそれらのポンコツとは別つ「何か」があった。それが何かはよく分からないけど。

うぬは力が欲しいか


もちろんハッキリとさせておかないといけないのは、『ゼノギアス』は完成を目指したのに、未完成な印象に終わった作品です。
それがプレイヤーの記憶に何を残したのであれ、結果論に過ぎません。

だから盆栽とは違う。「成功」とは言い難い作品です。

しかしその「未完成っぽさ」がプレイヤーの想像力を掻き立て、ある種の凄みを湛えながら、今日まで語り継がれているのも確かでしょう。


それを生んだのは、常識や理性の器に収まりきらずに溢れ出てしまった創作への熱狂か、それとも単に進行管理の不手際か。

当時を生きた者としては、前者であると信じたい。




This is the Police(2016)

This is the Police』は引退間近の警察署長となり、町で頻発する大小さまざまな事件にうまく対処できるように警察署を運営しながら、賄賂などで私服を肥やすことを目指すという、なかなかパンチの効いたインディーゲームです。
面白そう!

このトレーラー(1分15秒)を見てくれ! 面白そう!

つまり経営シミュレーションのフォーマットで、コッテリしたストーリーを見せるというのが、『This is the Police』の狙いです。

しかし、これがあまりうまくいっていません。
不満点はsteamのレビューにてんこ盛りなので、それをご覧いただきたい。

ストーリーの性質上、通常の経営シミュレーションのようにひたすら拡大を目指すという指向性をとれないため、警察署をうまく運営していく目的が「ゲームオーバーにならない」以外に見出せないのが辛い。

メインのはずの警察署運営が、ほとんどフレーバーのように感じられてしまいます。


しかし個人的には、このフォーマットには大きな可能性を感じます。

リソース管理の楽しさが中心になる経営・運営シミュレーションゲームに、より恣意的なメッセージを乗せることができるという点で、このフォーマットでしか描けないものがあると思うのです。

だからナチス台頭の過程と、それへの抵抗を描いた『Through the Darkest of Times』などの後続作には、このスタイルをより完成へと近づけていってほしい。

ほぼ同じフォーマットで作成された『Through the Darkest of Times』


新たなスタイルが確立されていく、その来た道には無数の屍が咲いています。忘れられていく、その花たちに小さな感謝を贈りたい。



ファイナルファンタジー15(2016)

私はファイナルファンタジーにあまり思い入れはないのですが、その中にあって、『FF15』はかなり印象深い作品として記憶に刻まれています。

とはいえ世間からの評価と鑑みると「成功」とは言い難いのも、まぁそうなのかもしれません。

なぜ印象に残ったかというと、スクエニが、ファイナルファンタジーがオープンワールドを手掛けるなら、普通のオープンワールドにしたくないんだぜ、という気概を感じたからです。

それがうまくいっている、いないは別にして、業界最大手の一角でありながら、そういう、あるいは青臭いとも言えるパッションを滾らせられるのは、スクエアエニックスのいい所だと思います。

例えば良くも悪くも、EAにそういう滾りはないと思うので。


そういうパッションがやや空回り気味なのか、いくつかのコア要素が「ファイナルファンタジー」というブランドとの食い合わせが良くなさそう。

マップがスカスカだと言われるのも、おそらく車移動を発生させて4人の掛け合いを見せ、旅感を出したかったのだと思います。

ストーリーが終盤、リニアなものに収斂していくのも、何の責任も役割も負わずに生きていられた時代に別れを告げる、若者の通過儀礼を表現したかったのかと想像できます。

だとすると、国家の崩壊とか、世界の行く末といったお話を絡ませず、ただお嫁さんを迎えに行って家に帰る話の方が輝いたのかも。

でもそれじゃ「ファイナルファンタジー」じゃない。


いろいろ事情があったのかもしれませんが、本来の予定通り、『FF13』のスピンオフとして作られた方が、より魅力を発揮できたかもしれません。
そのつもりで作ってたのでしょうし。


スクエア時代からの「改革者たれ」という家訓が、業界大手、株式会社スクエアエニックスホールディングスとしての常識や理性、そしてビジネスと擦れ合って、痛い痛いと泣いている。

道中の仲間との何気ないコミュニケーション、楽しい食事、気だるく流れる車中の時間。
この作品でしか味わうことのできない素晴らしい体験が、その痛みとともなって、『FF15』には独特の魅力が揺蕩っています。

かつての東欧映画のように、痛みからこそ生まれる綺羅星もあるのではと思わせる、印象深い作品でした。



クワイエットマン(2018)

主人公は耳の聞こえない少年デイン。ゲームは彼の世界を再現するため、ほぼ無声。字幕も表示されません。
プレイヤーは映像のみで状況を把握していく必要があります。
おまけに映像は全て実写(!)。

この時点で「やるな、お主!」という期待と、「おいおい大丈夫か?」という不安が交差するわけですが、結果は見事なまでの大玉砕。
国内外のメディアに酷評レビューが飛び交ってますので、興味のある方は検索してみてください。

E3でのトレーラー(1分30秒)はこちら。面白そう!
これは名作のオーラが漂ってるで!


