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短編 / 深海魚はバレリーナの夢を見ない

しまったと思った瞬間、もう遅かった。
手からフォークが滑り抜けてカップの淵に当たり、カシャンと音を立てた。これでこの日の勝負は僕の負けだ。偏屈ジジイの視線がサッとこちらに向くのを肌で感じた。
僕はリスニングルームを退室した。


ここは喫音堂という。サービス業の看板として掲げるには少々危なっかしいネーミングセンスの喫茶店だ。

店名にも記されている通りこの店の客が嗜んでいるのは茶というよりもむしろ音のほうであり、店内奥にはクラシック音楽を鑑賞する為の専用のリスニングルームが備え付けられている。一昔前にはよくあったとされる名曲喫茶というタイプの店である。
僕はその時代の人間ではないので同業の他の店と比較することは不可能なのだが、ともかくこの喫音堂についてはその部屋に入室する者たちに様々なルールを課しており、いうなれば注文の多い喫茶店なのである。

配慮を欠いたその店名の響きの通り、偏屈な店である。
そしてひどく偏屈なジジイが店主である。

リスニングルームに入室する為の条件として、まず小型の電子機器いわゆるスマートフォンなど、当然パソコンも使用が禁止されている。この辺りは序の口である。
次に室内において、何か書き物をする際には指定された窓際の席でしかその行為は許されない。また部屋の中では物音が立つことから上着の脱ぎ着が禁止されており、入室前の扉に「上着はここで脱いでください」という看板までご丁寧に備えられている。もちろん室内での会話は厳禁となっている。

一応、会話を希望する客の為に小型のカウンターがある別室が用意されており、そちらではコーヒーと会話を楽しむことができる。がしかしここでも「小声で」との条件が付く。

また、書き物自体は可能な席があるとは言ってもボールペンによるノック音、筆記具と紙が擦れる音などに細心の注意を払うようにという細やかな指示まで記載されている。
極めつけは、リスニングルーム内のすべてのテーブルの上に設置されている「この席は何もせず静寂を保てる方のみ利用が許されています」という手書きのメモである。手書きなのである。ここまで来ると執念すら感じる。

しかし一応ここは喫茶店なので、注文は可能、というか必須になっており、何もするなと言いつつ飲食はする必要があるのだから不思議な話だ。まぁ曲がりなりにも喫茶店なので仕方のないことなのだが、「長時間滞在する場合は追加のオーダーを」とメニュー表には記載されている。僕はそんなに長時間ここにいたことはないのだが、追加の注文をせずにずっと滞在していたら、やはりご丁寧にお声掛けがあるのだろうか。


陰口を叩くような説明になってしまったが、僕はこの店のこういったシステムが意外と嫌いではない。恐らく、いや間違いなく、世間一般的には喫茶店でこのようなルールを課してしまうと某ナビゲーションサイト等々のレビュー欄において酷評の嵐が吹き荒れるであろうとは理解している。もしくはSNSで民衆からの火付けに見舞われ毎日が火炙りの公開私刑となるだろう。実際この店のネット上での評価は少々荒れていたような気もする。

しかし、一応この店のこういったルールは喫茶店という体裁を保ちながらクラシック音楽を客に楽しんでいただくということを第一に優先した、ある種尖りまくったルール設定という解釈もできるので、喫茶店なりカフェなりこの世に溢れかえるほど存在する中で、こういった偏屈な店が1つくらいあってもいいのではないかと僕は思っている。
時代が変わるほど時が流れても頑なに変えないこだわりの行き着く先は偏屈なんじゃないか、そういうものなんじゃないだろうか。

とはいえこの店の偏屈なジジイには困ったものである。

客が入店しても、まず「いらっしゃいませ」が言えない。それどころかお前はこの店に一体何しに来たというような目線を向けてくる。僕はジジイが何か不快な言葉を発する前に「リスニングルームを使用したい」と先手で申し出る。
このジジイには常連客への気遣いという概念はないので――いや客の顔は覚えているかもしれないがそもそも客への気遣いという概念がないので、ここ一年の間に何度か店を訪れているこの僕に対しても初見の客と変わらず注意事項をぼそっと述べる。
しかしこの店の注意事項は先述の通り多岐にわたり、文章量としてはなかなかの量になるので、最低限を確認した後は「入口横の注意事項を読んで問題ない場合だけ入室してください」と無愛想に指示される。

