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【エッセイ】アンチ不可思議論

 私は寺が嫌いだ。
 すでに墓も閉じたし、実父が祖母から引き継いだ仏壇も墓じまいのついでに閉じた。私が生きている間に親が死んだとして、私は仏壇に手を合わせる気もないし墓参りにも行かずしたがって、墓があったとしても荒れ放題になって朽ちるだけだと説明し、寺との関係を絶った。
 もちろん私が死んだ後も絶対に墓を作ったりはしないように妻にも頼んであるし、まぁこれは残された者の裁量にはなるのだけど、できれば骨も残さないでもらいたい。

痕跡不要

 何かの本で読みかじった知識ではあるが、遺骨を粉砕してパウダー状にする業者があるらしいので、そんなふうに粉々にして敷地内の土に混ぜたりフェリーを使って伊豆旅行でもするついでにこっそり海にばらまくとか、なんならトイレに流すとかでもいいのだけど(笑)とにかくできるだけ私が存在したという痕跡を消してしまって欲しいと思うわけである。
 家族がどうしてもという想いがある場合には、遺骨を更に融解再結晶化して宝石風の石に加工する業者もあるらしいので、最悪それでもいいけど、できるだけ残さないでもらいたい。
 なぜこんな風に思うかというと、寺や墓の話に戻ってしまうのだが、そもそも死んだ人間の痕跡を残す最たるものが墓でありそれを管理するのが寺であって、その痕跡のせいで人(特に日本人)はある程度その土地に縛られるような感覚を持ってしまうと考えるからである。
 例えば。
 せっかく陰気で良い思い出の少ない地元から離れ、最先端の技術開発などを職にして憧れの都会で明るく楽しく、もしかしたら家族を持って幸せに暮らしている人が「お盆だから」とかそういう理由のために陰気で嫌いな地元に帰省しなければならない。
 ご先祖の供養のために今、現在の陽気な暮らしを中断して陰気な気分で墓に参るのがそんなに大切なことだろうか?他の土地に暮らしてそこで生活しているのに、どこかで「先祖の眠る土地」というものに繋がれてしまってはいないか?自分の子孫をそんな不自由を与えたいか?私は全然そうは思わない。
 私が死んだとして、私はそこで終わっているわけで、例えば娘が結婚でもして幸せに暮らしているのなら、私のことなどは生涯思い出さずに、その瞬間の幸せにひたすら浸り切ってもらいたい。
 人は死んだらそこでぶっつりと終わって何も残らない。
 墓はその後に何も残らないはずの「死」というイベントをなんの根拠もない「魂」「霊魂」という概念と結びつけることに拠って強引に現実とつなげる手段であるとしか思えない。

魂?

 私は狭義の、「ニューエイジ」と似た概念を持つ所謂「スピリチュアル」というものが大嫌いである。

 私は瞑想をするが、これは全然このスピリチュアルと俗に言われる行為とは違う、極めて現実的で科学的で論理的で、宗教的な概念が皆無の行為であるからだ。
 呼吸を整え、血管を広げて血流を良くすることで肉体と自律神経の調子を整え、他の臓器と同様、脳の働きも活性化する。それによって現代人が抑え込みがちな右脳の働きを引き出し、創造力を高めることで、ポジティブで活動的な人生を送れるような手助けになるというあくまでも、肉体の鍛錬を伴った静のストレッチである。

 スピリチュアルというコトバを「霊的」という意味合いで使う人もいるようだが、これは墓や寺と同じで「救済」を商品として庶民に売りつける金儲けの手段で、商売である。
 商売だから需要と供給の上に成り立っているわけで、それを必要とする人がいる限りその商売自体を否定するわけにはいかない。

 ただ、私はそれが嫌いだというだけのことである。
 嫌いの根源は「霊魂」「魂」という根拠のない概念にある。
 霊魂ってなに?
 人が生きるということは、現実的に肉体が活動している結果であって、どこの何者ともわからない霊魂なんぞというものと結び付けないでいただきたい。
 脳や心臓を始めとする臓器が正常に動いていれば万全の形で機能し、どこかに不全が起きれば活動が低下する。そして主に血液の循環と呼吸が停止してしまえば生体活動が不能となりやがて崩壊するのであって、これは極めて科学的で理路整然としている。
 ここに霊魂の介在する余地はない。
 もちろん、人間である限り様々な要因で健康を阻害されることはあるが、それはあくまでも病気であったり不摂生に依る体調不良であって、霊的なもの、不信心者に対する先祖の祟り等では断じて無い。

 そういう事を言う人に出会ったら、先祖の霊とやらを自分に置き換えてよく考えてみればわかる。
 自分が死んでその後、その子孫が自分を敬わないし墓にも参らない、ならばその子孫を祟って病に伏せらせてやろう、そんなこと思うか?死んでるんだから当然思わないのだけれども、想定としてそういう考えを持つ先祖だとしたら、そんなもの端からありがたくもなんともないのだ。
 それは単に邪な存在であって、子孫の側から「あんたみたいな了見の狭いご先祖さんなんぞ、こっちからねがいさげでぇ、べらんめぇ」と啖呵を切り、絶縁して然るべきであろう。

きな臭い時代

 戦争が起きる。
 感染症が流行る。
 人が減り続ける。
 経済的に困窮する。
 自死を選択する者が多い。
 自分の子供を虐待する。
 自分の子供を殺す。

 先祖だの霊だのスピリチュアルがどうしたこうした。
 始祖の教義を拡大解釈した自称教祖が、身勝手な掟を作って似非宗教集団を結成し、藁にもすがる思いの庶民の生活を破綻させ、その屍を踏みにじりながら腕に高級時計を巻き、全身を着飾ってふんぞり返る。
 こういう輩がのさばるのは今現在のような、過渡期の時代である。

 権威と金に現を抜かし、寺が庶民を食い物にした時代、一休宗純は金儲けの手段と成り果てた似非宗教から離れ、釈迦や達磨が目指した肉体的現実的な人間の営みに飛び込み、破戒僧となって乞食生活を実践し、生涯を創造的な「人間」として生きた。

夢と現実

 根拠を持たない神。
 根拠を持たない霊魂。
 そんなものの存在は完全に捨てて、ただどこまでもその瞬間、目の前に確実に存在する「現実だけ」を観て生きていれば、人はいつでも楽観的に愉快に生きて行けるのだ。

 「夢」と「現実」は別次元の話ではない。
 「夢」は「現実」の世界でしか達成できない。
 「夢」は「現実」という地平上にある通過点なのだ。

 これだけは絶対に確実なことである。

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