映画やドラマでは、視覚や聴覚などに障害を持つ登場人物が出てくるのは珍しくありません。視聴者は状況を理解した上で、心配げに登場人物を見守ります。

クワイエットマン』はゲームとして、耳が聞こえない人物をプレイヤーが演じることで、映画などで描かれている世界が彼らからどのように見えているか、そこから何が生まれるかを探ろうとしました。

ゲームが何を表現しうるかという命題を探るための果敢な試み。
で、豪快に失敗してしまったわけですが、でも、やってみないと分からないことってたくさんあるから。


音情報だけを頼りに車を運転する『Blind Drive』のように、実写映像ではなく、もっとゲームシステムを露わにした表現の方が良かったかもしれません。
でもそれはHuman Head Studiosのやりたいことではないのでしょう。

無声版と音声版を時間差で提供するという、パブリッシャーであるスクエニの売り方も、確かに良くなかった。

大好きなおばあちゃんとのご飯に間に合え! 『Blind Drive』


ゲームは表現手法のポテンシャルを多分に余しているジャンルだと思うので、「とりあえずやってみようぜ」という精神はまだまだ必要だと思います。

だから『クワイエットマン』のように、ジャンルの境界線を探ろうとする調査兵団には、マーケットもコミュニティも寛容であってほしい。

今回は失敗だった。でも次、頑張ればいいんだよ
まぁ、次はなかったわけですが。



Lucifer Within Us(2020)

個人的に推理ゲームは、ゲームについて考える上で非常に示唆を与えてくれるジャンルです。

ゲームの強みは作品の中にプレイヤーを取り込むことができることですが、それは同時に弱点ともなり得ます。

なぜならプレイヤーは凡人だからです。
凡人に、推理小説の名探偵のような天才を演じさせるにはどうしたらいいのか。各推理ゲームは苦心しながら、その命題にアプローチします。


一番コンサバティブで古式ゆかしいアプローチは、つどつど提示されるミニクイズに正解し続けることで、やがて真相に辿り着くというものです。

でもこれは本当にプレイヤーが事件を解決したと言えるのか、プレイヤーに名探偵を演じさせることができたと言えるか、という疑問は残ります。

その発展形として、『逆転裁判』や『Tangle Tower』のように、「証言と証拠」などといった複数の要素の組み合わせを選択させるという形式があります。
この場合は、その組み合わせのパターンが多数になるため、当てっずぽうで正解することが困難になり、よりプレイヤーの推理力が試されます。

しかしこの形式にしても、一局面をそのつど打開しているのに過ぎないという点では、根本的な解決とはなりません。

『Tangle Tower』。文章の穴埋め問題をうまく使っている。


推理ゲーム界隈でいま一番ホットなのは、『Return of obra dinn』や『The Case of the Golden Idol』のような論理パズル。環境ストーリーテリングの延長線上にあると言える形式です。

これはこれで問題がないわけではないですが、この形式の優れているところは、プレイヤーは事件全体を俯瞰する視点を必要とすることです。

現状では推理ゲームファンに最も評価されている形式と言えます。

埼玉在住の天才、Lucas Popeの歴史的傑作『Return of obra dinn』


この列に加わるはず、だったのが、未来世界を舞台にしたミステリーゲーム『Lucifer Within Us』です。

まずは超面白そうなトレーラー(1分)を見てくれ!
どいつもこいつもトレーラーは本当に面白そう!


この作品の必殺技は、事件前後の現場の状況を、動画編集ソフトのようにタイムラインを操作して映像として確認できることです。

全ての状況が映ってるわけではないので、容疑者の証言をもとに矛盾や嘘を見出して、正しいタイムラインを完成させ、犯人を締め上げることを目指します。

どういう理屈で映像が再生できるのか忘れましたが、未来世界なので、そこは深く考えてはいけない。

タイムライン上の黄色いところが証言が矛盾してる箇所。誰かが嘘をついている。


これが素晴らしいのは、『obra dinn』や『Golden Idol』が苦手としている、事件の時系列構造が、かなり明瞭化されることです。

しかしこの『Lucifer Within Us』は、致命的な欠点を抱えています。
物量が圧倒的に足りてないのです。

ミャクミャク(大阪)の親戚も参戦!


