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何者でもない自分とともに生きる

小学校の頃、社会の資料集に歴史上の偉人たちの似顔絵が載っていたのを覚えているだろうか。私はけっこう本気で、あれに自分も載りたいと思っていたし、載るような人間になると思っていた。

小学生にして座右の銘が「余の辞書に不可能はない」だっただけあって、自分への根拠なき自信がおそろしいほどあった。

高校までずっと成績優秀、部活でもよく表彰される優等生だった。しかし理由あって高卒でフリーターになった時、これまでの自己肯定感がガラガラと崩れ落ちた。

フリーターの世界では勉強なんか何の役にも立たなくて、食器をどれだけ早く洗えるかとか、お局ババアの機嫌を損ねないような立ち回りをすることの方がずっと重要だった。

あれから10年。自分は何者なのか、何のために生きているのか、何千何万回と問い続けてきた。いわゆる「自分探しの旅」にも何度も出た。

ガンジス川のほとりで、バンコクのカオサン通りで、ネパールの山道で、和歌山の滝の前で、自分とは何者なのか問うた。

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生きる意味を探すべく、自己啓発本だって悠に100冊以上は読んだ。そして30歳手前の今やっとわかったのは、自分は何者でもないということだ。

歴史上に残る偉人にはなれそうはないし、SNSのフォロワーだって多くない。特別美人でもないしめっちゃかわいいわけでもない。

サウナとジムにメンタルを支えられている、ごくふつうの独身アラサー女性だ。それでも、今の自分のことがいいなと思える。

そう思えるようになるまで色々な葛藤や数えきれない自己嫌悪の嵐があった。でもある時期に、「仕事ができるから自分が好き」とか「努力家だから」「頑張ってるから」とか外から理由付けをして自分を好きでいようとすることをやめようと思った。

自分のできること全て取り除いた後に残る自分の本体をみとめて、好きでいようと決めた。無能でめんどくさがりで情けなくなっちゃうような自分も。

全部は好きにはなれないかもしれない。でも「お前はお前だもんな」と丸ごと受け止めるようにしている。

人は自分が他者からどう見られるかを、自分の存在価値の判断基準にしがちだけど、他者から見える自分は、自分という多角形のほんの一面でしかない。いや、面といわず線にすぎないかもしれない。

そもそも、「自分は何者なのか」という問い自体、他者の存在をバチバチに意識した問いだ。

たとえば私が田舎町で神童と言われるほどの優等生だろうが、大学に行けば私以上の秀才はごまんといる。インドのことは一般的な日本人より詳しいけど、ネイティブのインド人には敵わない。

あるコミュニティの中で自分の特別性や優位が保てたとしても、そのコミュニティの一歩外に出れば、上には上がいる。

「自分の個性を発揮して、自分にしかできないことをしたい」という希望は誰もが一度は持つけれど、私は個人的に「私にしかできないこと」というのは存在しないと思っている。

インドの大学院だって、みんな少しばかり歯を食いしばってトイレから出てくるドブネズミや、スパイス激辛エブリデイに目をつぶれば行ける。

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他の人でもできる仕事だろうが、自分より格上の人が沢山いる領域であろうが、「こういう気持ちで取り組む」という気概の部分を大事にすればいいのではないだろうか。

母の友人で、コンビニおにぎりの製造工場に勤めている女性がいた。私も何度も会ったことがあるが、すごく心優しくて素敵な人だった。彼女はおにぎりの一個一個に、「これを食べる人が今日1日無事過ごせますように」という思いを込めているという話を母から聞いた。

仕事内容は特殊なものではないが、そんな気持ちでおにぎり作りに取り組めるってとっても素敵なことだ。

私もそんな風に気持ちをこめて仕事をしていきたい。

もう自分を探す旅には出ない。自分はここにいるから。これからも、何者でもない自分とともに生きていこうと思う。

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