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ネガティブを受け容れて 自由に

恐怖。

わたしは、これを否定してきた。

そりゃあ、恐怖なんて、すぐさまバツ印をつけて、目に見えないところに追いやりたい。

でも、わたしは恐怖がすぐ側にいるような状況を、10年ほど続けてきた。

パニック障害、とか呼ばれちゃうやつだ。

*

発作は怖い。

自分のからだの感覚がなくなり、死をイメージしてしまう。

それが、日常のあらゆる場面で生じる。

決して「愉快ではなかった」かな。


わたしは、恐怖を否定した。

感情が不安・恐怖に動き始めると、必死にそれを押し込めて、見えないようにしようとする。

でも、うまくいかないことも多い。

でも、それは「克服する」ものだと、わたしはわたし自身の感情と闘い続けた。

いつか、勝利することを信じて。

――そんなわけ、ないよね。

疲れ果てたわたしは、完全にお手上げした。


お手上げしても、恐怖は付きまとう。

闘う気力がなくなったわたしは、自分の意志で制御できない、からだの反応や巻き起こる感情に成す術なく、不調の時期を過ごした。

それでも、いざという時は、「闘おう」とした。

「からだの不調は、必要だから起きている」と察し始めてからも、「闘おう」としていた。

こわいもんね。

でも、ある時、思い切って勇気を出して、恐怖に身を委ねたのだ。

そうしたら、恐怖は「バイバイ」と消えていった。

次もこうできるかは、分かんないけどね。


ポジティブとネガティブ。

白と黒。

そのように呼ばれる二極の、"ポジティブ" "白"を選んできた。

それ以外は認めないようにしていた。


二極に分けていたのはわたしだ。

"白"を目指すほどに、"黒"は濃く広くなる。

ピカピカの"白"を目指すわたしは、結果的に、世の中のほとんどのもの、自分の感情をも”黒”として、許容しなかった。

そして、わたしの取り分は限りなく少なくなり、わたしはエネルギーを失ったのだ。

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