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【雑記】お盆とウチの家紋の話

 日本全国この時期は「盂蘭盆会うらぼんえ」、皆さんもお盆でお墓参りをしているのではないでしょうか。
かく言う私も昨日は京葉道路を一路南下して房総南部の実家に行き、そして夕方の早いうちに菩提寺のご先祖をお迎えに行ってきました。
お盆は毎年夏の恒例行事、小さい頃からの私の夏の思い出のひとつでもあり、そのうちここの本題、趣味の自称児童文学大多喜無敵探検隊-since197Xでも、いずれお盆ネタでお話を作りたいと思っております。

 まぁー「大多喜無敵探検隊」は一先ず置いておき、話を戻します。
ウチの菩提寺は実家から近いので、お盆の際などは基本的に徒歩で往復し、提灯ちょうちんを灯して実家までご先祖衆を引率(?)してくるわけなのですが、まぁ~ここ数年は我が母も老いてきてますし、さらに昨日は台風の影響で天候も安定しなかったので、精々徒歩で5~6分の菩提寺なのに私の車で乗りつけ、そしてお墓の石灯籠いしどうろうに灯した火を提灯ちょうちんに移したのちは、その火の灯った提灯ちょうちんをリアシートに座るバァーサマ(老いた母)にしっかりと持たせ、また車で帰ってきました。家族だけではなく先祖衆みーんなまとめて車に詰め込んで来たってことですな、これが令和の21世紀クオリティー、どうだ驚いたかご先祖衆!
ウェーイ\( 'ω')/ウェーイ
そんなわけですので霊能者が見れば、まるで未開の地かと思えるほどの定員オーバーぶりだったに違いありません。
そんなウチの提灯ちょうちんはこれです。

(家紋2つ入りのちょっと物々しい提灯、しかも2つの家紋とも分かる人には分かる筋金入りの戦闘民族の紋章なのでした。)

この提灯ちょうちんは、一応防水加工は軽くされているようですが、所詮は和紙なので雨に強い筈がなく、車で行き来して正解だったと思います。墓参り中も何度かザッと雨が降りましたしね。。

(現在のウチの家名表記は「佐奈田」ではなく「眞田」に変わって久しいです、なんでもどこかの時代の帝のお達しで漢字表記が三文字から二文字に略されて云々とか聞きました、マジかよその時代のミカド〇〇ばいいのに!)

そしてこの提灯ちょうちんの両脇のデカい家紋は拝領紋でして‥、実は遠い昔に、鎌倉幕府を興した源頼朝みなもとよりともさんから先祖が褒美でいただいたものだそうです。
家紋の名称は「丸に笹竜胆」、源氏の主だった方々と共に鎌倉幕府を表すエンブレムでもあります。
(背後の小さい家紋はウチの元々のもので三引両、裏紋と呼んでます。)

 この家紋は、昭和の後期までは我が家と、ウチより古いたった一軒だけしか使えなかった家紋だと聞いております。
なによりその当時、源頼朝さんの一族でもないのにこのシンボルマークを掲げられるということは「武士の誉れ」以外の何物でもなかったのではないでしょうか。だって武士の世を築いた源頼朝さんから直々に貰ったんですよコレ!きっと末代までの誇りと思っていたんじゃないでしょうかね。
‥そうは言えど武士のヒエラルキーの頂点である彼の源頼朝さんからのせっかくの褒美ならば、家紋もいいけど札束とか金銀財宝のほうが子孫のハシクレの私としては嬉しかったなーと毎度チラッと思います
(∀`*ゞ)エヘヘ

 まぁバチ当たりな冗談はさておき、この拝領紋の由来について差し支えのない範囲で少々書きますと、2023年の現在から遡ること843年前の旧暦1180年9月3日、太陽暦では10月6日、頼朝さんに味方するウチの先祖含めた源氏の軍勢と大豪族「長狭ながさ氏」が衝突した一戦場いっせんば(鴨川市)でのいくさで、某かの武功もしくは救出業務の褒美としていただいたと云われております(武功、救出それぞれの伝承あり)。そして源頼朝さんと、とっても仲が良かったと聞く同族の佐奈田与一さなだよいちさんとのことも絡んでいるのかもしれませんねぇ‥、その時代のうちの直系の先祖は、佐奈田与一さんと親族、遠縁の親戚から過去に聞いたところでは義理の兄弟(従兄弟?)だったようです。
その与一さん(佐奈田義忠さなだよしただ)は、頼朝さんが安房に落武者してくる直前に、石橋山の戦いで戦死しました。
あぁ、世の無常よ‥。

(佐奈田与一はこんな人です。死んだ弟のクニオに何気に面影が似ているような気がします。)

あー、そしてこの拝領紋については、実はもう一つ由来があります。
それはずっと時代が下った戦国時代、ウチの直系の先祖が正木氏の重鎮やってた頃に、勝浦城から正木時忠さんやお万の方の脱出を手助けした褒美にと、正木時忠さんからウチの家伝に基づいてこの紋をいただいたそうです。
この時の脱出作戦の逸話は、勝浦の昔ばなし「お万の布ざらし」として、今も地域に語り継がれております。

源頼朝さんか正木時忠さんか、どちらにいただいたのか今となっては正直なところ私でさえも明確に判断がつきませんが、いずれにせよその時代のエラい方から褒美としていただいたというのは間違いはないようで、故に昭和が終わり平成になるまで、2~30軒ほどある房総の同じ眞田の衆の中でも、ウチを含めて二軒だけしかこの家紋を使うことが出来なかったのでしょうね。
‥でもよくよく考えたら、正木さんが自分の部下だった当時のうちの先祖に、自分より格上の家紋を拝領紋として渡すわけはないので、やはり源頼朝公からの拝領紋っていうのが正しいのかもしれないなぁ。
いずれにせよ安房地域では、源頼朝公から名字や地名を貰った伝承が数多くあるのです。うちの家紋の話もそのひとつでしょう。

何はともあれ歴史の盲点、我らが房州佐奈田家よ永遠なれ!
( ・`д・´)キリッ

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