見出し画像

短編小説:定点観測(三人組の女)

僕が今よりもずっと若かった頃(二十代後半だ)、今と同じ電車で通勤をしていた。時間で言えば三十分、駅で言えば十駅、その繰り返しに身を委ねていた。一本の線の上を、くねくねと曲がりくねる線路の上を、何の疑問も持たずに、筆でなぞるように。その気になったら何処にだって行けたのに、目に見えない鎖に縛られて同じ線の上を、抵抗もせずに、不思議な三人組の女達と一緒に。

僕がホームに立つと中年の、多分四十台半ばの女性が隣に立った。その当時の僕は、目的の駅の階段の登り口に一番近い車両に乗っていたので譲ることの出来ない場所だったんだ。電車に乗り込むと中年の女性は既に乗車している別の女に挨拶をした。二十代半ばだったと思う。髪が長くて小柄で綺麗な人だった。十人男性が居たら九人は彼女を否定する人はいない。一人くらいは偏屈な男がいる。そのくらい彼女は標準的な美人だった。次の駅で三人目の女が登場した。彼女は三十台半ばで背が高かった。百七十センチはあったと思う。彫の深い日本人離れした一度見たら忘れられない顔だった。それがいつもそのパターンだった。ごくたまに誰かが欠ける時はあったけど、ほぼ三人。僕が途中で下車したから彼女たちが何処で降りたかは最後までわからなかった。

彼女達のおしゃべりは話題が尽きなかった。取るに足らない世間話ばかりだったけど、隣で聞いていて嫌な気分になったことはなかった。人となりもなんとなくわかった。一番年上の女性は結婚をしていて会話では常に二人の聞き役で良いお母さんという感じだった。若い女性はどうやらもうじき結婚するらしかった。話題は彼女から提供され、それについて三人で話し合う、というパターンだった。たとえば最近の結婚式場の傾向、みたいな話しだ。具体的で僕が知ってる場所もたくさん出てきた。そのうち共通の知人が出てくるんじゃないかと思ったくらいだ。(結局は最後まで出てこなかったけど)
三番目の女は証券会社で働いているようだった。彼氏は居ないみたいだった。「職場はおじさんばかりで良いなと思っても結婚してるのよ」と言っていた。どこも同じなんだと思った。いつの時代も。

一度だけ、僕の話題になったことがあった。「今日、髪を切ってるよね?」と若い女が言った。
「聞こえてますけど?」と思ったけど、堂々と語られ始めた。その後どんな話に展開したのか、そもそも最後まで僕に聞こえていたのか忘れてしまったけど、彼女たちは無邪気だったし僕は若かった。
野球の話になったこともあったな。「球団の名前ってたまに変わるよね」から「名前全部言える?」みたいな展開だったと思う。
彼女たちはひとつひとつ球団を言い始めた。巨人、阪神に始まり広島、西武、日本ハム、ヤクルト…。でも最後の球団がなかなか出てこなかった。僕は教えてあげたい衝動にかられた。「近鉄バファローズだよ」と。
今考えたら、彼女たちの話題に加わる、顔だけ知っている、名前も知らない関係から抜け出すチャンスだったかもしれない。でも僕はやり過ごした。勇気がなかったし何よりも今の方が居心地良かった。(これじゃまるで告白をためらう少年みたいだ)今の牧歌的で穏やかな朝の雰囲気を壊したくなかった。今じゃない。いつかまた機会は巡ってくると言い訳して。でもそれはやってこなかった。

しばらく経つと、もうすぐ結婚するという女の子が消え、彼女たちは二人になり、そのうち、どちらかが居なくなり、僕も、たぶん仕事の都合で違う時間の電車に乗り、顔を合わせる事はなくなった。

一度だけ大きなデパートで証券会社の女を見かけた事があった。彼女はプラダの前で何かを熱心に見ていて微動だに、しなかった。けどそれだけだった。あの三人を見かける事は二度となかった。でも何故あの三人だったんだろ思っていた。世代のばらばらなあの三人はそもそもどこで知り合ったんだろう?仕事も違う三人がどうして同じ時間の同じ車両にあえて乗り合わせる約束をしたんだろう?それは当時の僕の中の大きな謎だった。それはいまだに解けてない。たとえそれがとても単純な理由だとしても。

先日、その証券会社の女を見かけた。大きな子供と小さな子供とご主人と思われる男と一緒だった。それはいかにも平凡な家族に見えた。それが略奪婚であっても連れ子婚であっても未婚の母と愛人であっても、僕の知らないところで僕とは無関係に時は進んでいた。

彼女は当時の僕が欲しかった答えを持っていた。その気になれば、僕が本気になれば、強い欲求があれば、聞き出す方法をいくつか立案できたかもしれない。
でも何もしなかった。何も思いつけなかった。
「知らない方が美しい」僕はそう、心の中で言い訳してその場を後にした。
膨大で不可逆的な時間の流れが横たわる大きな川を背にして。

僕は明日も、あの頃と同じ電車で通勤する。
不毛な通勤電車は今も変わらない。
遠くはあるけど限られた狭い世界の中を行ったり来たりする。膨大ではあるけど残りが限られた時間を使って、鎖につながれたままあの線路の上を。でもこれが正しい事なのかそろそろ真剣に考えた方が良い頃なのかもしれない。それでも間違いなく、あの頃、三人組と一緒に通勤していたあの瞬間は僕に何かを与えてくれた。まだ僕が何者でも無かった、何も持ってなかったあの頃の僕に、間違いなく。それが何だったのかわかったころ、僕は今のこの呪縛から抜け出せるのかもしれない。


この記事が参加している募集

恋愛小説が好き

朝のルーティーン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?