このジジイとは碌にコミュニケーションを取ったことがなく顔を覚えられているのかどうかも正直曖昧なので、この店の仕様について理解をするつもりがない客だと思われるのが癪なのもあり、僕はご丁寧に毎回その壁の注意書きを読み込む振りをある程度ちゃんとした後、きちんと上着をジジイの目の前でうやうやしく脱いでから入室をしている。曲がりなりにも若者なので、その際に必ずスマートフォンの使用禁止について刺々しく確認されるがそれにも丁寧に使用しませんと答えている。

僕にとって、この扉の前でのやりとりはいうなればジジイと僕とのバトル開始のゴングであり小手調べなのである。

さて、長々とこの店の悪口ばかりを連ねてしまったが、一応本来のこの店のサービスとして長所も紹介しておかねばなるまい。

リスニングルームは長々としたルールを課すだけはあって、入室を許された者には最高の環境が用意されている。
個人の自宅ではおよそ用意ができない大型のスピーカー、というのか何と呼ぶのかもよくわからない大型の音響設備が備えられており、どの席に座ってもその音質が楽しめるようになっている。また、いい音響というのは――僕もこの店で初めて知ったのだが――どれだけ大きな音が響いていてもそれが耳に、鼓膜に障らない。不思議なものである。
音の津波に揉まれるようになりながらも、それによって体のどこかが壊れそうになるような感覚はない。水に包まれて静かに沈んでいくことができるのだ。

そして、この部屋の座席がまた素晴らしい。
書き物が出来る窓際の席以外はソファーになっており、雑な劇場のように前方の音響設備のほうを向いて並んでいる。
このソファーがまた何とも心地が良い。あれだけ音を立てるなと注意しているくせに、このソファは革張りになっていて、ちょっと動きを誤るとむぎゅっと革の擦れる音が鳴るのが難点だが、小柄な人なら体を縮めれば横になれるぐらいのゆったりとした二人掛けのソファーはふかふかとしていて腰回りを程よく受け止めてくれる。また色が真っ黒なところも、なんとなく"宙"よりかは"無"を思わせ、無の空間に身体を預けるような、そういった心地よさがある。無に身体を完全に預けて力を抜いていると、誰かが後ろの通路を通った時には床の揺れがソファーを通じて伝わってくる。

これは僕の主観なのだが、宙に浮くというのはまだ落ちることができるという点でどうも心許ない。どちらかというと、下に落ちて沈んで可能であれば底までこつんと辿りつきたい。何か大きなものに押し止められたり、受け止められたりする方が、僕にとっては心地の良い無力感・脱力感なのである。

なので、この黒い革張りの、少し失敗をすれば嫌な音の立つふかふか柔らかいソファは僕にとって理想の虚脱の場であり、
音が津波となって自分個人のことも押し流してくれるような、かと言って攻撃されずに何かを損なわずに包まれるような感覚のこの部屋は、入室に際してあれだけルールを課せられるにも関わらず、理想的な癒しの空間なのである。

ジジイが水をサーブしてくれる。
客にあれだけ注文をつけるのだから、当然店の方も万事隅々に気をつけており、砂糖瓶・ミルクポット・カトラリー類、全てにおいてテーブルに設置した際に音が鳴らないように対処されている。
瓶や陶器の底には革製のコースターが敷かれ、カトラリー類の持ち手にはテーブルに直接接しないよう小さいゴムの箸置きのようなアクセサリが付けられている。さらに飲み物のカップ以外は木製の食器を使用という徹底ぶりだ。
その上サーブする人間のほうも手慣れている為、実際に物音は何一つとして立たない。
その光景を目の当たりにする度に、夜の街のサービス業の人間は音が立たないように自分の小指でワンクッションをおいてからグラスをテーブルに置くという話を思い出す。僕が実際にそういった店にお邪魔した経験は一度もないので聞きかじった想像に過ぎないのだが。

意外なことに、この店はこのリスニングルーム内でも甘味などの食べ物の注文ができる。またそれが結構なかなか美味しいのである。
この店にたどり着くまでの間、脳内の処理で負荷がかかっていた僕はここでちょっと自分の脳に褒美を与えたくなり、今日は甘味を頼むことにした。

時計の針が天を指す。時刻は正午を回った。世間的にはお昼の時間である。
"彼女"がコーヒーと甘味をトレーに載せて現れる。

古臭い町の古臭い店に似合った話だが、この店の女性スタッフ(といっても見知った限り一人しかいない)は古めかしいシックなデザインの給仕服を着ている。給仕服と言ってもいわゆるメイド服というような装いではなく、シンプルなワンピースの延長というような雰囲気だ。女性の服の呼び名のことはよく分からないのでそれが正確な例えなのかは怪しい。