まずストーリーがあまりに短い。
ここで終わるの!? とビックリするくらい短い。
ホワイトベースがサイド7を脱出し、これからシャアが来るぞ、というところで終わったような感じです。デニムとジーンを倒しただけで終わり。

SFとオカルト、サイエンスと宗教をごちゃ混ぜにしたような世界設定は素晴らしかっただけに、もっと堪能したかった。

そして致命的なのは、一つの事件につき、容疑者が最大でも3人しか出てこないことです。

誰が犯人かという結論よりも、それを導き出す過程に意味があるのは分かります。
しかし、あまりに容疑者が少ないため、容疑者同士の論理矛盾の構造が極めて浅くなってしまい、素晴らしいタイムラインシステムの良さが活かせていません。

犠牲者が5人しかいない『Return of obra dinn』を想像してもらえればいいと思います。


私はゲームボリュームの多寡はほとんど気にしませんが、この『Lucifer Within Us』で、量(クオンティ)の少なさが質(クオリティ)の毀損に直結するパターンを初めて見ました。

バジェットが足らず、この一作で評判が良ければ続編を作るという予定だったのかもしれませんが、そもそもその魅力が伝わりにくい。
これは本当に残念。

ただタイムラインシステム自体は実に素晴らしいので、推理ゲームに興味ある気高き聖戦士殿は突貫してみてほしい。



orbi universo(2020)

orbi universo』は、人類文明の歴史をノードを使って表現しようという、これまた期待と不安が合い半ばする作品です。

まずはこのトレーラー(1分30秒)を見てくれ!
この壮大さ。これはおいらの知的好奇心を満たしてくれる、約束された神ゲーに違いないでしょ!


orbi universo』は、実際のゲーム画面を見ていただければお分かりいただける通り、時折インディゲームで見かける、商業性にプイッと背を向けたストロングスタイル。

個人的にはもう、この画面を見ただけで、ときめきメモリアルなわけですが、どう見ても売れなさそう。


各ノードの関連性は、人類史における相互作用を反映していて、例えば上の画面で言うと、「信仰」を上げれば「安定性」は上昇しますが、反対に「陸上貿易」と「海上貿易」は低下してしまいます。

時代が進めば、新しいノードがポコポコと出現していくので、プレイヤーは自文明の状況に合わせて、ノード間の関係に注意しながらリソースを調整する必要があります。

このような手法で人類文明の発展の歴史を表現しようというのは、非常に野心的な試みであると言っていいでしょう。


で、どこら辺が「失敗」なのかと言うと、プレイに多様性がないの一言につきます。


ゲームスタート時、プレイヤーは担当する文明を選択できます。
黄河、インダス、アステカ、アメリカ東海岸、日本など、様々な文明が用意されているのですが、どの文明を選んでも、ゲームプレイにほぼ違いが生まれません

海岸線の長短や気候などの初期値によって微妙な違いがるものの、ヨーロッパも新大陸も、アジアも中東もほぼ同じプレイ。

「人類文明のシミュレーション」というお題目を鑑みれば、これはいただけない。


こうなってしまう要因はハッキリしています。
人類文明全体を統一(グローバル)ルールで記述しようとしているからです。


Paradoxの『Europa Universalis』は、カトリック、プロテスタントや、シーアやスンニなど、各宗教ごとに個別のゲームシステムを用意しています。
また、神聖ローマ皇帝や室町幕府末期(戦国時代)の日本などにも、専用のゲームシステムが宛がわれています。

つまりローカルルールをたくさん作って、それを合体させることで世界を記述しようとしているのです。

これはこれで、いろいろ問題が噴出していますが、文明や国家の多様性を表現しようとするならば、無難なアプローチであることは間違いありません。


orbi universo』はそれとは逆で、全ての文明をノードを結びつけていくゲームシステム一本で表現しようと試みました。
民主主義も独裁政治も、大陸文明も海洋文明も、すべて統一されたグローバルルールで再現しようとしたのです。

そりゃあ、どのゲームプレイも似通ってきちゃうよね、という話です。

orbi universo』の「失敗=ゲームプレイの多様性の少なさ」の要因はまさに、このグローバルルールにあるのは間違いありません。
しかし同時にそれこそが、『orbi universo』の素晴らしい点でもあると私は思います。


確かにローカルルールを繋ぎ合わせれば、表面上の事象は再現できます。
プラグマティズムに割り切ればそれで事足りるのかもしれません。

しかし推理ゲームでミニクイズに正解し続けることが、その事件全体を把握して解決したとは言えないように、個々の文明や国家をスクリプトで再現してそれを繋ぎ合わせても、世界全体を記述したとは言えないでしょう。
そこには全体を司る、見えざる手があるはずなのだから。

統一場理論、ジェイムズ・クラーク・マクスウェルから始まる物語


この世界のありようを知りたい。
私たちが見ている、この流れの源に触れてみたい。

それは私たちの先祖が、空を見上げて「世界」を発見したあの日から、綿々と受け継がれつづける知の旅の原動力です。

物理学界が何度も失敗を重ねながら、大統一場理論の完成を夢見るように、この世界を司る大きなシステム、グローバルルールの正体を追い求めることは、人の本能とも言えるもの。

