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読書メモ17 レジリエンスの時代ジェレミー・リフキン著 第12章

敗戦によって日本に植え付けられた観念の中で、最大•最強そしてあたかも永遠の真理であるかのように振る舞っているのが、「民主主義」ではないだろうか⁇
分かり易い顔「多数決」と「代議制」としっかり結び付いた傷つくことのない理想...              光

「災害が発生すると、政府の対応だけでは手薄で統治できず、緊急事態を監督できない。国民に呼び掛け、支援を求めることになる。若い世代は、代議制民主政治を、調整し、より幅広く、包摂的で、水平型の政治的関与を取り入れ始めている。緊密に絡み合っている生態系と生物群系と地球の諸圏の中にコミュニティを埋め込むのだ。国民の一人ひとりが統治の過程そのものの一部となる。
市民は、一生のうちにときおり陪審員となり、人を裁く。それと同じで、地方自治体は市民に協力を求め、『対等者議会』(ピア主導の能動的な市民議会)に参加して自治体とともに働き、自分たちの生物圏の統治について助言や忠告や提言をしてもらい始めている。こうした市民の議会は、陪審員団のように、正式で市民社会に深く組み込まれた統治の拡張部分であり、意思決定を水平化し、市民が統治に能動的に関与することを確実にする。地方自治体がバイオリージョン統治に道を譲っているのと同じで、代議制民主政治は分散型の『ピア政治』に道を譲りつつある」(p.334)

「自由を再フォーマットする
  自律性vs包摂性
ピア政治は、啓蒙運動と『進歩の時代』の鶏明期以来の自由の概念そのものの根本的な再考を意味する。

自由というモットーは、産業革命や資本主義の台頭と密接に結びついていた。がっちりと構成された封建社会では、農奴は文字通り土地に属しており 逃げ出すことができなかった。
一五世紀にイングランドで本格的に始まった大規模な囲い込み運動は、人々と土地との関係が根本的に変化する前兆だった。膨大な数の農奴が土地を追われ、自由に自分の労働を提供して報酬をもらってかまわないと言われ、プロト工業労働力の誕生につながった。
自由には、自律性が伴っていた。『進歩の時代』を通して揺らぐことのなかったこの自由は、消極的な自由であり、最近までそのようなものであり続けることになる。
ベビーブーム世代に続くX世代や、 ミレニアル世代とZ世代 では、従来の自由の考え方は、馴染みのない概念と見なされるようになった。彼らが育ったのは、所有からアクセスへ、交換価値から共有価値へ、市場からネットワークへ、排他性から包摂性へと変化していく世界だった。スマート・テクノロジーでつながったデジタル・ネイティブの世代にとって、自律性と排他性〜世の中から隔絶されること〜は、死刑宜告に等しいだろう。スマートフォンとインターネット接続がなければ、デジタル・ネイティブたちはお手上げだ。
自由とは自律性と排他性ではなくアクセスと包摂性と考え、自らの自由を、全世界で急増しているプラットフォームに参加するために自分が持っているアクセスの度合いで判断している。そして、彼らが考えている包摂性は、水平方向に拡がっており、ジェンダーや人種、性的指向、さらには命を帯びた地球の上の同胞たる生き物たちへの帰属さえも網羅することが多い。デジタル世代にとって自由とは、自分の生命と健全性を支えてくれている地球上の豊かで多様な主体のすべてとつながれることだ。

これが、新しい世界で出現しつつある自由の考え方だ。その世界はますます、相互接続したものとして経験され、そこではあらゆる人の幸福〜自由、と言ってもいい〜は、グローバルなデジタル・コモンズで蓄えられる社会関係資本と直結している。アクセスと包摂性としての自由が、ピア政治の政治的基盤となる」(p.338)

「アメリカの独立宣言も憲法も権利章典も、『民主主義』という言葉にはいっさい触れていない...『民主主義』はアメリカの建国者たちに忌み嫌われていた」(p.339)

「ピア政治は、代議制民主政治の延長であると同時に、代議制民主政治の欠点への対処手段でもある...意思決定はしだいに、バイオリージョンの最も身近なレベルで行なわれるようになるだろう」(p.340)

「熟議民主主義の提唱者なら、真に民主的な決定が正当と見なされるためには、『民意』に最もよく沿い、合意を反映している法律を目指すべきだ、と主張するだろう。多数決が基本姿勢であることが多いものの、それは成功よりも失敗と見られてしまう。ピア熟議のプロセスは、成果と同じぐらい重要だ。熟議の席に着くピア全員が自由に意見や見解を述べ、心を開いて他者の視点に注意深く耳を傾け、共通点を見つける努力をする必要がある」(p.359)

「私たちの種は、レジリエンスが際立って高く、極端な気候変動の歴史に耐え、適応する能力があることを示してきた。
自分たちが同胞の生き物たちと暮らす大地のレベルまで統治を引きずり降ろし、自分の地元のバイオリージョンの保全・管理を行なうことが、種としての将来を確保しつつ、これまで地球に加えてきた暴力の償いをする唯一の実行可能な方法だ」(p.365)

「同胞の生き物たちと共生する生態学的コモンズを育み、癒やすという使命を持って、各自のバイオリージョンで強力なピア政治に揃って参加する...この過程は、人類の生物学的側面に組み込まれている特質、深い共感的な愛着を同胞の生き物たちに対してまで拡げることで、私たちは自然界全体で仲間たちの懐に再び迎え入れてもらえるのだ」(p.366)

読むと欧米と日本の、「民主主義」の現状に対する大きな違いを感じる。
引用していないが、本章には欧米各地での「ピア政治」の実験的実例が多数紹介されている。
日本で考えると「災害ボランティア」等だろうが、(実情を知らないが)行政とボランティアの力関係は「水平」であるよりも、遥かに「垂直」に近いのではないだろうか? 

この違いは何に起因するのか?
考えてみると、やはり、日本の「民主主義」が、【外受容】であること、「受容」という物がそもそもそうである様に、「形式」「形態」からの導入である事 によっている のではないか。

「ピア政治」の例を読むと「町内会」が思い浮かぶ。
[若者の水平志向のピア政治]と[老人の垂直志向の町内会]が、一致する世界があるのだろうか?⁇

          光

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