そのシックな給仕服が、まるで彼女のためにデザインされたのか、もしくは彼女が自分のためにそれをデザインしたのか、はたまた彼女がその服にあわせて自分をデザインしたのか
初めて彼女を見た時にたった一目でそれだけの思考が巡った。

この偏屈な店がギリギリ潰れないで生き残っているのはジジイのあり余る偏屈成分が恐らく彼女の存在によって中和されてバランスが保たれているからではないかと僕は常々考える。接客面においてはこの店唯一の良心と言っても過言ではない。
特別愛想がいい、愛嬌に溢れているというわけではない。むしろ一般的で普通なのである。この店の常軌を逸した偏屈さの中でその存在が際立っているというだけで。
また特別容姿が華々しいということもない。むしろこの店のシステムが必然的にそれを求めるように、非常に控えめな存在である。
給仕服の大部分が黒い色で占められているというのもあって、カウンターの奥の方に控えて座っている時なんて、薄暗いこの店の隅でそのまま薄闇に紛れて溶けて消えてしまうんじゃないかと想像する。

シフト制なのか彼女はいつも途中から現れる。僕はいつも定例の用事の後にここに寄る為、ジジイに注文したものを後から来た彼女が運んでくるというのがお決まりのパターンになっていた。

しかし今日はいつもと違うアクシデントに見舞われた。先述の疲れから手が震えて細いフォークをうまく扱えず、あっと思った拍子に細い銀の棒は僕の右手をすり抜けて、運悪く唯一の陶器のコーヒーカップの淵にぶつかった。
カシャン、と静かにされどしっかり響く音が鳴った。

これでこの日の勝負は僕の負けとなった。というか初めて負けた。偏屈ジジイの視線がサッとこちらに向くのを肌で感じた。
僕はリスニングルームを退室した。

"別室"のほうに移動しても構わないのだが、ジジイとの勝負に負けた以上、今日のところは居心地が悪いのでコーヒーの残りだけさっと楽しんで帰ることにした。

帰り際、支払いを済ませようとレジ前に立つと、彼女から声がかかった。
「ご配慮ありがとうございます。包みましょうか?」

彼女のそれまでの接客は決して失礼ではないものの、無駄を削ぎ落とした、悪く言えばロボットのような繰り返される一定の形となっていた為、その揺れが無い表情も含めて彼女は実は不気味の壁を越えた最新型のアンドロイドなのではないかという悪ふざけを心の中でいつもこっそり楽しんでいた。
そのぐらいいつも変わらず淡々と接客をしていたのが、今回突如として差し出されたその一言の配慮に僕は非常に驚いて度肝を抜かれ、つい思わず断ってしまった。
この店唯一の良心による類まれなる気遣いだったというのに。申し訳ないことをした。



毎月第3月曜日、午前10時、
清潔感のある明るい部屋。
敢えて向かい合わないよう設置された緑のソファが2つ。

カウンセリングが始まる。

今から約1時間、僕は自分の脳内に閉じ込められたように、その部屋の中で自分の内臓に手を突っ込んで掻き回し、毒素を引きずり出すようにして、自分の過去、今の自分を構成してきた身の回りのありとあらゆる物事、人間関係と向き合う。

自分に興味などなかった。正確に言えば、目を向けたくなかった。認識したくなかった。だから長年ずっと無視をしてきたのだが、人として逃れられないことから逃れようとすると、やはりいつか壊れてしまうらしい。

僕は人生のとあるタイミングでずっと逃げ回っていた自分自身に捕まったのだった。

カウンセリングルームの中には自分とカウンセラーしかいない。
会話も基本的には自分がずっと話している。話が途切れてしまった時に、相槌を打つなどして僕から何か話を引き出す役としてカウンセラーがいる。
なので構造上どう転んでも、誰かに何かを一方的に語りかけられる、話を聞いてばかりというような状況には一切なり得ないのだが、
その部屋で1時間自分を見つめ続けた後、語り続けた後、いつもいつも無性に人から離れたくなる。
人の言葉や会話、人が発する音すべてから離れてしまいたくなる。逃れたくなる。

誰かに何かを言われた訳ではなく、当然道行く人々が自分に何かを語りかけてくる訳もないのだが、街の音の全てが五月蝿く、聞こえないはずの声が煩わしく、また実際に聞こえてくる人々の声も――どこまでが本当の声かわからないその全てが、僕の体を小突いてくるように感じる。
攻撃ではないのだ。ただただコツコツと体に障り、引っかかり、流れ落ちていくだけ。
でも僕はそれが苦しく、今すぐこの世界から逃げ出したいという風に毎月、毎月、思っていた。