ゲーム界にもそのような視点を持つ作品がある。

『orbi universo』は失敗です。プレイに多様性がないから。
失敗だから価値がない?
私はそうは思わない。


↓Paradoxが満を持して挑むグローバルルールの構築、『Victoria3』

↓『orbi universo』のsteamこちら



Chorus(2021)

スターウォーズやマクロスとかで、デカい敵戦艦に飛び込んで大暴れする場面があるじゃないですか。

戦艦の懐に飛び込んで、艦の中枢システムまでバババーッと突っ込んでいって、バリバリバリと中枢を破壊。艦の誘爆が始まるので、ガガーッと脱出して、ギリギリ離脱したところで、後ろで戦艦が爆散、ドドーン。

やったぜ。

Chorus』はそんなゲームです。

まずはこのトレーラー(1分15秒)を見てくれ!
これはすごい。男子の夢のようなゲームでしょ。今度こそ間違いないで!


実際のところ、『Chorus』の三次元全方向ドッグファイトは良くできていて、プレイヤーが期待する「どうよ、このカッチョイイ俺のプレイ」を具現化できます。
ドリフトをギュンギュンに効かせながら、有利なポジションをとって、敵をバコーンですよ。

ナビゲーションに難ありなのが玉に瑕ですが、ぜひ多くの人に体験してもらいたい、本当に素晴らしい出来。


で、何がダメなのかと言うと、それ以外全部です(泣)。


ストーリー、広大なマップ、フリーミッション、NPCとの会話、ムービーなどなどが、あまり良くない。

それも目もあてられないほど酷い、というのではなく、中途半端にフワフワしてます。無味無臭な感じ。

なので、メディアとユーザーの双方からそこを突っつかれて、評価がイマイチ。評価が低くて誰もプレイしたがらないから、三次元全方向ドッグファイトも日の目を見ない。

ナラ、お前と戦いたかった。


これは想像ですが、『Chorus』はDeep Silver社の中でもそれなりの期待を背負って開発された作品だったこともあり、「大作」としての体裁を整えるために、オープンワールド的な要素を取り込まざるを得なかったのではないか。

本当に想像ですけど。

本来、ワンイシューでいくべきだった企画が、「大作」であるために、中途半端に要素を足して味がぼやけてしまうのは、『フォースポークン』にも感じたパターンです。

あくまで印象ですが。


私たち凡人が何らかの超人となり、自分の力で世界を変えていく。それはゲームだけが提供しうる体験です。映画もアニメも私たちは傍観者に過ぎないのだから。

Chorus』の三次元全方向ドッグファイトは、その理想の一つと言えます。それが評価されないまま埋もれていくのは本当に残念。



「失敗」にこそ、人の本質がある。

維新の嵐』の時代ならいざ知らず、今はゲーム制作のノウハウは精査され、情報共有も進んでいます。プロモーションのノウハウなども同様でしょう。

もちろん依然としてゲーム制作は大変で、難しいプロジェクトに違いありません。
それでも昔と比べると、「成功」はしないまでも「失敗しない」ハードルはだいぶ下がっていると想像できます。


しかし「どうすれば失敗しないか」、「どこまでが安全圏なのか」が分かってしまうと、そこをはみ出して行く理由を見出すのは、なかなかに難しいはずです。
組織で動いているなら、尚更。

私がスクエニと『FF15』に一定のシンパシーを感じるのは、まさにその点です。

私は戦争映画が撮りたかったのではない。戦争そのものがしたかったのだ。
頭のおかしいコッポラおじさん。『地獄の黙示録』


「常識の範囲」というものが、どこからどこまでなのか。
有効性が実証されているものが何なのか。

分かってなお、それを振り解いて立ち向かうほどの情熱があるのなら、その時点でそれは本当に特別なことなのだと思います。

それは羨ましく。
私の中からもう、消えようとしているものだから。


私は『orbi universo』のゲームプレイに多様性がないのは、グローバルルールで世界を記述しようとしたからだと、偉そうに書きましたが、制作チームがそれを予見できないはずはないのです。

なぜ、分かってなお、そうしたのか。

だって、作りたかったからだよ!


めちゃくちゃなプリプロ。めちゃくちゃなストーリー。
それを雰囲気で押し切るウォン・カーウァイ。『ブエノスアイレス』


安全圏を飛び出す以上、そこには失敗が口を開けて待ち構えています。
それでも常識や理性では収まりきれなくて、挑むことをやめられない。

だから「失敗」にこそ、人を人たらしめる本質があるのだと、そう思わずにはいられません。

最大級の敬意を込めて。
私が愛する「失敗」した作品たち。


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