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小説を読むときに情景が浮かぶか否か

今日は、言葉とイメージについて考えてみようと思います。

タイトルにあるトピックを提供してくれたのは、去年の秋にロンドンで出会ったアートディレクターの村口麻衣さん。お互い似た仕事やロンドンでの自己内観を繰り返していて、出会ってからよく美術館に一緒に行ってもらったり、話の壁打ちになって貰ったり、刺激を沢山いただいています。

そんな彼女から聞いた興味深いハナシが、小説を読みながら、そこに綴られている景色をビジュアルとして脳内で再生するタイプの人と、そうじゃない人がいるらしいこと。あなたはどちらですか?

私は以前の記事(ときめきの気持ちの在り処)にも書いた通り、小説に出てくる景色から人物まで結構詳細にイメージを膨らませるタイプなので、イメージ無しで小説を読む人がいるということを想像したことがありませんでした。

そこで、後日別の友人たちとのデザイン思考について話し合う会でも皆に尋ねてみたところ、ビジュアライズしない派とする派で半々くらいに分かれました。

でも、しないからといって何も感覚を得ていないわけではなくて、やっぱり小説が映画化されたときに「何かが違う」みたいな違和感は起こり得る、と言っていたのが興味深かったです。

そこでさらに教えて貰った面白いハナシというと、ひとつは最近愛知県に出来たジブリパークの園内にあるレストランでは、物語に出てくるメニュー(ハクのおにぎりとか、カルシファーの焼いたベーコンとか)は敢えて提供していなくて、その理由は、ジブリアニメを鑑賞する私たちがそれぞれに思い描く「味」を再現することは出来ないから、というのが興味深かったです。

ほかにも、漫画Beckが実写化されたときに「奇跡のような歌声」を敢えて再現せず、無音で表現した(見る人達の心の中でその歌声を想像してもらえるように委ねた)というのも、似たような事例として教えてもらいました。

物語を通じて私たちの五感はいろんな方向から刺激されているということ、そして、その配分(視覚、嗅覚、触覚、、)は各々結構個性があるということが分かったことが収穫でした🌾

社会人になって忙しくなり、小説を読む機会がガクッと減り、代わりに何か具体的な学びを得るための本を読む傾向が強まったのですが、数ヶ月前に久しぶりに村上春樹さんの本を読んだとき、物語で学べるのは世界にたくさん存在する抽象的であいまいな境界線の取り扱い方なのかもしれない、と感じさせられました。
世の中のほとんどのことは白と黒には分けられず、色んな濃さのグレーを受け入れていく懐や、理解する想像力に委ねられています。そんな力を培うのに小説はうってつけだなぁと改めて感じたので、少しずつまた読んでいこうと思っています。

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