特に疲労を感じたある日のカウンセリングの後、とてもじゃないがこのまま家に帰る気力はなく、何か大きく力を抜いて、息を吐いてからじゃないと、どうやって帰ったらいいか解らないとまで感じた。

そんな時に入店したのが喫音堂だった。

店の存在は知っていた。単純に喫茶店として別室のほうを利用したことがあったからだ。
しかしリスニングルームのほうは、そもそもクラシック音楽が特別好きでもない自分にとってサービスを受ける理由が無かった。
そんな自分が、なぜかその日はそこに流れ着いた。

不思議なことにその日に限ってはジジイとのやりとりの記憶が一切ない。いなかったのかもしれない。
リスニングルームは先客が誰もいなかった。
慣れないシステムに引け目を感じながら、黒いソファに腰を沈めてコーヒーと甘味を注文した。

かかっている楽曲の名前は知らない。僕はこんな偏屈なところにチャージ料を払ってでも音楽を楽しみたいようなマニアではないし、なんならクラシック音楽なんてほとんど知らない。
部屋は薄暗かった。ソファの座り心地が良かったので少し安心して、思い切って背もたれに身体を預けてみた。
そのまま目を閉じると、音の津波に一気に埋もれた。

過去の偉人たちによる圧倒的な才能、情熱、表現の波は、僕のことなど全力で無視して、いや存在の認知すらしていないだろう。
踏まれて絶命しても気付いてさえもらえない小さな虫のように、僕の存在はその波の中では無いものになった。
とても心地よかった。

抗いようもない圧倒的な力に包まれる、それはまるで自然の摂理に飲み込まれるようで、海にさらわれるようで
人が形成した社会から僕をさらってくれるような救いがそこにはあった。

目を閉じて息を止めて、形がなくなったようにその場に沈み込む。
このままこの薄暗い場所で、どんどん沈んで沈んで、地中か深海にでも連れて行ってくれればいいと、僕のことなど忘れてしまいたい僕はぼんやりと考える。

深海は音の聴こえ方が違うらしい。
このピアノの音の濁流が深海にまで沈んだら、違う曲に化けたりするのだろうか。

でも人間にとって未知の世界であるという点で、深い深い海の底は宇宙の果てと同じというなら、宇宙と同じようにほんとうの深海にも音は存在しないのかもしれない。

音のない世界なんて頭の中がきっとうるさすぎるので、僕は深海に沈むのはやめようとそこで思い留まることができた。



春の陽気が容赦ないある日、第3月曜日午前11時、僕はまた喫音堂に出向いた。その日は珍しく、というかあの日以来初めてジジイがおらず、最初から彼女がいた。

いつもと同じようにコーヒーを注文してソファに身体を預ける。
その日流れていたのはリクエストノートに記載のあるフォーレの五重奏曲No.1だった。

初めて聴いた曲だったがピアノと弦楽の響きあいが美しく、
目を閉じて聴き入るとイメージの中に誘い込まれるような錯覚を覚えた。

瞼の裏で黒いバレリーナの夢を見た。

バレエというのは、単純にそれ単体でダンスなのだと何も知らない僕は認識していたのだが、喫音堂にたまに来ることでクラシックに触れるようになり、バレエという表現が楽曲と1対1の対の存在なのだということを知った。

もちろん全てのクラシック音楽に身体表現が寄り添ってきたわけではないだろうし、たまたまある時代のいくつかの楽曲にバレエが付随していてそれが有名であるというだけで、クラシック音楽のこともバレエのことも相変わらず僕はなにも解らないままなのだが

でもきっと楽曲を問わず、演目を問わず、バレエとクラシック音楽の間に普遍的な親和性がきっとあるんだろうと感じている。バレエに関係がない曲を聴いた時も、僕の瞼の裏ではたまにバレリーナが舞うようになっていた。

暗闇の底で彼女が踊っている。
途方もない地球の重みを受け止めるようなその場所でも、彼女の体は重力から解き放たれているように床をすべり、軽やかに伸びやかに回り、飛びたいところに飛んでいく。

そのまま暖かい海の闇に彼女は溶けて流れていく。


帰り際、レジの横に新しい貼り紙を見つけた。

「アルバイト至急募集 一名のみ 詳細は店長まで」

いないと思ったら、ジジイは辞めてしまったそうだ。

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