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街を歩きながら

世界の戦跡や街の歴史を巡りながら近代史・物語などをテーマに作品を描いています。それらの取材の様子などを一部紹介しています。

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物語の様な美しい街並“チェコ共和国・プラハ”

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ヴァーツラフハヴェル プラハ国際空港よりバスなどを利用して中心部へ。徐々に石畳の道が始まり、美しい街並が広がっていく。道中には歴史的な建造物や社会主義時代の面影を感じる風景が残る。

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旧市街広場は美しくライトアップされファンタジー世界の様な風景が広がる。

プラハ城・聖ヴィート大聖堂

ゴシック様式で見る者を圧倒する迫力。思わず呼吸さえも忘れる様な神聖な空気に満ちている。

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チェコを代表する画家「アルフォンス・ミュシャ」による美しいステンドグラスが見られる。

聖人が見守る歴史ある橋

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神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世でもあった)の治世下、1357年に建設が始まり1402年に完成したカレル橋。プラハを流れる大きなヴルタヴァ川にかかっている。1841年までは旧市街とその周囲のエリアをつなぐ唯一の橋であった。橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいる。

叩き潰されたプラハの春

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1968年に起こったチェコスロバキアの変革運動「プラハの春」。自由化を目指した活動は当時のチェコスロバキア共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェクの指導によって押し進められた。自由な社会主義を目指したこの運動は、8月20日夜11:00頃、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻によって叩き潰された。

チェコ1

チェコ3

マルタ・クビショヴァーは自由を求める人々を励まし勇気づけるような歌を歌い続け活動の場を奪われた。長い地下活動の後に1989年のビロード革命の際にはヴァーツラフ広場に面したバルコニーで歌った。

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東西を引き裂いた冷戦の象徴“ドイツ連邦・ベルリンの壁”

第二次世界大戦後、敗戦国となったドイツは西ドイツとドイツ民主共和国(東ドイツ)に分裂。1961年から1989年までベルリン市内には東西を分断する壁が存在した。

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1961年に作られたベルリンの壁、その壁が崩壊してからの年月が壁のあった年を超えた。3mほどの高く頑丈な壁は人々にとって絶望の象徴であったのではないだろうか。

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ベルリンの壁で最も有名なペイント「兄弟のキス(Bruderkuss)」。ソ連 第5代最高指導者「レオニード・ブレジネフ」と東ドイツ 第3代国家評議会議長「エーリッヒ・ホーネッカー」が描かれている。

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ベルリンの壁の内側の様子。ここはかつては「死のエリア」であった。

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20世紀最大の悲劇の舞台“ポーランド共和国・アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所”

ポーランド共和国 南部の都市クラクフ。
クラクフは17世紀のワルシャワ遷都まではポーランド王国の首都であった、ポーランドで最も歴史のある都市の一つ。ここには第二次世界大戦中、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツがおこなった人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」がある。

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1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

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周辺には鉄線が張られている。当時は約220ボルトの電流が流され、収容所の過酷な環境に耐えられなかった人は、鉄線の電流を利用し自殺したとも言われている。

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薪などの燃料は供給されなかったと言われている。掛け布団は汚れて穴だらけの麻布のみであった。

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第11棟にある中庭には、連れ出された死刑囚が銃殺された「死の壁」があり、今でも花が手向けられている。他にもガス室・焼却炉・毛髪や遺品の部屋・首吊り台など……恐ろしい空間が広がっている。

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多彩な文化が花開いた街“ロシア連邦・サンクトペテルブルク”

ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展したサンクトペテルブルク。美術・音楽・建築そして文学……多彩な文化が花開いた街。ここにはエルミタージュ美術館やロシア美術館などの至宝を所蔵する美術館や歴史的な博物館をなどが多数存在する。

時代を超えて残る「美」の宮殿

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途方もない数の美術品が展示されるエルミタージュ美術館。

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レンブラント、ティツィアーノ、レオナルドダビンチ、ラフェエロ、ルーベンス、ベラスケス ……あまりにも偉大な画家の作品が無数に並ぶ美の殿堂。
一日では全室をまわることはできない。

美しいモザイクの教会「血の上の救世主教会」

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1881年3月31日、ロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺に由来するモザイクが美しい教会。
1917年のロシア革命以降、教会はソビエト政権によって略奪され、教会内部も損害を被った。政府の指令で1930年代初期に教会は閉鎖され、第二次世界大戦中は野菜倉庫として使われた。

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世界の果てを思わせる奇岩の地“トルコ共和国 カッパドキア”

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カッパドキアはトルコの中央アナトリアの歴史的地域。キノコ状の奇岩群の並ぶ世界の果ての様な景色が続く。奇岩の中には膨大な量のキリスト教壁画や、地下都市が遺されており、多様な様式で装飾された1,000以上もの教会・礼拝堂があるとされている。そうした歴史ある風景の中を気球に乗って体感できる。

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静かに残る防空壕“横浜市・日吉”

横浜市港北区日吉本町。静かな住宅地に囲まれた金蔵寺(日吉不動尊)。ここにはいくつかの防空壕が残されている。

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植物が生い茂り隠れる様に残る防空壕。入口は閉ざされ中に入ることはできない。防空壕_05

私が生まれ育った奥能登の町でもいくつかの防空壕が残されており、幼い頃は中に入ることもできた。暗く掘られた穴の中を思い出す……。

コラム

今では子ども達の遊び場にもなっている「こどもの国」も戦時中には弾薬倉庫として利用されたり、防空壕として利用され、悲しい時代の名残が残されている。

今に残る傷跡“東京・日本橋”

日本橋川に架かり、大手町1・2丁目から内神田1・2丁目に通じる橋で、外堀通りにある「鎌倉橋」。この橋には、市街地への空襲が始まった頃の痕跡が痛々しく残ってる。その欄干には、1944(昭和19)年11月のアメリカ軍による爆撃と機銃掃射の銃弾跡が大小30個ほど存在している。

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いくつか修復の跡も見られるが、いくつもの弾痕が残っている。

帝都の気配を伝える国旗掲跡”東京・秋葉原”

秋葉原・岩本町。和泉橋のそばの駐輪場に、古びた石柱が残る。

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「帝国在郷軍人会」のシンボルマーク星と錨が取り付けられた国旗掲揚台。中央には当時のものと思われる古びた木が残っている。

焼け残った電柱“東京・御徒町”

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JR御徒町駅より、都営大江戸線の新御徒町駅方面へ向かって徒歩およそ10分ほど。東京都台東区の住宅街に、東京大空襲をで被害を受けつつも焼け残った電柱がひっそりと残っている。

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現在残るものは陶器製のレプリカで、本物は異なる場所に保管してあるそうだが、近寄ってみてもわからないほどに精巧に作られており、被害の様子を知るには十分であると思う。

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最後に

2020年、新型コロナウイルスの影響によって海外への取材旅行がおこなえなくなった。そうした事をうけて関東の戦跡などを中心に出かけることにした。出先で出会った物や出来事をモチーフに幾つかの作品を描いている。

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