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I LOVE YOUを少しだけ

ここは郊外の閑静な住宅地
その中の一件に結婚10年目を迎える良樹と菫(すみれ)は住んでいる。
良樹は、ごく普通の会社員、ただ最近の例に漏れず、3日程前から出社せず自宅で仕事をしている。
妻の菫も今は専業主婦だけど、ついこの間まで近くのスーパーでパートタイマーとして働いていた。
裕福とまでは言えないけど特に何に困る訳でもなく、子供もいないのでそれぞれお互いの趣味や交友関係を活かし楽しい毎日を過ごしていた。
それが今はこんな事態を迎え、思わぬ事に多少の不安を覚え、戸惑っているところだ。

「やだ、こんな時にバイオハザードなんて、よくそんなの観てられるわね」
リビングに入って来た菫が呆れて良樹に文句を言う。
夕食を終え、それぞれの部屋で寛いでいる時間だった。
「良いじゃないか映画くらい何でも、それに君だってさっきからタイタニックを観てるじゃないか」
良樹は多少のストレスを感じて口を尖らせて言い返す。
「あら何だ、知ってたの?」
「音が聞こえるよ」
「あら、そ」
菫はキッチンに行き冷蔵庫を開け、冷えたウーロン茶をグラスに注いでさっさと部屋に戻って行く。

部屋に戻ると親友の香澄からLINEが届いていた。
〔どう?そちらの様子は?〕
〔もうサイテー、テレワークだなんて言ってるけど、何だか一日中家でウロウロされると全く鬱陶しいわ〕
〔ウケる〜(^O^) ウチも似たようなものよ〕
〔家の事何にもしないからさ、こちらの仕事が増える一方よ〕
〔まあまあ、そうカッカしなさんな。緊急なんとか宣言なんだし、仕方ないわよ〕
〔全く、早く収まってほしいものね〕
〔体調だけは崩さないでね〕
〔うん、そちらも何かあったら連絡して〕
〔わかった。じゃね〕
〔じゃね(^ ^)〕

菫はふーっとため息をついた。
テレビは止めていたDVDに代わってニュース番組が映し出されていた。最近はイヤなニュースばかり続くので近頃はあまり見たくなかった。
でも丁度お天気コーナーだったから、菫は少し安心してソファに身を沈めて何となくテレビを眺めた。

「ねぇ、2階のベランダに来てみない」
リビングのドアを開けて菫は良樹にそう声を掛けた。
「え?どうしたんだい?」
と訊く良樹を手招きして2人して階段を昇りベランダへ出る。
寒さも少し和らいでいた。
良樹はベランダに出るとすぐそれに気がついた。
「やあ、今日は満月だったのか!それにしてもやけに明るいね」
菫はニッコリ笑って
「そうよ、スーパームーンて言うんだって、今テレビでやってた」
「へぇ〜そうなのか、知らなかったよ」
良樹もうっとりした様な目で夜空にくっきり浮かぶ満月を眺めた。
2人は一時黙ってそれを眺めていたが、菫が何かを思いついた様に
「そこに座って待ってて」
とベランダの隅に置かれた丸テーブルとベンチを指差す。
「なんだい?」
「いいから、いいから」
と菫は階段を降りて行く。
良樹は思い出していた。このベランダは家を買った当初菫が花を育てたいとガーデニングの真似事を始めた場所だ。細やかながらもいくつかの鉢植えやプランターが置かれ花が植えてある。夜だからあまり詳しく見えないが一度昼間に見てみたいなと思った。
「お待たせ」
菫が戻って来た。はいっと言って良樹にワイングラスを差し出す。
「おやなんだい?これは」
と良樹はグラスを手にして不思議な顔をする。
「あたしの通ってるお料理教室の先生が結構ワイン通なのよ。それで良いシャンパンがあるからって頂いたの」
「へぇそうなんだー」と
良樹はワイングラスを目の高さに持ち上げてみた。炭酸の泡がグラスの中を適度に弾けていた。
「じゃ乾杯しましょ」
「ああ、そうだね」
二人はグラスの淵をカチッと合わせる。
良樹はベンチに座って、菫は立ったまま静かに月を見ながらグラスを傾ける。
「お、なかなか美味しいじゃん」
「でしょ」
菫もまんざらでもなさそうに微笑む。
「あ、見て公園の桜が見えるわ」
「ホントだ、綺麗に咲いてるなぁ」
「丁度見頃の時期ね」
「こんな時じゃなかったら夜桜を楽しめたのにね」
「うふふ、これで充分よ。スーパームーンに夜桜、ここから見えるんだもん」
「そうだな」と良樹も微笑む。
なんとなく、二人静かにその雰囲気を楽しんだ。
良樹は思っていた。
結婚してから二人でこうやってシャンパン飲むのも夜桜見るのも、ましてや月を見るのも随分久しぶりのことだ。いや初めてかな?
忙しい日々が続いたからなあ。
でも何となくいい気分だ。
菫も同じ様に
ああ何だかこうして二人で話して微笑み合うなんて最近少なかったよねと思っていた。
たまには良樹の自宅勤務も悪くないものだなと考えたりもした。

「でも、綺麗だねぇ、月」
良樹が言った。
「ホント綺麗ね」
菫もうっとりして言った。

月が綺麗・・
昔、明治の文豪が訳したその言葉。元々は何という英文だったか、おそらく二人は知らないだろう。


それから暫くして良樹も菫もお互いの部屋に戻った。
もうバイオハザードもタイタニックも続きを再生されなかった。
二人は濃厚接触する事なく、それぞれが心地良く充分な睡眠を摂った。

時として自然はこうして人に思いがけないプレゼントをしてくれることもある。
案外いい夜になったかもしれない。

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